2020年11月12日木曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ5)「律の教員時代は前半と後半に分けられる。前半は明治四十年頃から大正四、五年までである。恩給がつく勤続十年に満たずに一度辞めたのは、自分の技倆の未熟さを恥じたためだともいわれる。四十なかばで、京都の聞こえた志摩野という裁縫塾に入り直し、一年間腕を磨いた。帰京して再び共立の教師となった。それから五十歳となる大正十年に退職するまでが後半である。」   

 関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ4)「一方律は、家庭内雑務のすべてを担当する「お三どん」であり「一家の整理役」であり、同時に子規の「秘書」であった。子規の原稿の浄書、ときに口述筆記もした。.....律がいなければ根岸の家はまわらず、たちまち自分が困じ果てることはよくわかっていた。実際、律はその献身的看護と介護で、子規の生命を二、三年は永らえさせたといえるだろう。」

より続く

 関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ5)

明治三十四年九月二十一日の『仰臥漫録』は、こんなふうにつづけられた。


而して彼(律)は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費さざるなり。野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり。肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し。若し一日にても彼なくば一家の事は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり。故に余は自分の病気が如何やうに募るとも厭はず、只彼に病無きことを祈れり。


その日の記述は長い。えんえんと律批評がつづく。


(略)


この時期の子規も、この世のものとは思われぬ病みのために、恐しい癖頼持ちとなっていた。「強情」で一見「気の利かぬ」律だからこそ、子規の癖願に耐えて看護しつづけ得たのである。・・・・・


(略)


えらそうにいうものの、苦痛のあまりしばしば癇癪を起こすのは子規自身であった。それは子規もよく自覚するところであったから、・・・・・。死に近づいた自分だからやむを得ない、と弁解しているのである。

九月二十一日の夜になって痛みがいくぶんかやわらいだあとは、母、妹、三人集って菓子を食べた。・・・・・

(略)


正岡律は、子規の死の翌明治三十六年、三十三歳で共立女子職業学校の乙科に入学、裁縫を学んでいる。

共立女子職業学校はのちの共立女子大である。明治十九年、本郷東竹町に開校したが、創設者のひとりは鳩山春子、鳩山和夫の妻である。松本藩士の娘であった春子は、東京女子師範を卒業して母校の教師となっていた明治十四年、二十歳のとき米国留学帰りの「代言人」鳩山和夫と結婚した。明治十六年に彼女が生んだ長男が鳩山一郎で、はるか後年に首相となる。

明治十九年当時、日本の女子中・高等教育はまだその緒についたばかりであった。おもだった学校は、明治八年開校の東京師範学校女子部と跡見高等女学校、同十五年の女子高等師範附属高等女学校、同十八年の華族女学校、それに同年、木村熊二と田口卯吉の姉である鐙子(とうこ)夫妻が九段に開校して、巌本善治が教頭をつとめた明治女学校くらいであった。東京府高等女学校の開設は明治二十一年まで待たなくてはならない。

明治二十年、神田一ツ橋に移転した共立女子職業学校甲科の入学資格は小学校高等科卒業、すなわち小学校で八年学んだ十二歳以上の女子だが、乙科は小学校尋常科(当時四年)卒で十五歳以上とある。そういう少女たちに、三十すぎの律がたちまじったのである。

「人に物問ふことが嫌ひなり。指さきの仕事は極めて不器用なり」

と子規に冷たく評されたことが気になっていたかも知れない。乙科の二年を修了すると、補修料でざらに一年学んだ。その課程を終えれば小学校高等科の裁縫教員免状をもらえたという。明治三十九年に補修料修了、律は共立の専務職員となった。

明治三十四年九月二十一日付の『仰臥漫録』には、こんなくだりもある。

「彼(律)が再び嫁して再び戻り、其配偶者として世に立つこと能はざるを証明せしは、暗に兄の看病人となるべき運命を持ちし為にやあらん」

律の二度目の離婚が自分の看病のためだったとは、子規は知っていても書かない。

九月二十六日の項には、こうある。


家人、屋外にあるを大声にて呼べど応へず。ために痢頼起り、やけ腹になりて牛乳餅菓子などを貪り、腹はりて苦し。家人、屋外にありて低声に話しをる其声は病牀(びやうしやう)に聞ゆるに、病牀にて大声に呼ぶ其声が屋外に聞えぬ理(ことはり)なし。それが聞えぬは不注意の故なりとて家人を叱る。


この「家人」も律であろう。井戸のかたわらで近隣の女性と世間話をしていて、呼ぶ声が聞こえなかった。そう子規は立腹している。だが、律には聞こえていたのではないか。

世界中でもっとも尊敬していた兄の看病をするのは苦ではない。膿にまみれた繃帯のとりかえも、下の世話も淡々とこなす。しかし、門人たちに気を配り、痛みがひどいときには陸羯南に子供のように甘える子規だが、律に対しては注文のみ多い。同情心が見られない。四六時中自分の世話をするのは律の当然のつとめ、そう決めてかかっているふうだ。

それが不満だというのではないが、ときに気特を兄からそらす隙がないと身が持たない。井戸端で子規の呼ぶ声を無意識のうちに遮断したのは、大鳥籠の前にすわりこんでカナリアを飽かず眺めつづけたのとおなじことだろう。すなわち白昼の放心だろう。それ抜きでは、まる七年半の献身は継続しがたかったかも知れない。

ところで、律の共立女子職業学校の学費はどこから出たか。漱石が東京朝日新聞の社員作家となるにあたって厳密な契約をかわす前、鴎外が著作権と印税は尊重されるべきとおだやかに、しかしきびしく主張する以前の時代である。子規死後の著作権など、この時期ないも同然であった。

正岡家はかつて士族奉還金を千二百円受けた。いわば松山藩の解散退職金である。西南戦争インフレでだいぶ価値は減じたものの、旧松山藩士らは奉還金を持ち寄って、明治十一年、五十二銀行を設立し、正岡家も銀行株四株を所有した。子規一家上京後それは大原家の管理に託され、時に応じて換金されて正岡家の暮らしを支えたが、その最後の株を律は学費にあてた可能性がある。

女子は自活能力を中等以上の教育によって養うべし、という子規の持論は律のなかに生きていた。なにしろ子規が口述する自分の悪口も筆記した律である。それでも兄への恨みなど微塵も抱かず、乏しい表情の奥には、終生かわらぬ兄への敬愛があった。やはり剛情な女性というべきであろう。

律はほどなく共立の事務職から教員にかわった。骨張った体に黒い上っ張りと白い前掛の姿、それは共立の教員の制服であった。生徒が間違った縫いかたをしたのを見つけるとその場で全部ほどいてしまう、非惰なまでにきびしい裁縫の教員であったという。

律の教員時代は前半と後半に分けられる。前半は明治四十年頃から大正四、五年までである。恩給がつく勤続十年に満たずに一度辞めたのは、自分の技倆の未熟さを恥じたためだともいわれる。四十なかばで、京都の聞こえた志摩野という裁縫塾に入り直し、一年間腕を磨いた。帰京して再び共立の教師となった。それから五十歳となる大正十年に退職するまでが後半である。

この間、大正三年四月に加藤忠三郎を養子とした。そのとき田端大竜寺の子規墓前で撮った記念写真がある。「体操の先生が和服を着た感じ」(司馬遼太郎)、つまりぎすぎすした印象の律はこのとき四十三歳、忠三郎は十一歳であった。

府立一中に進んだ正岡忠三郎は、四年修了の満十六歳で仙台の二高に進む。五年で卒業して一高に入ろうとは、はなから考えなかった。よほど「養母」を苦手としていたのであろう。休暇で帰省しても根岸の家には帰らず、加藤の実家に入り浸って実母によくたしなめられた。

仙台では二度落第した。せっかくの「四修」のメリットはなくなり、中学五年から進学してきた友人たちより、さらに一年遅れて卒業した。当時は高校がエリートの関

門で、文科系なら東京帝大法学部の一部学科を除けば試験なしでどこの帝大へも進学できたし、文学部など定員割れであった。しかし正岡忠三郎は東大ではなく、あえて京大を選んだ。

京大は正規の三年で課程を終え、阪急に就職したのは二十四歳のときであった。意地でも東京へは帰らぬつもりなのである。昭和十二年(一九三七)、三十五歳で同志社女尊を出たあや子と結婚した。結婚後も忠三郎は東京の養母を訪ねることはしなかった。そのかわり、ときどき律が大阪へやってきた。しかし忠三郎結婚のときすでに六十六歳であった律は、昭和十六年五月二十四日、子規庵でその生を終える。七十歳である。


つづく




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