2022年8月6日土曜日

〈藤原定家の時代079〉治承4(1180)8月9日~17日 頼朝、佐々木兄弟の山木攻め参着遅れに悩む 京都に帰った大納言藤原実定「旧き都を来てみれば、浅茅が原とぞ荒れにける、月の光は隈なくて、秋風のみぞ身にはしむ。」 

 


〈藤原定家の時代078〉治承4(1180)8月2日~8日 大庭景親ら清盛の命を受けて相模国に下向 藤原邦通が密偵として山木館に潜入 頼朝の山木攻めの日程・メンバ確定 より続く

治承4(1180)

8月9日

渋谷重国のもとに身を寄せる佐々木秀義が大庭景親より平家の有力家人・侍大将忠清の話を聞き、嫡男定綱を使者に頼朝に通報。必ず戻るというので定綱を帰すが、その際には渋谷重国に宛てて「頼りにしている」との手紙を持たせる。しかし、約束の山木攻め前日(16日)になっても佐々木は参上しない。

□「吾妻鏡」

「近江の国の住人佐々木の源三秀義と云う者有り。平治逆乱の時、左典厩の御方に候し、戦場に於いて兵略を竭す。而るに武衛坐事の後、旧好を忘れ奉らずして、平家の権勢に諛わざるが故、相伝の地佐々木庄を得替するの間、子息等を相率い、秀衡(秀義姨母の夫なり)を恃み奥州に赴く。相模の国に至るの刻、渋谷庄司重国秀義が勇敢を感ずるの余り、これをして留置せしむの間、当国に住しすでに二十年を送りをはんぬ。この間、子息定綱・盛綱等に於いては、武衛の門下に候ずる所なり。而るに今日、大庭の三郎景親秀義を招き談りて云く、景親在京の時、上総の介忠清(平家の侍)に対面するの際、忠清一封の書状を披き、景親に読み聴かせしむ。これ長田入道が状なり。その詞に云く、北條の四郎・比企掃部の允等、前の武衛を大将軍と為し、叛逆の志を顕わさんと欲すてえり。読み終わり、忠清云く、この事常篇に絶す。高倉宮御事の後、 諸国の源氏の安否を糺行すべきの由、沙汰の最中、この状到着す。定めて子細有らんか。早く相国禅閤に覧するべきの状なりと。景親答えて云く、北條はすでに彼の縁者たるの間、その意を知らず。掃部の允は早世する者なりてえり。景親これを聞きて以降、意潜かに周章す。貴客と年来芳約有るが故なり。仍って今またこれを漏脱す。賢息佐々木の太郎等、武衛の御方に候せられんか。尤も用意有るべき事なりと。秀義心中驚騒の外他に無し。委細の談話に能わず、帰りをはんぬと。」(9日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「巳丑。近江国の住人に佐々木源三秀義という者がいた。平治の乱の時に左典厩(義朝)の味方に参じ、戦場では兵略をつくして戦った。そして武衛(頼朝)が縁坐で配流された後も苦からのよしみを忘れず、平家の権勢にもおもねらなかったために、祖先からの相伝の地である紛々木圧を取り上げられてしまったので、子息らと共に、秀義の母方の伯母の夫である(藤原)秀衡を頼って奥州に向かった。相模国まで来たところ、渋谷庄司重国が秀義の勇敢な行動に感心したばかりか、自分の所へ留め置いたので、相模国に住み着いて、二十年が経っていた。その間に、子息の定綱と盛綱は頼朝に仕えるようになっていた。そして、今日、大庭三郎景親が秀義を招いて次のように言った。「私が在京していた時、平家の侍である上総介(藤原)忠清と対面したところ、忠清が一通の書状を開き、私に読んで聞かせた。それは長田入道の書状であった。その書状には、北条四郎(時政)と比企掃部允が頼朝を大将軍として叛逆しようとしているとあった。読み終わって忠清が言うことには、『これは尋常なことではない。高倉宮(以仁王)の事件があった後、諸国の源氏の動きを取り締まるように命令が出ているさなかにこの書状が到着した。これはきっとなにかあるに違いない。早くこれを相国禅閤(平清盛)にお見せしなければ』。私はこう答えた。『北条はすでに頼朝の縁者であるからその意図は知れません。比企掃部允はすでに亡くなっています』。私はこの話を聞いてから以降、心中穏やかではなくなった。あなたとの年来の約束があるからだ。そこで今またこのことをあなたに密かに伝えるのだ。御子息の佐々木太郎(定綱)は頼朝の味方に参じているようだから、当然用意をしておくべきであろう」。秀義は心中驚くのみで、こまかな話をすることもできずに帰ったという。」

