2016年1月10日日曜日

明治38年(1905)8月28日~9月 第10回日露講和談判で談判終結(ポーツマス) 「桂を見限る決心。翌三十一日より筆鋒を桂内閣に差向くる」(池辺三山日記) 「鳴呼、鳴呼、鳴呼、大屈辱、大屈辱。」(『萬朝報』社説) 

京都御苑 2016-01-02
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明治38年(1905)
8月28日
・御前会議で賠償金・領土要求放棄の最終講和成立方針決定(26日第9回談判結果の小村電をうけて)。小村寿太郎全権に訓令。後、北緯50度以南の樺太割譲要求を訓令。

韓国に対する日本の保護権確保、遼東半島の租借権獲得、ハルビン~旅順間の東清鉄道譲渡など、開戦目的である満韓問題が解決している上は、賠償金・割地の要求は放棄しても、講和成立が急務と結論。
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8月29日
・清国、米から粤漢鉄道敷設権回収。
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8月29日
・夜、木下、堺、幸徳、石川は相談会を開き「同志諸君よりの提案及び忠告を参酌」して「平民社の改革」を協議。
9月3日発行『直言』第31号に「今後の平民社」と題してその決定を発表。
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8月29日
・ポーツマス、第10回講和談判。
午前10時、秘密会議。ロシア側は「無償、樺太南部譲渡」に変更なし。日本側は樺太占領を既成事実として認めるなら、賠償金要求徹回すると回答(最終訓令は南部割譲)。日露合意。
10時55分、本会議。談判終結。
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8月30日
・講和問題同志会、屈辱的講和反対声明。
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8月30日
・池辺三山(41)、賠償・領地での大幅譲歩を知り「桂を見限る決心。翌三十一日より筆鋒を桂内閣に差向くる」(日記)と書く。

池辺三山:
日清戦争時、筆名「鉄崑崙」でフランスより「日本」(陸羯南)に「巴里通信」寄稿、筆名を上げる。帰国後「日本」入社。「経世評論」主筆柴四朗(東海散士)が「東京朝日」入社話を持込み、羯南もこれを勧め1896年入社。1907年、漱石入社を進め、退社させられかけていた二葉亭四迷を救う。日露開戦では対露強硬策を主張。政府首脳と頻繁に会う。
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8月30日
・台湾総督民政長官後藤新平、宇品から大連に向う。「満州経営策梗概」を満州軍総参謀長(兼台湾総督)児玉源太郎に説明するため。
9月2日、大連着。4日、奉天で児玉に意見書を渡し賛意を得る。
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8月31日
・閣議、講和成立報告・休戦条約案議決。天皇裁可。小村へ訓令。
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8月31日
・米鉄道王(ユニオン・パシフィック、セントラル・パシフィック、サザン・パシフィックなど経営)エドワード・ヘンリー・ハリマン、来日。朝野熱烈に歓迎。
10月12日、1億円の資金提供・南満州鉄道の共同経営に関する予備協定覚書を桂首相と結ぶ。
16日、横浜発。
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8月31日
・「大阪毎日新聞」、講和条約全文をスクープ。「大阪毎日新聞」はワシントン常設通信員オラフリン(ルーズベルトと交友関係)に会議報道を依頼、「国民新聞」(政府の御用新聞)と通信交換契約。
ポーツマスへの特派記者:「報知新聞」石川半山、「国民新聞」浜田佳澄、「やまと新聞」正岡芸陽。
在米記者をポーツマスに派遣:「朝日新聞」福富正竹、「万朝報」河上清、「時事新報」大西理平。30日のポーツマスからの「朝日」福富正利特派員の特電は当局に差押えられて一本も入電せず。
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8月31日
・「東京朝日新聞」、この日より投書を大きく掲載。9月4、6日は一面全面。
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8月31日
・この日付け『萬朝報』社説
「条約改正の事業、幾度か歴代の当局者によりて企てられたるも・・・卑屈醜辱の跡依然として存するや、衆論熱湯の如く沸き・・・甚だしきは遂に当路者を路に邀撃(ようげき)してその一脚を奪ふの惨劇(来島恒喜の大隈外相襲撃)を演ずるをも忌まざりしに非ずや・・・国民的大問題に関しては国民的大運動を要すること、凡そ斯(かく)の如くならざる可らざるなり。・・・鳴呼、鳴呼、鳴呼、大屈辱、大屈辱。」
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9月
この月
・小村全権、韓国保護国化につき米大統領の了解をうる。
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・鈴木文治上京。帝大青年会、本郷教会(海老名弾正)所属。
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・吉野作造「社会主義と基督教」(「新人」)。
翌10月、「再び社会主義と基督教に就きて」(「新人」)。社会主義者とは一線を画すが、社会問題の解決の必要性では提携出来る。「人心改善」が急務。
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・小山東助「社会改良の将来」(「新人」)。漸進的社会改良主義主張。
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・日露講和条約反対の多数の新聞に発行停止処分。
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・漱石(38)、短編小説「一夜」(「中央公論」)        
 この小説を夏目に書かせるために毎週のように通って来ていたのは、「中央公論」の編輯者で東京帝大法科に籍を置いていた滝田哲太郎(23歳、秋田出身、仙台・第二高等学校から東大文科、明治37年法科に転じる)。
「一夜」は、観念的な現代小説で、よい出来ではなかったが、滝田は漱石に心酔し、次作をもとめて夏目家に通いつづけた。滝田は書や絵に興味を持っており、紙を持って来て夏目に書を書いてもらった。夏目は気特を落ちつけるために時々書を書いたので、書を書かせる滝田が気に入っていた。
「新小説」で後藤宙外の下で働いていた本多嘨月(しようげつ)も家が夏目家の近くであったので、しょっちゅう立ち寄っては、戦後の日本文壇に対する批評を求めた。
本田は夏目の小説をほしがっていた。この時代、「新小説」は「中央公論」よりももっと文壇の中心にある重要な発表機関であったが、夏目は中々承知しなかった。

■「中央公論」と滝田哲太郎
滝田哲太郎が入社した明治36年の「中央公論」の印刷部数は1,000部。うち300部は寄贈用、年極め読者と店頭で売れるのとを合せて300部、残り400部の返品が毎月、麻田社長の私宅兼社の玄関に積み上げられていた。

「中央公論」の前身は「反省会雑誌」。
維新前、国禁を犯して米国に渡り、キリスト教徒となって帰った新島襄が、明治8年11月に京都に設立した同志社は、発展して明治18~19年頃には確実な基礎を持つに至った。
そのことは、京都を本拠とする仏教の各宗団に大きな影響を与えた。新時代の文化の急激な流入は、キリスト教精神と結びついたものであった。キリスト教は仏教に見られない積極的な方法をもって、青年たちの心を揺り動かしていた。仏教・神道は廃滅した宗教であるかのような感じを世に与えた。この頃、僧侶の生活は乱れ、若い僧たちの遊蕩は大目に見のがされるようになっていた。仏教は老人たちの宗教で、キリスト教は進歩的な、未来の夢想を抱く青年たちの宗教となっていた。

西本願寺の法主大谷光尊は、そのような時代の中で仏教に新しい道を開くために、同志社に対抗するような進歩的な宗教教育の計画を立て、中等教育と高等教育を目的とする二つの学校(普通教校と大学林)を作った。普通教校では、仏教再建の目標として「禁酒進徳」という標語を掲げ、明治19年4月6日、反省会なる団体を結成した。

そして翌明治20年8月、機関誌として「反省会雑誌」が創刊された。反省会の中心人物は普通教校の監事の里見了念、執筆者は、高楠順次郎、桜井義肇、古河勇、梅原融等。この雑誌の出る半年前に、同志社の出身者、徳富蘇峰によって「国民之友」が東京で創刊され注目を浴びていたが、「反省会雑誌」は地方で発刊された宗教教育の機関誌であり、評壇の注目を引くことはなかった。

