京都御苑 2016-01-02
*『ゴヤ』Ⅲ 巨人の影に
「私がこれを見た。」 ""Yo lo vi""
フランシスコ・ゴヤ
「余は、貴官がスペイン情勢に関して余を誤らせているのではないか、また貴官自身誤認をしているのではないか、と恐れている。貴官は武装解除された一国を攻撃するのだなどと信じてはならぬ。スペインを従えるための示威部隊をしか貴官は持っていないのだ。三月二〇日の革命は、スペイン人民にエネルギーのあることを証明している。貴官はまったく新しい民衆とかかわりをもっているのである。彼らは勇気にみちている。
貴族と聖職者がスペインの主人なのだ。もし彼らの特権と存在が怯かされるとなれば、彼らは一団となってわれわれに対して立ち上り、戦争を永久化するであろう。
軍は如何なる遭遇をも避けよ、スペイン軍とのそれであれ、分遣隊とのそれであれ。如何なる側面においても、導火線に火をつけてはならぬ。もし戦争に火がついたら、一切は失われる。」
皇帝ナポレオン・ボナパルト(ミュラ将軍への指令・抄)
絢爛たる悪意
アルバ公爵夫人の死後、七ヵ月間、ゴヤは何もしなかった。
・・・
そうして、悲しみと苦悶を語りあうための、長年にわたる友人であって同時に教導者でもあった大知識人たちは、政治の流抄に、・・・呑み込まれる犬のように、次から次へと追放され投獄されて行った。
・・・
この時期(一八〇二~〇八)のゴヤの仕事は、例によってまことに多彩であり、・・・。しかし、・・・主なものは、やはり肖像画である。そうしてこの時期ともなれば、ゴヤはもはやモデルに対して如何なる遠慮も会釈もする必要がない。彼が何の興味ももつことの出来ぬ退屈な人物は、退屈なままに描かれ、彼が嫌悪を覚える人物は、時間をかけて眺めてさえいれば、画布の奥からその嫌悪がおのずから滲み出て来るのである。また依頼主が公共の機関であって予算が不充分であったりすれば、たとえモデルが誰であっても、遠慮会釈をしない。ゴヤをも含めてのマドリードの現状批判派にあれほどに愛読され、版画集『気まぐれ』にその影を落している筈の、『パンと闘牛』の著者ホセ・バルガスの肖像がその一例であろう。
このバルガス氏がアカデミイの理事になったについて、アカデミイは彼の肖像画を誰かに描かせて掲げようとする。氏はゴヤとも共通の友人であったホベリァーノスに手紙を書いて依頼をする。
・・・私はゴヤが描いてくれることを望み、彼にこれを提案して、丁重にうけいれられました。しかし私はあなたが彼にひとこと申し伝えて下さるようお願いしたいのです、・・・もしこの泥の瓶(にすぎぬ私自身)がアカデミイに掲げられるとしたら、醜いお面などではなくて、彼ゴヤが本気になった時の作品のように描く、そういうものに描いてもらいたいからです。
このホペリァーノスへの依頼文は、多くのことを語っているようである。モデルに興味がなければないで、ゴヤはまったく冴えないお面のようなものを無遠慮に描いてしまう。
バルガス氏の場合はどうであったか。遺憾ながら、氏自身が言うように、高いカラーで首を絞め上げられた「泥の瓶」のようなものとして描かれた。おそらく『パンと闘牛』の著者として、その論旨の大要にはゴヤも共鳴していたのに違いもなかったろうが、何分にも著者が猛烈な闘牛反対論者であったことが災いしたのであろうというのが、大方の解釈であった。・・・この肖像画の注文主であるアカデミイには、おそらく予算がなかった。あわれにバルガス氏は右手はチョッキにナポレオン風に突っ込まされ、左手は背中へまわされることになり、指どころか片手をさえろくに描いてもらえなかった。
もう一つの手ひどい例は、ペルーのリマ選出の議員、法律家で大金持のプラーポ・デ・リベーロ氏の場合である。
この植民地出身の議員は、軍服風な燕尾服様のものを着、勲章をぶちさげて銀の柄つきの剣を佩刀、手にした帽子には銀の飾りふさと赤い日の丸型の帽章がついていて、靴には拍車、右手に鞭をもち、いまにも馬に乗ろうかとしている全身像なのである。そばには犬までがいる大仰なものだが、ゴヤは途中で飽きてしまったらしい、リベーロ氏はまるで木のデクである。
・・・これをじっと見ていると、ゴヤ自身がモデルと作品自体の出来に呆れてひそかに笑っているかのような、そのしのび笑いが画面から聞えて来るような気がして来るものだ。
・・・このリベーロ氏とゴヤとの関係は、一八〇八年の政治変動以後の情勢をいささか象徴していると思われるので、少し先走ってしるしておきたい。
