2017年9月1日金曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月1日 足立区、荒川区、江戸川区、大田区、北区の証言 「〔1日〕夕暮れ近くなった頃、.....朝鮮人が復讐を企てて、諸方の井戸に毒薬を投げ入れたり、集団で強盗をはたらいたりしている、というような噂が伝ってきた。」

大正12年(1923)9月1日 関東大震災 対策責任者は元朝鮮総督府政務総監(水野錬太郎内相)と同警務局長(赤池警視総監)
から続く

西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 - 東京地区別1100の証言』による追加
大正12年(1923)9月1日
〈1100の証言;足立区〉
岩尾研
〔1日、竹ノ塚に〕向島から歩いて帰ってきたんです。帰ってきた時はもう朝鮮人さわぎで、1日から5日間、毎晩、毎晩、朝鮮人さわぎでもって、猟銃を打つ、石油缶をガンガンたたいてみんなをねむらせないようにね。とにかくみんなでたたいて村中で警戒した。とにかく寝かせないんですよ、全然。寝かすと殺されたり、いろいろと悪いことをされるからということだったんです。
(日朝協会豊島支部縞『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

仁口関之亟〔当時西新井村東京紡績株式会社勤務〕
〔勤め先がぺちゃんこになり〕次に来たのが「流言蜚語」で、1日夕方頃からだれ言うともなく「在留外国人が、日本に対する反感から東京中の井戸の中に毒を入れて、日本人を皆殺しにする」という噂が広がり、私らも従業員として、にわか作りの竹槍を持って、夕方から朝まで徹夜で工場内、及びその周辺を見回りしたが、別に異常はなかった。私は9月3日の朝頃、東京市中がどうなっているかと思い、一人で社宅を出て、徒歩で西新井橋の北詰めまで来たところ、警戒中の数人の日本人に呼び止められた。
(足立区環境部防災課編『関東大震災体験記』足立区、1975年)

根本秋一〔下谷竜泉寺町で被災。1日夜、北千住荒川堤で流言を聞く
流言飛語が乱れとぶ ー 津波がくる? 反乱が起きた! 自衛のために武装しろ。井戸に毒を入れられたから水は飲むな等々 - 
〔略。3日〕焼け跡に行って見る。父も姉も元気でバラックを建てていた。姉は自鉢巻に竹槍を持って立っていた。
(品川区環墳開発防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記集』品川区、1978年)

高原たま
〔1日〕家は3時頃には焼けてしまいました。千住大橋近くの神社の境内に避難したのです。幸いなことに、常磐線線路を境に鎮火したので、その夜三河島の親戚へ落ち着いたのですが、今夜は〇〇人が襲ってくる、男は皆棒のようなものを持って表へ出るようにといわれ、又相つぐ余震に夜眠ることも出来ず、町会役員の方もこの際田舎のある人はそこへ行くようにとの指示に、父の郷里前橋へ行くことになり、3日早朝に出発しました。
(足立区環境部防災課編『関東大震災体験記』足立区、1975年)

〈1100の証言;荒川区〉
松本一郎
〔1日、日暮里で〕その夜は又朝鮮人が暴動を起したと言う流言で、生きた心地なく避難する有様。通行人の誰かが、今どこそこの警戒地域は朝鮮人によって破られたと言う様な事を言って通る為、朝鮮人なら片端からスパイ扱いにして目をおおう残酷な方法で、目前で殺されて行く何人かを見た。暑い時で白いワイシャツは赤く血に染まり手をがんじにしばられて尚惨劇はくり返し、道路のあちこちにその人達の死体が横たわっていた。当時ラジオがあったならば此の様な惨状にはならなかっただろうが、朝鮮人には誠に相済まない気特が深く、一日本人として罪を謝したい。
(震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)

〈1100の証言;江戸川区〉
小松川・平井地区
現在の荒川放水路西岸の小松川橋・総武線小松川鉄橋付近での証言が多い。
江戸川区は震災の被害がほとんどなく、隣接する墨田区・江東区から多数の避難民が流入し混乱した。また千葉県の習志野騎兵連隊や市川国府台野重砲連隊が治安出動した地域でもあった。

小松川警察署
鮮人暴行の流言管内に伝わりしは9月1日午後8時にして、これと同時に鮮人に対する迫害もまた開始せられ、本署に同行し来るもの多数に上りしを以て、翌2日軍隊の援助を求めて警戒及び鎮撫の事に従いしが、同3日に及びては本署に収容せる鮮人400名を算せり、これに於て郡・村長、村会議員、青年団長等と共にその善後策を協議せる結果、同5日鮮人全部を軍隊に引渡し、軍隊にてはこれを習志野に護送せり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;大田区〉
K・S〔当時国鉄職員〕
1日午後3時過ぎ、大井モーターカー作業所から〕大森へ着いたら「横浜刑務所で朝鮮人を解放したのが、東神奈川で井戸に毒を入れた。東京方面へ押寄せて来る」ということで引き返した。
家は大森にあったが、地震では大丈夫であって、家族は一かたまりになって、近所中の人々も1ヵ所に集っていた。夜になると男たちは全員で警戒に出なければならなくなった。「朝鮮人を見たら殺っちまえ。」日本刀、カシ棒、戸締りのシンパリ棒などを手に持って空家を物色して歩いた。
ある空家で40歳位の朝鮮人が「助けてくれ」と出て来た。丁重な人だったが、5、6人で囲んで交番に突き出した。みな、日本人の事しか考えないで、有無を言わせず集団で行動をした。人間は、生か死だったら、何事も考えないで出来るという感じであった。

