2018年10月21日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その26)「・・・「昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ」 「その屍体は?」 「川の中や、焼けている中へ捨てました」 その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。・・・」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その25)「「男子は皆中央広場へ集まれ、.....今朝鮮人が3千人程品川沖へ上陸したという情報が入ったから、我々はこれを迎え戦うのだ」 時間はもう夜中の12時頃であったと思います。大人の人達は既に400〜500人位は集まったようです。.....どの顔にも血走った目が光り異様な雰囲気でした。.....集まっている人達は別にどこかへ移動する様子もなく、ただ中央広場に集まってお互いに何かガヤガヤと騒いでいました。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
松浦幾蔵〔当時正則英語学校学生〕
「竹槍を振って鮮人2名を刺殺 鮮人の暴動鎮圧に参加した学生の帰来談」
〔宮城前広場で〕警備団の組織された2日から僕もその団員の一人に加入し竹槍を握って鮮人2名を突き殺した。此奴は獰猛な奴で市中を暴回って来たものらしい。鮮人の暴動がないなどというのは全然嘘だ。現に僕の如きは竹槍党の一人として奮戦したのであるから決して間違いはない。
(『山形民報』1923年9月6日)

三宅敬一
私が9月2日午後丸内を通った時、某新聞社は盛んに鮮人襲来を宣伝していたが、これは警視庁から頼まれてやったものとのことである。
(『東亜之光』19巻1号(1924年1月新年特大号)、東亜協会)

本山志津江〔当時東京市立京橋高等小学校普通科1年生〕
〔丸の内で〕2日の日から鮮人騒ぎがあったので男だけ外に女子供は皆仮小屋にとじこもっていた、さわぎのすごさときの声をあげて男と鮮人と戦った。
(「大震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)

渡辺富久子〔当時尋常小学校5年生。京橋区木挽町で被災、球場前広場へ避難〕
〔2日夜明〕そのうち、いろいろ不安な噂が飛び交いました。朝鮮人が井戸へ毒を入れたとか、朝鮮人と社会主義者が暴動を起こしたとか、捕まった朝鮮人が数珠つなぎにされて自警団の人たちに連れて行かれたとか・・・。
(渡辺富久子『大空にかける希望の虹 - 付・人生の指針 - 後進の皆さんに』私家版、1988年)

麹町日比谷警察署
9月2日の夕、鮮人暴行の流言始めて管内に伝わるや、人心の動揺甚しく、遂に自警団の組織となり、戎・兇器を携えて鮮人を迫害するもの挙げて数う可からず、本署は未だその真相を詳かにせざるが故に、敢て警戒と偵察とを怠らざりしといえとも、しかも種々なる現象より観察して真なりとの肯定を与うる能わざるの状況なるを以て、不取敢(とりあえず)民衆の軽挙妄動を戒むると共に、将に迫害を受けんとする鮮人60名を本署及び仮事務所に収容して保護を加えたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

東京鉄道局
〔2日〕午後7時50分抜刀鮮人千名が品川方面へ来襲したとの飛報があったので、右防備打合せの為め参謀本部へ貨物自動車1輌を急派すると共に自動車全部を挙げて兵員輸送の手配をした。〔略〕不逞鮮人暴行に対する流言蜚語が伝わり各所共人心恟々として不安に脅かされている折柄、恰も新宿駅には陸軍兵器支厳より関西線津田駅宛の火薬が一部積込まれてあったので右出貸主に交渉し兵員護衛の下にこれを引取らせた。
〔略。4日〕・・・・・本日近衛第二連隊第二大隊第六中隊が東京駅に来着し、ここに大隊司令部が置かれることになったので、一同愁眉を開いて執務することが出来るようになった。
(鉄道省・老川慶喜編『関東大震災・国有鉄道震災日誌』日本経済評論社、2011年)

『北海タイムス』(1923年9月5日)
「鮮人十数名を銃殺 いずれも爆弾の携帯者」
2日夜東京駅付近にて朝鮮人十数名警備隊の為銃殺せらる。鮮人は爆弾携帯者ならん。
(『北海タイムス』1923年9月5日)

〈1100の証言;千代田区/神田・秋葉原〉
小林勇〔編集者、随筆家。当時20歳〕
翌日〔2日〕は、その頃大久保に住んでいた兄の安否をたずねた。兄は無事だった。帰途「牛込へ来た時、武装した青年団や在郷軍人たちがひどく騒いでいるので、何事かと思い、きいて見ると、朝鮮人が放火したというのである。それから帰途は全部朝鮮人騒ぎで大変であった」とあり、ノートには〔略〕「もし仮にそんな朝鮮人が少しくらい現れても当然ではないか。日本人が日頃この人達を迫害圧迫している罪悪に較べれば彼らのお返しの方が小さい」と記した。〔略〕
「朝鮮人騒ぎ」のために「自警団」が組織され、2日の夜から交代で夜警に当たった。私は朝その仕事から解放された時、岩波茂雄が下町の方へ行ってみようといった。〔略〕佐久間町の狭い一郭が残っていた。川岸に近い所に電車が一輌残っている。2人は中へ入って一休みした。「中には一人の男がいて」私達は問答をした。
「えらいことでしたね」
「まったくえらいことですね」
「ここらも大分朝鮮人騒ぎをしていますね」
「ええもうひどいですよ。ようやく焼け残った所を放火されたのではやり切れませんからね」
「実際朝鮮人は放火したのでしょうか」
「ええもうひどい奴らですよ。どしどし殺してしまうのですね」
「殺したりするのですか」
「昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ」
「その屍体は?」
「川の中や、焼けている中へ捨てました」
その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。そして私はノートに書いている。「こんどの惨害の中で一等不幸の目に会ったのは朝鮮の人々にちがいない。彼らも同じ人間で同じ地震にあい、同じ恐怖にさらされた。そのうえ生き残った人間に殺されるかもわからないとは何ということだ」
(小林勇『一本の道』岩波書店、1975年。「 」内は当時のノートからの引用)

神田西神田警察署
9月2日午後1時頃より、鮮人暴挙の流言行わるるや、民衆は自警団を組織して警戒の任に当ると共に、戎・兇器を携えて鮮人を迫害するに及び、本署は鮮人保護の必要を感じ、爾来検束を行えるもの数十名の多きに上れり。〔略〕収容の鮮人は衣食その他を給与して厚く保護を加え、9月8日に至りて習志野収容所に引渡したり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく






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