明治25年5月、新門主の大谷光瑞はこの雑誌を独立させる計画を立て、反省雑誌社なる経営体を組織し、題を「反省雑誌」と改め、本拠を東京に移した。西本願寺系の桜井義肇と麻田駒之助が、それぞれ編輯主任、庶務主任となり、外に篠原温亭という事務員がいて、社員は全部で3人であった。当時の東京には民友社の「国民之友」、博文館の「太陽」、政教社の「日本人」、内村鑑三の「聖書之研究」、竹越三叉の「世界之日本」等の評論雑誌があり、「反省雑誌」の部数はせいぜい1,500部~2,000部で、「聖書之研究」の3千部にも及ばなかった。

明治30年8月、「反省雑誌」は「国民之友」にならって夏期附録を特輯した。巻頭に岡倉天心の「美術教育の施設に就て」という論文をおき、作品として露伴の「雲のいろいろ」、子規の「滝」、樗牛の「わが袖の記」、鉄幹の「小百合」、虚子の「零露五十顆」等の散文と詩歌をのせた。この文芸特輯はよく売れた。この頃反省雑誌社では英文の「反省雑誌」も出しだが、2~3年で終刊になった。損害はすべて西本願寺の門主大谷光瑞が負担した。

欧洲留学から帰国した仏教学者高楠順次郎のすすめにより、明治32年1月号から「反省雑誌」は「中央公論」と改題した。編輯主任は桜井義肇は宗教学校の経営方針のことで本願寺内局と対立し、明治37年、独立して「新公論」を創刊した。そのため「中央公論」の編輯出版の全権が麻田駒之助の手に帰した。「新公論」は、一時は2万5千部に達したが、経営に失敗して3年ほどで廃刊になった。「中央公論」は麻田の経営に移ってから、「新公論」に押されながらも、どうにか存続していた。発行部数は1,000~2,000部の微々たるものだった。

明治37年1月、岡山県人で、白鳥正宗忠夫の親しい友、秋江徳田浩司(29歳)が「中央公論」編輯主任として入社。明治34年、彼は正宗白鳥とともに東京専門学校を卒業し、博文館編輯部で「中学世界」編輯助手となったが、半年足らずで辞め、母校の附属出版部に勤め、正宗忠夫と一緒にいた。徳田は気分屋の怠けもので、仕事を正宗に任せ働かなかった。彼は在学中から、島村抱月が編輯主任をしていた「読売新聞」の「月曜附録」に小説の批評を書いたりして、文壇通を任じていた。徳田は、一時「中央公論」編輯室を小石川小日向台町の自分の家に移し売りしたが、結局麻田の期待するほどの仕事をせず、半年後に辞めた。

当時、仙台・第二高等学校をから東大に入っていた滝田哲太郎が「中央公論」の「海外新潮」欄を受け持って、切抜き翻訳で学資を稼いでいた。明治37年に秋江が辞めたあと、麻田は、高山覚威を編輯主任とし、滝田を編輯実務に当らせた。前の文芸特輯がよく売れたので、高山と滝田は小説を毎月載せることを麻田に建言した。しかし、麻田駒之助は宗教畑出身であり、「反省会雑誌」以来のこの雑誌の道徳的立場を棄てることができなかった。文芸作品を載せれば売れることは分っていたが、この頃から文壇小説は次第に変質して、前年の明治36年「読売」に連載されて読者の人気を博した小杉天外の「魔風恋風」などのように恋愛の露骨を描写をするものが多くなっていた。高山と滝田が小説を載せることを主張したとき、麻田はその執筆者について心配し、すぐには受け容れなかった。結局故高山樗牛の友人で、高等師範学校の教授の竹風登張信一郎に頼むことにした。

