2020年11月25日水曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ14)「八重は虚子を見て、鷹見夫人にこういった。 「のぼは清さんが一番好きであった。清さんには一番お世話になった」 それから八重は泣き伏した。隣室の四畳半から、気丈な律の泣き声が聞こえた。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ13)「虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。 「子規逝くや十七日の月明に」 虚子の口をついて出たのは、この一句であった。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ14)

虚子が子規庵に戻ると、月光におよばぬランプの黄色い光に照らされた三人の女性が、死者のそばに座していた。

八重は虚子を見て、鷹見夫人にこういった。

「のぼは清さんが一番好きであった。清さんには一番お世話になった」

それから八重は泣き伏した。隣室の四畳半から、気丈な律の泣き声が聞こえた。彼女はひっそりとそちらに移っていたのである。

やがて羯南がきた。碧梧桐、鼠骨がきた。羯南夫人がきた。

(略)

若い三人と羯南とで葬式の相談をし、土葬、東京近郊の寺、質素に、ということで一致した。新聞広告は出さない。松山の親戚はわざわざ上京の要なし。諸方連絡のうえ、「ホトトギス」に死亡通知を載せる。それらも四人で決めた。

次第に人がつどった。一度帰宅した羯南夫人が長女まきを連れてきた。まきは子規と親しかった。碧梧桐夫人繁栄と静がきた。

その頃夜が明けた。虚子は「ホトトギス」に死亡通知を急遽挿入するべく去り、鼠骨は各所に電報を打つため子規庵を出た。

八重と律が子規の姿を直した。蒲団からはみ出していた脚を戻し、左に傾いた体を正しく仰臥させようと死者の肩を起こした八重が、「サア、もう一遍痛いというてお見」と語りかけた。その言葉に碧梧桐は粛然とした。

(略)

・・・・・午後四時頃から沛然たる雨となり、雷鳴がとどろいた。その豪雨の中をふたり(*滝野川の大竜寺に行っていた鳴雪と碧梧桐)が帰った頃、茨城県から長塚節が出京してきた。・・・・・

通夜は二日に分けて行うこととした。この日九月十九日の当番は、左千夫、四方太、義郎、秀真、蕨真、紅緑であった。・・・・・

翌九月二十日の午前十時頃、虚子、碧梧桐、鼠骨、鳴雪が子規庵にきた。・・・・・

二十日の通夜の当番は虚子ら四人と飄亭、麓であったが、俳人、歌人たちのほか「日本」の社員ら二十余名が列席、「談笑平生の如くあるべし」という子規の遺言どおりとなった。「ホトトギス」第五巻十一号の見本があがったのはこの日夕刻で、ページを繰ってみると、子規最後の原稿「九月十四日の朝」の文末半ページに、虚子が挿入した「通知」が載っていた。

「子規子逝く 九月十九日午前一時遠逝せり」

九月二十一日は日曜日の葬儀であった。午前九時出棺。

会葬者は百五十余名におよび、子規庵前の狭い鶯横町は人で身動きもならぬありさまとなった。少し遅れて到着した秋山真之は、人混みのいちばんうしろから一礼して去った。

(略)


虚子と碧梧桐連名でロンドンの漱石に、子規終焉のようすを知らせる手紙を書いたのは十月三日であった。

漱石はすでに「ホトトギス」の九月二十日発行分で子規の死を知っている、という前提で手紙は書かれていた。また子規辞世三句はその後の新聞に掲げられたので、それも承知だろうとしながらも、いちおうあらためてつたえた。・・・・・

子規の臨終の模様は、このように書かれた。


(九月十九日)午前一時頃、余り静かなりとて不図(ふと)手を握り見しに已(すで)にこと切れ居りしといふ有様にて、殆ど薬も間に合はず死去せし有様に候。到底は覚悟致居候ひしも、かく急な事にはとも存ぜざりし者多かりしに、実に何人も悲痛驚愕の外無之(ほかこれなく)候。(・・・)

先日浅井(忠)先生帰朝、一度御尋ね被下候て、大兄の御近状をも聞きたる様子に候。実は御帰朝の日を待ち焦れ居りしものならんと、何事も悲しみの種と相成申候。


筆者はおそらく碧梧桐であろう。

漱石がクラバム・コモンの下宿でこの手紙を読んだのは十一月下旬であった。十一月三十日、漱石は北向きの寒い部屋のストーブのかたわらに座し、「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題して句作した。


手向(たむ)くべき線香もなくて暮の秋   漱石

霧黄なる市に動くや影法師

ぎりぎりすの昔を忍び帰るべし


(略)

・・・・・碧・虚両名の見込みとは異なり、まだ「ホトトギス」誌上の計報も見ず、辞世三句も知らずにいた漱石は、子規長逝の報に接したとき、英国滞在中はじめてすんなりと句ができた。子規が漱石に、日本の風土と友情を思い出させたのである。

漱石は、十二月一日付高浜虚子宛の手紙に書いた。


小生出発の当時より、生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但し、かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方、或は本人の幸福かと存候。


(略)


「同人生前の事につき何か書けとの仰せ、承知は致し候へども」と漱石がつづけたのは、碧梧桐と連名の手紙を追ってすぐ、虚子からの執筆依頼が届いていたからであろう。


文章などかき候ても、日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。又西洋語にて認め候へばくるしくなりて日本語にし度なり、何とも始末におへぬ代物と相成候。


だから当面は勘弁してくれというのである。

漱石が帰国の途についたのはこの四日後、十二月五日であった。ロンドンのアルバート埠頭から博多丸に乗った。・・・・・

(略)

シンガポール発は明治三十六年一月十二日、長崎着一月二十日であった。一月二十二日真夜中に長崎を出航、二十三日昼、神戸に上陸した。旅館で小憩したのち、夕方六時の夜行急行に乗り、翌二十四日午前、新橋に着いた。

矢来町の家に帰った漱石は、一月二十七日、大竜寺の子規の墓に参った。虚子とはそれから間もなく、神楽坂で会食した。


スコットランド旅行から帰ったばかりの漱石がまだロンドンにいた明治三十五年十一月六日、子規四十九日忌の追悼句会が子規庵で催された。参会四十一人と盛況で、すわる場所にも苦労した。この句会の成果を含んだ「ホトトギス 子規追悼集」は虚子の手で編まれ、子規百ヵ日にあたる十二月二十七日に出た。

明治三十六年三月、虚子は子規の母八重をともない、三週間あまり京阪神に遊んだ。・・・・・


つづく



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