〔略〕その夜〔2日夜〕、私の家から300~400メートル先の下宿屋で、長崎県五島列島から来た東京外語大学の学生が殺された話を聞いた。言葉がおかしいというので、いくら下宿のおばさんが説明しても、殺気立った自警団は聞かずに殺されたのだという。
翌朝、大森の鉄道線路のギワで、竹槍をのどにつき刺されて殺されている朝鮮人の死体をみました。当時の大森駅は、鉄道草といわれている丈の高い雑草におおわれた土手状の線路で、夏草におおわれた淋しい駅でした。
社会主義者と朝鮮人ということは、普通の日本人の家庭には、親兄弟や知人にも、共産党というものについての知識がまったくなかったから、火つけ人、強盗、謀反人として国家の仇位にしか思っていなかった。誰もが社会主義者を嫌がっていたし、社会主義者には、常時、2人以上の警察官がついていた。物を買うにも金はなく、震災後の見通しも立たない時期に、社会主義者と朝鮮人は何をするか解らないから殺してしまえ、間違えばこちらがやられるの風潮が出来上ってしまっていた。普通の日本人の家庭では、普段は朝鮮人も社会主義者もまったく知らなかった。
〔略〕私の知っている朝鮮人事件は、横浜刑務所の囚人解放に始まって、スガモ監獄の囚人とか、小菅監獄の囚人とか、ひっきりなしの噂話になったように覚えています。
(三原令『聞き書き』→在日韓人歴史資料館所蔵〕

市村光雄
〔蒲田の争議団で地震直後の3時に〕近所のご婦人連がどやどやと入ってきて、朝鮮人が油を持って六郷のふもとまで押しよせてきたというのです。〔略。何事もないまま解散〕また夕方になると同じようなことをいって来るのです。
(「純労・南葛労働会および亀戸事件旧友会聞き取り(4)」『労働運動史研究』1963年5月号、労働旬報社)

荒井力雄〔当時高輪中学校1年生〕
〔1日の〕夜になると、外国人騒ぎが始まりました。翌日〔略〕東海道を行って学校裏から馬込村のほうへ入ると、自警団の人たちから「コラコラ!」と呼びとめられました。「お前たち、鉢巻きをしなくちゃだめだ!」というので、私は持っていた手ぬぐいで、ねじり鉢巻をしました。ところが、蝶次の弟は後ろで結ぶ鉢巻きをしたので、「それでは間違えられるよ」と教えてやりました。当時鉢巻のしかたが日本人と外国人とでは違っていたのです。
(羽田地区町会連合会編『羽田町民の体験詩集・関東大震災』羽田町会連合会、1978年)

〈1100の証言;北区〉
鈴木忠五〔裁判官、弁護士。滝野川の姉の家で被災〕
〔1日〕夕暮れ近くなった頃、どこからともなく、また誰いうともなく、朝鮮人が復讐を企てて、諸方の井戸に毒薬を投げ入れたり、集団で強盗をはたらいたりしている、というような噂が伝ってきた。これは地震や火事以上に怖ろしいことである。そんなことはデマにちがいないと考えながらも、人々は半信半疑で大きな不安につつまれていった。近所の人たちがよりより話しあって、自警団をつくることになり、2、3人ずつで付近の警戒にあたるもの、井戸を監視するものなど、それぞれ役割をきめてさっそく実行しはじめた。
(鈴木忠五『青春回想記』谷沢書房、1980年)

氏名不詳
〔1日〕やがて上野駅付近から下町全体は猛火に包まれ、火と津波におびえる数十万の避難者が日暮里・田端の高台を目ざして押し寄せて来た。
〔略〕夜になっても電灯はつかず、もちろんラジオもなかったので不安はつのるばかり、そこへだれいうとなく西ヶ原の火薬庫に火をつける者がいたとか、井戸の中に毒を投げ入れる者が現われたとかたいへんなデマが飛んで、みんな恐ろしさにふるえた。町では自警団を作ったり、在郷軍人会や青年会や町内有志で自発的に見回ったりして自衛につとめたが、女や子どもはまったく生きた心地がなかった。
(「北区立滝野川第一小学校創立六十周年記念誌」→近藤富枝『田端文士村』講談社、1983年)

村上信彦〔作家、女性史家。根岸から田端へ避難〕
〔1日夜〕朝鮮人がこの震災を利用して暴動を企てているというのである。品川に朝鮮人が3千人上陸し、こちらに向かっているという、まことしやかな情報まであった。そして銃撃戦が起ったとき流れ弾にやられないようにというので、田端の家では蒲団をたくさん積んでバリケードにし、その蔭に寝た。それほどこの噂は真に迫っていた。私はここへ来る途中の坂道で会った、額の割れた青年の顔をふと思い出した。もしかしたら彼は朝鮮人だったのではあるまいか。朝鮮人であることで傷つけられ、追われていたのではないかと思ったのである。
(村上信彦『大正・根岸の空』青蛙房、1977年)

つづく
【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月1日(その3) 江東区、品川区の証言 「亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。」



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