2018年10月3日水曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その20)「2日午後3時頃上野東照宮横にある木立の間に避難民等が荷物を山積し置きたる際、上着なき洋装年令30以内の日本人と法被を着たる30歳位の鮮人との2人〔略〕自警団が捕え〔略〕群衆は激昂してこれを殴殺しつつありたり。.....」    

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その19)「あのじぶん朝鮮人てのは埼玉でも千葉でも駅のまわりで朝鮮人が来たなんていうとすぐ殺されちやって。あんときやそうとう殺されただろう。日本人だって田舎の人なんざまちがえられて殺されたんだよ。.....ごくろうさまといえない奴はあやしいって殺されちゃうんだ。まちがえられて殺された人もそうとういるでしょうね。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
石毛助次郎
〔2日、雨が降りだしてから上野天神坂近くの車内で〕6、7人電車へかけ込んできた。〔略〕「朝鮮人のやつら、ひどいことをしやがるなあ」「うん、地震のどさくさに、爆弾で街を焼きはらうなんて - 」などと車内の人たちはおびえたように、窓から外をうかがっている。〔略。日が暮れて〕行きどころのない私はどうしようもなく、座席へ寝ころがった。しかし、朝鮮人が乱入して来はしないか、気味が悪い。人の足音がする度にびくつく。真暗な往来は、どこからどこへ避難して行くのか、人足は絶えない。〔略〕「松坂屋も朝鮮人のやつらが、爆弾を投げつけて焼きはらったというが - 」「でも、熊さんよお、松坂屋はの佐竹の方から燃えてきた火で焼けただよ」私は、松坂屋へ火がついてから逃げたのだから、朝鮮人が焼いたとは思えない。
(石毛助次郎『異端者の碑』同成社、1970年。実体験をもとにした小説)

伊藤乙吉
〔2日、上野で〕夜になってから、お巡りさんがやって来て、大声で我々に伝達した言葉は、誠に以って悲惨をものであった。「皆さん!! 不逞朝鮮人が東京の壊滅を図って暴動をたくらんでいるから見つかったら切り殺しても構いません・・・」と。甚だ物騒な話し。時を移さず一人の男性が、持ち込んだ短刀を取り出し、池の端の植木に、エイッとばかり一太刀浴せたら、枝がブスリと切れ落ちたのを見て「これで安心・・・」と鞘に納めていたのも冗談では決してなかった。とにかく緊張の一夜だった。
(「関東大震災を回想して」震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)

犬養孝〔日本文学者〕
2日の晩も護国院の境内に寝泊まりすることになった。この日の夕方頃から朝鮮人が暴動を起こしているとか、何千人がどっち方面から攻めて来るとかいう流言飛語が耳に入ってきた。そのため朝鮮人を殺せという殺気だった雰囲気になってきた。朝鮮人かどうか識別するため、アイウエオ・・・と五十音を言わせるのが一番良いということになり、上野の山に逃げて来る人々を自警団が尋問していった。このため身動きできないほどの大混雑となった。発音が悪いと判断された人は、自警団にどこかに連れていかれた。犬養先生は自警団が朝鮮人を殺したところは見ていない。犬養邸に出入りをしていた青年たちは、置いてあった十振りほどの刀剣を持ち出した。朝鮮人を殺すのは日本のためだ、東京のためだという言葉が飛び交った。犬養先生も尋問の手伝いをさせられた。何て乱暴なことか、嫌だなと思ったが、批判や反対できる雰囲気ではなかったという。翌、9月3日は終日、逃げて来る人と自警団の尋問とで混雑が続いた。このような状況が9月5日まで続いた。
(犬養孝博士米寿記念論集刊行委員会縞『万葉の風土・文学 - 犬養孝博士米寿記念論集』塙書房、1995年)

岩田とみ〔当時34歳。看護師〕
〔2日〕夜の6時頃看護服のまま飛出してしまった。そしてやっとのことで燃えている上野の松坂屋の前まで来ると、そこらにいた人々が「そら朝鮮の女が逃げて来た」と叫びながらいきなり私を捕えて火の中へ投げ込もうとしました。
〔略〕「朝鮮人ではありません。看護婦ですよ」と叫びながら無我夢中で抜出しました。そしてこれは危いと思いましたので、保護してもらいたいために本郷警察署へ駆け出しました。すると警察の少し前の所でまた自警団員に捕まってしまいました。「こやつもやったのだろう」と罵りながら散々こづきまわして私を警察署へつれてゆきました。
目を充血させた巡査が手に手に木剣を持ちながらどかどかと私を囲みました。誰かが私を殴りつけました。「まって下さい。皆さんに見せたいものがあります」。私は一生懸命になって叫びました。すると署長が「待て」と叫んで私を見つめました。私はかくしてから産婆と看護婦の免許状を出しました。賞状も出して見せました。すると皆手を返したように優しくなりました。
(「朝鮮女と見違えられる」高崎雅雄『大正震災哀話』光明社、1923年)

内田良平〔政治活動蒙〕
2日夕刻〔略。松坂屋前の風月菓子店の路地で〕社会主義者か鮮人か判明せざるも〔略〕2名、その路次より駆け出し来りたるため群衆はたちまち包囲の下にこれを殴殺し、これを路次内へ遺棄したるまま火勢に遂われつついずれも上野方面へ立去りたり。〔略〕松坂屋裏の方に火起ると見るや、時に二大爆発起り〔略〕間もなく2名の鮮人らしき者、〔略〕上野方面に向い駈け来りたるにより、群衆はこれまた〔略〕包囲掩殺したり。
〔略。2日夜〕上野停車場構内に於て2名の鮮人〔略〕駅員これを発見して彼等を追い駈け遂にこれを殴殺したる。
〔略〕2日午後3時頃上野東照宮横にある木立の間に避難民等が荷物を山積し置きたる際、上着なき洋装年令30以内の日本人と法被を着たる30歳位の鮮人との2人〔略〕自警団が捕え〔略〕群衆は激昂してこれを殴殺しつつありたり。
〔略〕6日午前11時下谷清水町中村芝鶴、杵屋光一と共に上野美術学校と音楽坂の間を巡警しつつありし際、〔略〕鮮人5名〔略〕一人は殺され、2人は捕えられ、2人は逃げたり。
〔略〕同夜〔6日〕2時頃、護国院裏に怪しき一団潜みおりたるものあり、山内の自警団これを発見し追い駆けたるに、その内4人は動物園横に逃げ美術学校一部の付属の建物の屋根に飛び上りしが、軍隊にて発砲しその2人を打ち止め2人は逸失したり、その打止められたる2人は共に洋服にして年令30歳近くの者なりき。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

つづく




0 件のコメント: