2020年11月24日火曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ13)「虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。 「子規逝くや十七日の月明に」 虚子の口をついて出たのは、この一句であった。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ12)「ヘチマの葉が、あるかなきかの風にひらひらと動く。そのたびに肌に秋の涼しさがしみこむようだ。苦極(くきわま)って暫時病気を感じぬ気分となった。そのことがありがたくて、文章にしてみたくなった。口述し、虚子が筆記した。それが『病牀六尺』の短文を除けば、子規最後の原稿となる「九月十四日の朝」である。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ13)

子規逝くや


明治三十五年九月十六日、「日本」紙上の『病牀六尺』は休載となった。五月十一日以来のことである。

九月十七日、その百二十七が掲載された。それは、九月十二日以来『病牀六尺』の稿が短いことを詫びた、七十字あまりのやはり極端に短い一稿であった。

子規は自らを、身動きのとれぬ「達磨(だるま)」に擬して、「達磨儀も盆頃より引籠(ひきこも)り、縄鉢巻にて筧(かけひ)の滝に荒行中、御無音(ぶいん)致候」としるした文末に、「俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか」の一首を添えた。結果として、これが最終回となった。

九月十七日の子規は、朝から痰が切れない。一度粥を少量食したのちは、レモン水を口にしたばかりである。子規が母八重に、四国松山の大原家へ電報を打とうかといったのは、自らの終焉が遠くないと覚ったからであろう。

(略)

この日、正岡家では子規の誕生日を祝い、赤飯を炊いた。例年なら、十月中旬から下旬の旧暦九月十七日に祝うのだが、あえて新暦の同月同日にしたのは、翌月まではもたぬと見切ったからである。赤飯は陸家にも届けられたが、祝宴のない静かな誕生日であった。

九月十八日は朝から容態がおかしかった。宮本医師を、陸家の電話を借りて呼んだ。異変を知った羯南がやってきた。午前十時すぎ碧梧桐がきた。

子規のようすを見た碧梧桐が律に、虚子は呼んだかと尋ねた。いえ、まだ、と答えた律の声に、子規が、「高浜も呼びにおやりや」と小さな声でいったので、十一時頃、碧梧桐が再び陸家の電話を借りに行った。


戻った碧梧桐と律が介添えして、病床の子規の眼前に画板を掲げた。子規の手に、墨汁をふくませた筆を持たせた。辞世の句を書かせようとしたのである。

子規は、画板に貼った唐紙の中央に、

「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

と書き、筆を投げた。

顔をとって四、五分後、最初の句の左側に、

「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

と書いて再び筆を捨てた。

さらに四、五分、苦しい気息を整えて、逆側に、

「をととひのへちまの水も取らざりき」

と書くと三たび筆を捨てた。落ちた筆の穂先が、敷布を少し染めた。この間、子規は終始無言であった。

へちまの水は旧暦の八月十五日にとろのをならいとする。それに従えなかったのが無念、といっている。

痰の切れる薬を持参した柳医師が、親戚に連絡せよというのとほぼ同時に、子規は昏睡に入った。到着した虚子と碧梧桐が相談のうえ、在京する親戚にはハガキで報ずることにし、急ぎしたためた。

夕方五時前、目覚めた子規が苦悶のようすを見せたのでモルヒネを与えたが効果はない。五時半頃、宮本医師が来訪して胸部に注射すると、子規は再び昏睡した。羯南の長女まきと加藤拓川夫人がきた。

六時すぎ、碧梧桐が去った。「ホトトギス」五巻十一号を校了にするためであった。この時期、俳書の刊行に力を注ぐ虚子にかわって、碧梧桐が雑誌実務を担っていた。七時すぎ、寒川鼠骨がきた。碧梧桐の姉静がきた。

八時前に子規は目覚め、コップ一杯の牛乳をゴムの管で吸った。この朝、陸家から届けられたおも湯を、わずか口にして以来であった。

「だれだれが来ておいでるのぞな」と子規が尋ねた。

「寒川さんに清(きよ)さんにお静さん」と律がこたえた。

それが、子規の生前に発した最後の言葉となった。子規は、そのあとただちに昏睡に入った。

虚子が松山の大原恒徳に手紙を書いているとき、午前中に出されたハガキを夕方の配達で受けとった松山以来旧知の鷹見夫人がきた。・・・・・

・・・・・

十一時をすぎた。八重と鷹見夫人が子規のかたわらに侍し、律と虚子は一応就床して半夜で交替することにした。

・・・・・

八重の、「のぽさん、のぽさん」と呼びかける声に虚子は起こされた。鷹見夫人も唱和するその声には切迫感がある。律も病間隣りの四畳半から起き出してきた。

時々うなっていた子規が、ふと静かになった。鷹見夫人と昔話をしていた八重が手をとってみると、冷たい。呼びかけにも反応しない。顔をやや左に向け、両手を腹にのせて熟睡しているかに見えるが、額は微温をとどめるのみであった。子規の息は、母親が目を離した隙に絶えていた。

旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治三十五年九月十九日になったばかりの午前十二時五十分頃であった。子規の生涯は満三十四年と十一ヵ月余りであった。

律は陸家に走った。家人を起こし、電話を借りて宮本医師に報じた。

虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。

「子規逝くや十七日の月明に」

虚子の口をついて出たのは、この一句であった。


つづく




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