2018年10月15日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その24)「2日目の夜になって不逞鮮人が放火し、井戸に毒を入れる由が盛である、各自警戒しろという貼紙が各警察署長の名前で出ている。警視庁が始めたなという事を思った。日比谷公園では警察署長が触れているのに出会った。3日目に戒厳令が布かれてからは、そんな触れや掲示はなくなった。一旦大衆を煽動しておいて後から戒厳令を布くとのけてしまった。何故こんな根も葉もない事を警察がやるかというと、手前共がいつも鮮人をひどく圧迫して来たために、こういう動乱期には鮮人が何をやるか恐ろしいのだ。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その23)「鮮人200名余り或は船に乗り或は泳いで月島に襲来した。そこで兵士が25名ばかり警戒のために上京し「鮮人は殺してしまえ」と命令したので島民は必死となって奮闘し片っぱしより惨殺した。それは実に残酷なもので或は焼き殺し或は撲殺し200余名の血を以て波止場を塗り上げられた。そしてさきに捕縛した者まで殺しつくした。〔略〕自分なども最初の一人を殺す時はイヤな気持もしたが、3人4人と数重なるに従って良心は麻痺し、かえって痛快な気特になってあった。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉
内田良平〔政治活動家〕
2日午前11時頃〔略〕3名の日本大学生の服装をなしたる鮮人ありて〔略〕付近の避難民等はこれを捕えんとし追い駈けたるに招魂社裏門より社内に逃げ込みたるを2名はこれを撲殺し1名はこれを半殺しにしたる儘、取調の為め陸軍軍医学校に入れたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・秉洞縞『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
池内たけし〔俳人〕
〔2日夜、華族会館内の馬場で〕乏しい蝋燭の火で淋しい第二夜を送る。突然〇〇〇〇〇〇の噂が来る。折角ようやく安心して眠りかかっている天幕の中の女や子供を俄に起して後ろの暗い庭の木陰に避難させる。灯を全く消す。馬場の中に避難している2、3軒の家の若者達で俄に防禦の一団を編成する。手に各々〇〇〇〇〇を持つ。親父も一団の中に老人として若い者に劣らず〇〇〇〇をして、手に日頃〇〇〇〇〇〇ものを引さげて立つ。私はあり合うものもなかったので、家財の中に見当った能狂言に使う木太刀を持つ。夜目には其の○のようにも見える。久しく襲来を待ったが遂に流言蜚語に終って何者の影も見えない。
〔略。3日夜〕またまた〇〇〇〇〇前夜に増し○○が厳しい。市中に渡って敷かれた戒厳令で兵士が帝国ホテルの門には立っているという。焼け残ったこの一画を特に警戒しなければならぬとあって一夜また一睡もせず。提灯を灯して各々若い人々で厳しくこの一画を守る。○○を突き提灯を提げて暗夜のこの界隈を警戒して歩く。
ホテルの厩に怪しのものが侵入したと誰かが伝える。たちまち大騒ぎとなる。兵士も駆けつけて来て集まった若い人々と共に厩の中を隈なく探す。厩の馬が驚いてはねる。怪しい人影は見えない。一同拍子抜けの形で引上げようとすると、暗闇の中で誰かいたぞと呼ぶ。そら行けと皆声のする方に駆けつける。駆け寄って見ると、何の事だ。一人の老婦が荷物を背負って、ホテルの裏からとぼとぼと闇の中に現あれる。お助けなすって下さい。私は麻布の娘の所まで参る者ですと泣声で云う。一同余りのことに笑って散る。
〔略。4日夜〕今宵から華族会館裏門にも警戒の兵士が立つ。暗闇に歩哨の○がぴかぴかと光る。
(たけし「震災日記 鎌倉に行くまで」『ホトトギス』1923年11月号、ホトトギス社)
小西嘉兵衛
〔2日夕方、丸ノ内大川田中事務所で〕 そうするうちにあたりが昏くなって来た。そこへ警官が来て、宮城前へ移っていただきたい、警戒上諸々方々に散らばっていることは不便でもあり、かつ流言が横行して人心不安の折でもあるからとの注意である。一同は先刻までの畳の上で寝られる期待を捨てて、追い立てられるように宮城前の楠公銅像下へ露宿するに決めた。
宮城前は昨夕よりもずっと多くの避難の人が詰めかけて、芝生の上は一杯だった。心労とこれから先の不安とに動揺しているこれらの避難者のどこからともなく流言が盛に伝えられて来た。詳細を記すことは事更に避けるが、その一つは「この大地震を期に或る不逞の輩が暴動を起し、今既に品川辺りで警官軍隊と衝突を起して目下格闘中である」と。「だからこの丸ノ内も遅かれ早かれ襲撃を受けるだろうから、その時は男は総て何かステッキか棒でも持って立向っていただきたい。吾々は不逞人が見えたら直ちにお知らせするから、その時はこの丸ノ内にいる人達はまず一斉に鯨波の声をあげて下さい。そしていかに多くの人数がいるかを知らせて、不逞の輩の気勢を挫くようにして下さい」と避難の人達の間を説き回っている人々もいた。
午後8時頃かと覚えているが、凱旋道路の方面に当って物凄い鬨の声が起った。戦々兢々たる罹災者達は「ソレ来たッ!」とばかりにこれに和して出来る限りの声を張り上げて「ワアーッ」とどなった。全くその時の鯨波の声は物凄いものであった。津波が押し寄せて来る時はかくもあろうかと思われる程で、寄せては退き、退いては寄せ、次第に高調する悲壮な人間の叫び声は大火災を映す赤黒い夜の空にこだました。
これが静まってしばらくすると、日比谷署の警部らしい正服の警官が属僚2、3人を連れて、罹災者の間を縫ってやって来た。「今、大きな声を出したのは誰ですか、愚にもつかぬ流言蜚語にだまされて鬨の声を挙げたのは誰方ですか、不逞の徒が襲うなどということは全く根もない嘘言です。安心して我々を信用して下さい。ここをどこと心得ていますか、宮城前ですぞ。場所柄もわきまえず大声を挙げたりすると、今度からその人を真先に検挙します!」と慰撫ともつかず、警告ともつかぬ注意があった。一同は先刻のが流言蜚語に属する無責任な噂だった事に気が付いて、それからは大分静かになった。こうして9月2日の夜は楠公銅像下に我々一家は露宿の夢を結んだ。
(小西喜兵衛『関東大震災の思ひ出』私家版、1939年)