登張竹風は、東京帝大独文科の出身でこの時数え年32歳。明治34~35年頃、高山樗牛がニーチェの思想を論じ、それを坪内逍遥が「馬骨人言」という題で攻撃したとき、樗牛の擁護に立って、逍遥とその弟子島村抱月を相手に論争を続けた。明治35年、竹風はニーチェの思想を背景とした小説「あらひ髪」を書いたが、それ後は評壇に顔を出さなくなっていた。
登張竹風は教育者、評論家で、同時に小説も書く人物だから、あまり行儀の悪いことは書かないだろうという考えで麻田は同意した。

明治38年初め、登張竹風から「出来心」という小説が送られて来た。それを読むと、冒頭に「妾は貴君に惚れました」という一句があった。麻田は当惑して、「これだから小説はいけない。上品なものでこれだから、普通の小説家だったらどんなことを書き出すか知れない。この原稿はお返ししょう。」と言ったが、そのあとを読むと別に差支えのないものだと分ったので、明治38年3月号に掲載された。この作品はゲオルギイの翻案であった。4月号には滝田自身が、ツルゲーネフの「猟人日記」の一章「森と野」を訳して載せ、5月号には柳川春葉の「炉のほとり」を、6月号には泉鏡花の「女客」を載せた。以下毎号小説を一篇ずつ載せて、9月号には漱石の「一夜」が載った。

「中央公論」はこの頃から次第に売れるようになり、3,000部、5,000部と印刷部数を増して行った。しかし、明治38年漱石の「吾輩は猫である」を連載した「ホトトギス」が3千部内外を刷っていたのであるから、「中央公論」は「ホトトギス」級の二流雑誌に過ぎなかった。

滝田哲太郎は「中央公論」に樗陰迂人(ちよいんうじん)という名で「雑誌評判記」などを連載していたので、次第に樗陰と名乗るようになった。彼は文学に志があり、作品の質の理解にすぐれていた。熱心な性格の青年なので、作家たちを訪ねると、秋田弁で彼等の仕事を励まし、意見を述べた。彼はその真剣な態度によって、作家たちに好まれていた。
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・谷崎潤一郎(19)、第一高等学校英法科文科に入学
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・葛西善蔵(18)、再度上京。哲学館(現、東洋大学)聴講生となる。
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・窪田通治(空穂、前年に「電報新聞」入社)、処女歌集「まひる野」出版。与謝野寛、尾山篤一郎、土岐善麿などが賞賛。

この年7月、独歩の「独歩集」が近事画報社から刊行されたとき、窪田は「電報新聞」の新刊紹介欄でこれを取り上げ、異例の長い批評的な紹介を書いた。彼は東京専門学校在学中、友人の水野葉舟、平塚篤等とともに同人雑誌「山比古」を出し、特に乞うて独歩の「運命論者」を載せたことがあり、それ以来、独歩に対しては親しみを抱いていた。また当時窪田と同宿していた吉江喬松(早稲田中学勤務)は、独歩に近づいて、しばしば近事画報社へ遊びに行ったりしていたが、やがて早稲田中学で英語を教えながら、近事画報社にも勤めるようになった。「独歩集」に対する窪田の紹介が出たとき、独歩は大変喜んで、これは「独歩集」の紹介や批評のうちで最も良いものだと言ったことが、吉江から窪田に伝えられた。
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・この秋、南方熊楠、粘菌標本46点を大英博物館に寄贈。イギリス菌学会会長ア-サ-・リスタ-の目にとまり、東京帝国大学三好教授が送った標本に続き、「日本産粘菌第二報」としてイギリス植物学雑誌「ジャ-ナル・オブ・ボタニー」第49巻に発表され。以後、世界的粘菌学者として評価高まる。
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・英、労働組合会議(TUC)、8時間労働と自由貿易を要求。
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・ハンガリー皇帝、普通選挙法の導入示唆。
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・露、1891年以来最悪規模の飢饉が発生。
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・マゴンら,セントルイスでメキシコ自由党結成。労働運動指導。機関紙「再生」(レヘネラシオン)発行。共有地返還、8時間労働の実施など。アナーキズムの立場から3度の武装蜂起、失敗。
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