2020年11月30日月曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ16)「いまわのきわにも、律は付き添う鼠骨に、「寒川さん、もう連れて帰ってください。家へ帰って養生しましょ」といいつづけたという。律が頼りにしたのは、加藤家から養子に入って正岡の家を継いだものの、性格のあわない義母を避けるように学校も仙台と京都を選んだ忠三郎ではなく、最期まで鼠骨であった。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ15)「明治四十四年八月四日、鼠骨が発案した江戸川べりでの旧友の会合には、子規十年忌を前に、子規庵と子規遺族のために善後策を練る狙いがあった。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ16)

日暮里駅には四方太、秀真もきていた。あらかじめ知らせた時刻の汽車には、上野から鳴雪と飄亭が乗っていた。悪天候にもかかわらず全員がそろった。・・・・・

川甚の席は江戸川へ突き出した涼桟敷であった。・・・・・

(略)

・・・子規庵を捨てて、律と八重が松山に帰るのを可とする説は、やはり出なかった。・・・・・子規庵保存会設立の合意を見た。

保存会は川甚につどった九名を発起人とし、地主の前田家と交渉して土地を譲ってもらう、先方が応じない場合は近所に土地をもとめて旧庵と同形の家を新築して遺物をおさめ、家族に住んでもらうと決めた。

二千五百円内外と見込んだ経費は、寄附を広くつのって当てることとした。一口一円、十円以上の寄附者には「俳句分類」の肉筆稿一枚進呈する。・・・・・

「ホトトギス」誌上に告知した寄附金は順調に集った。歌碑建立を目的としたそれ以前の寄附分を繰り入れると三千円に遷した。

飄亭が、かねがね親交のあった近衛家に前田家との仲介を頼み、鳴雪と碧梧桐が前田家家令と交渉した。しかし前田家は明治四十五年夏、根岸一帯は祖先伝来の土地であるから一部分でも売却はできない、と回答してきた。ただし土地は永久貸与するとした。

保存会は寄附金を銀行預金して基金とし、その利子分月十四円五十銭を遺族への補助にまわすことにした。以後、子規庵保存と遭族の心配は、鼠骨の担当となった。

大正に入ると、子規門子規旧友にもぽつぽつと物故する人があらわれる。

大正二年(一九二二)七月、左千夫が四十九歳で死んだ。大正四年二月には節、三十六歳。大正五年十二月には漱石が、まだ四十九歳の若さで死んだ。ついで六年五月、四方太、四十四歳。七年二月、秋山真之、五十歳。十一年七月、鴎外、六十歳。同年十月、蕨真、四十六歳。

(略)

加藤拓川が六十四歳で亡くなったのは大正十二年三月二十六日、子規没後二十一年である。

その直前の大正十二年二月十三日、子規旧友が日本橋亀島町の料亭に集った。死んだ左千夫、四方太にかわって、紅緑、中村楽天、佐藤肋骨が加わって十人、肋骨は日清戦争で負傷、隻脚(せつきやく)となったがのちに陸軍少将となる人である。

このときの話題の中心は、やはり正岡家の経済であった。律が共立の教職を前年に退いたのは、老齢の八重を置いて外出できなくなったからである。律は家で裁縫塾をひらいて暮らしを立てるというが、それでは不足だ。そこで旧友会一同が一人毎月五円ずつ援助することに決した。ただし、楽天のみが貧窮を理由にはずれた。

九人分で月に四十五円、虚子の「ホトトギス」からの十円を加えると五十五円になるが、時は第一次世界大戦バブル経済後の物価高である。現在の価値にして二十万円以下では、律の裁縫塾の月謝を加えても苦しい。

それから半年余りのち、関東大震災が襲った。子規庵は倒壊・焼失を免れた。だがなにしろ三十年あまり前に移築した古家である、だいぶガタがきた。旧友会の面々もみな大小の被害をこうむり、申し合わせた援助金を出すのがむずかしくなった。鼠骨は会にはかって、それまでの月ごとの利子分に加え、月四十円を基本金から取崩して援助することにした。


だがこの年末、事態は大きくかわる。前田家が根岸の土地すべてを売却して駒場に移ることになったのである。

永代貸与の約定は反古にされた。子規庵を買うなら、棟つづきの隣家とその土地も買わなくてはならない。前田家との交渉に肋骨があたった結果、古家の代金は免除となったが、隣家立退料千二百円は避けられない。その分は近衛家の若当主文麿に援助してもらう話を鼠骨がつけた。だが土地は全部で百坪、一万二千六百円という。

その資金を捻出する手段は、多く子規遺稿に頼った。「俳句分類」の原稿がまだ六十枚ほど残っていたので、表装したものを一枚五十五円で頒布した。法隆寺「柿くへば」の歌碑拓本を五円、秀真作の銅印を二円から十円で売りに出すとよく売れ、合計六千円になった。これに子規庵保存会基金を崩して加えた。

不足分は震災前から話のあった『子規全集』十五巻の印税を一時保存会が借用して埋めることにしたのは、出版界の隆盛が幸いしたのである。全集編集委員には碧梧桐、虚子、秀真、鼠骨の四人が名を運ねたが、実務作業は鼠骨と若い宵曲(しようきよく)柴田泰助が献身的に行った。

・・・・・柴田宵曲は、このとき二十七歳であった。同年夏から鼠骨が主宰した榎本其角「五元集」輪講につらなって記録をとり、その誠実な仕事ぶりが見込まれた。この席で宵曲は二十七歳年長の三田村鳶魚(えんぎよ)を知り、昭和二十七年(一九五二)、鳶魚が八十二歳で没するまで彼の江戸風俗研究の仕事に並みなみならぬ力を貸す。その生前を知らぬ弟子として子規山脈に連なった宵曲は、後半生を子規の文業整理にささげることになった。

正岡八重が死んだのは昭和二年五月十二日、八十二歳、子規没後二十五年であった。

子規庵でひとり住まいになる律を気づかい、昭和三年、鼠骨は子規庵隣家を保存会事務所と居宅を兼ねるべく改築して、一家をあげて移り住む。宵曲の仕事場もつくる。しかし鼠骨家族がその引越しに反対であったのは、元浅井忠のアトリエの居住環境が良好であったという理由のほか、律との事実上の同居を敬遠したからであろう。

同年、保存会は財団法人となり、折からの円本ブーム、全集ブームが保存会の財政基盤を固める。この頃、すでに保存会と鼠骨の人格は分かちがたいものとなっており、これがのちに正岡忠三郎と鼠骨の行違いの原因ともなる。

八重の死の前年、大正十五年二月には鳴雪が死んでいる。鳴雪は明治四十年、六十歳まで常盤会舎監をつとめ、あとを秋山真之の兄好古に託したのちは麻布笄(こうがい)町に自適して七十九歳で死んだ。碧梧桐と飄亭は、ともに昭和十二年に死んだ。碧梧桐六十四歳、飄亭六十六歳であった。中村楽天は昭和十四年、七十四歳で死んだ。

正岡律は昭和十六年五月二十四日に死んだ。子規没後三十九年、七十一歳であった。律に丹毒の症状が出て帝大病院小石川分院に入院したのは五月二日深夜で、一時好転したものの二十三日に急変した。・・・・・

いまわのきわにも、律は付き添う鼠骨に、「寒川さん、もう連れて帰ってください。家へ帰って養生しましょ」といいつづけたという。律が頼りにしたのは、加藤家から養子に入って正岡の家を継いだものの、性格のあわない義母を避けるように学校も仙台と京都を選んだ忠三郎ではなく、最期まで鼠骨であった。


つづく

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