一八〇八年三月のアランホエース謀叛と称せられる叛乱でカルロス四世が退位し、皇太子のフェルナンド七世がかりそめの王位についたとき、リベーロ氏はその即位を祝うために、ゴヤと助手のアセンシオ・フリアに依頼して自邸を飾り、ペルー人民の忠誠を誓うためにその装飾中にフェルナンド七世の肖像を入れさせた。その次に、この王がカルロス四世ともどもナポレオンに追い出されてナポレオンの兄の、旧ナポリ王ジョセフ・ボナパルトがホセ一世としてマドリードに入って来ると、今度はこのホセ一世に市会議員に任命され、リベーロ氏が「高貴なる絵画芸術に通暁」(!)しているところからして、議会が、氏にホセ一世の徳を頌し、あわせてマドリードのアレゴリイ画を描く画家の選任をまかせだ。
リベーロ氏は当然、自身の肖像を立派に(!)描いてくれたゴヤを選び、画中にメダルのかたちでこの”侵入王 El Rey intruso”の肖像画を描くことになった。このマドリードの歴史の推移を描いたアレゴリイ画中のメダルは、しかし、スペイン人民の戦った独立戦争によって一八一二年、ジョセフ・ボナパルトが追い出されると、そこを塗りつぶして今度は ""CONSTITUCION”(憲法)ということばが描きこまれ、ついでフェルナンド七世が戻って来て極端な反動政治が行われるようになると、”憲法”はフェルナンド七世の肖像に変る。そうしてリベーロ氏は全財産を没収される。このマドリードのアレゴリイ画のメダルの部分は、今日では”DOS DE MAYO”(五月の二日)ということばが描き込まれている。
・・・ゴヤとマドリード、いやスペイン全体に起って来ることの概略をあらかじめ予告するためにしるしておくことにした。・・・
そうしてもう一つの奇怪な作品は、軍人アルベルト・フォラステール氏の肖像である。
この六六歳の王立獣医学校長官は、・・・剣をわれわれの方へ突き出すかのような穏かならぬ構えで突っ立っているのではあるけれども、その弛緩した口許は、ゴヤの強い視線による凝視と観察に耐えかねて背景へ逃げ出したいか、あるいはゴヤに軍事機密を察知されることを拒否しているかのような風情である。
先に私が、奇怪な、と言ったのは、実はこの軍人そのものについてではなくて、その背景についてであった。というのは、この肖像画の下に、もう一つの肖像画があった。X線による検査によると、そのもう一つのものは、ほかならぬ宰相マヌエル・ゴドイ像であった。ポルトガルのある画家の手になるものであったが、いったいどういうわけで飛ぶ鳥をも落すまじき威勢のゴドイ像の上に獣医学校長官を描いたものであったろうか?
この絵が描かれた一八〇四年は、ゴドイが平和大公として威勢絶頂時であり、他人の描いたその肖像をナイフで削り落して単にカンバスとして使ったというのならはともかくも、そうではなくてその上へじかにこの獣医学校長官を描き、しかも右側にはゴドイ用の緞帳や、花瓶と剣の柄などをのせた机がのこっていて今日でも明らかにそれと見てとれるのである。
・・・
もっともゴヤは、早い時期の伝記作者であるイリアルトによると、彼が肖像画を描く際は、
すべての訪問者は遠ざけられ、親しい人だけが部屋の隅で、しかも不動の姿勢でいなければならず、モデルは、これはもう殉教者といったものであった。眉をしかめても、疲れた手足を伸ばしても、とにかくちょっとでも動くと、ゴヤは怒り出してパレットを放り出してしまった。
という我儘ぶりであるから、老獣医学校長官は中途でモデルになりに行くことに厭気がさし、従ってもとのゴドイの肖像に付随していた細部もそのままで、絵はゴヤのアトリエで埃をかぶっていたということになっていたものであるかもしれない。
この絶望的な時期のゴヤの精神の波動とその振幅は実に甚しいものがあったようで、次のような逸話までが伝えられている。
ある日、アカデミイでの会合の際に、ある批評家が公衆の面前で彼の近作に見えたある欠点に言及したとき、ゴヤは咄嗟に自身の羽根つきの帽子をとりあげてこの批評家の頭にぐいぐい押しつけ、帽子が批評家の肩まで達したところで、
「批評家君、こういう帽子をかぶっている強いアタマを尊敬することを学び給え!」
と言ってのけだというのである。
しかし、この時期の肖像画の仕事は、言うまでもなく、バルガス、リベーロ、フォラステール三氏のそれのような興の乗らない駄作ばかりではない。
例によって(と言いたくなるほどに)女性のそれに秀作が多いのであるが、男子像のなかではフェルナン・ヌーニェス伯爵像は矢張り傑作の一つである。
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