佐々木
1日には何ともなかったのが、2日目の夜になって不逞鮮人が放火し、井戸に毒を入れる由が盛である、各自警戒しろという貼紙が各警察署長の名前で出ている。警視庁が始めたなという事を思った。日比谷公園では警察署長が触れているのに出会った。3日目に戒厳令が布かれてからは、そんな触れや掲示はなくなった。一旦大衆を煽動しておいて後から戒厳令を布くとのけてしまった。何故こんな根も葉もない事を警察がやるかというと、手前共がいつも鮮人をひどく圧迫して来たために、こういう動乱期には鮮人が何をやるか恐ろしいのだ。
(「震災当時を語る(座談会)」『大衆の友』1932年9日名号→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

清水一雄〔京橋区南小田原町で被災〕
〔地震後すぐに「津波だ!」との流言。日比谷交差点で夜を過ごし、2日午後5時丸ノ内広場で〕多くの巡査が一団となって何事か協議している。そのうちに一人の巡査が我等の所へ来て、「今夜は灯をつけてはなりませんよ。今夜8時、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。お互いに気をつけて下さい」と言った。言は簡単だが、その顔色、その言葉のもの凄さよ。さながら死を決して戦陣に臨むかの趣があった。僕等はすっかり怯え上った。そしてどこと目的地はないながら、大急ぎにここを立った。三宅坂に来ると、交番の前に黒山のように人が集まって、口々にただ一人の巡査に問うていだ。「○○は今何処まで来ていますか?」「青山方面は安全ですか?」「四谷は焼けませんか?」「火事は今どこですか?」「どこが一番安全ですか?」大勢の勝手の質問に巡査は面食らって、ただ「何事もハッキリ分りません」と答えるのみだった。〔略〕仕方なく僕等は三宅坂を上って行った。丁度上り切った所で、幾百人の兵士が騎馬で突進する、砲車が走る、喇叭が鳴る、さながら戦地の光景なるを見た。○○の来襲! いよいよ真実なのかしら?
〔略。2日夜〕僕等は女子学院跡の御料地内に入って一夜を明すことにした。〔略〕「ソレッ! 一人そっちへ行ったぞ! 袴の男だ!」と叫ぶ声がする。「ピリピリッ」と合図の警笛が鳴る。多くの監視はドッと走って行く。間もなく一人の書生らしい男がつかまえられて来た。しかしそれは果して○○であったかどうかは解らなかった。やがて夜は明けた。
(中央商業学校校友会編『九月一日 罹災者手記』三光社、1924年)

志村勇作〔宮城守衛の衛兵所詰めで記録係の任務にあたる〕
〔2日〕午後9、00 皇軍警察より、不逞鮮人約200名青山御所に向って、襲来するとの報告があり。直に歩兵教導連隊長に、右の旨砲兵伝騎を以てす。
午後11、55 賢所衛兵司令に、実弾使用の件通報す。
午後12、05 連隊より軽機関銃到着す。午前0時45分より1時5分まで池田守衛隊司令官の巡察をする。往々、日比谷公園及び二重橋広場方面の、避難民の喧騒甚だし。
(「近衛歩兵の現役中、関東戒厳勤務に服務した」震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)

正力松太郎〔政治家、実業家。当時警視庁官房主事〕
次に朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。
大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして1日夜ごろから朝鮮人が不穏の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ富坂警察署からまたもや不逞鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。
折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。私は直ちに警戒打合せのために司令部に赴き参謀長寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高指揮官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。
その後、不逞鮮人は六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどの報告が大森警察署や品川驚察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。
(正力松太郎『正力松太郎 - 悪戦苦闘』日本図書センター、1999年)

つづく



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