○秀義(1112天永3~1184元暦元)。

佐々木季定の男。源為義の養子となり、保元の乱・平治の乱に加わる。平治の乱後、本貫地の近江国佐々木庄を収公され、母方の縁から奥州の藤原秀頼って行く途中、渋谷重国のもとに身を寄せる。

○忠清(?~1185文治元)。

藤原姓。豊前権介を経て、治承3年11月18日、従五位下・上総介に叙任。平家の有力家人、侍大将。長男の忠綱は、5月26日に検非違使となる。

○渋谷重国(生没年未詳)。

秩父平氏の一族で相模国渋谷の開発領主として入部、渋谷氏を称し、領家円満院(園城寺門跡)から吉田庄の下司職を得る。佐々木義秀・大庭景親と縁戚関係を結び、所領を維持。頼朝挙兵の報が景親を通して義秀からもたらされるが、頼朝に従う佐々木定網らを黙認し、石橋山合戦後も佐々木氏を庇護。富士川合戦後、頼朝に帰順、養和元(1181)年8月、子の高重の忠節により、渋谷下郷の知行を安堵され、御家人として従う。元暦(1184)元年正月、義仲追討に従軍、翌年2月、平家追討で芦屋浦に先登し、太宰少弐原田種直・子の賀摩種益らと戦う。この戦いで「かの輩攻め戦ふといヘビも、垂国がために射られおはんぬ」(「吾妻鏡」元暦2年2月1日条)と戦功を挙げるが、子の重資の自由任官で恩賞から外れる。その後、鎌倉の留守居役を預かり、また大庭周辺の牧を管理し、伝馬を提供するなど幕府の公事を勤め、文治5年(1189)11月、大庭野の巻狩に出向いた頼朝を館に迎える。建久3(1192)年12月、頼朝の認可で吉田庄は地頭請所となり、領家への年貢は幕府政所の管理とされ、地頭として所領支配を行なう。後に「吾妻鏡」編纂の頃から吉田庄は「渋谷庄」とも称される。

□「吾妻鏡」

「秀義、嫡男佐々木の太郎定綱(近年宇都宮に在り。この間渋谷に来たる)を以て、昨日景親が談る所の趣、武衛に申し送ると。」(10日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「庚寅。(佐々木)秀義が嫡男の佐々木太郎定綱〔近年宇津宮にいて、最近渋谷に来ていた〕を使者として、昨日(大庭)景親が話した内容を武衛(源頼朝)に伝えたという。」

□「吾妻鏡」

「定綱、父秀義の使いとして北條に参着す。景親の申状、具に以て上啓するの処、仰せに云く、この事四月以来、丹府動中のものなり。仍って近日素意を表わさんと欲するの間、召しに遣わすべきの処参上す。尤も優賞有るべし。兼ねてまた秀義最前に告げ申す。太だ以て神妙と。」(11日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「辛卯。(佐々木)定綱が父秀義の使者として北条に到着した。(大庭)景親の話した内容を詳しく申し上げたところ、(頼朝は)仰った。「このことは、四月以来心中に熟慮していたことだ。そこで、近いうちに真意を伝えるために呼び寄せようとしたところに参上してきた。当然賞賛されることである。また秀義が真っ先に知らせてきたことはまことに結構なことである」。」

□「吾妻鏡」

「兼隆を征せらるべき事、来十七日を以てその期に定めらる。而るに殊に岡崎の四郎義實・同輿一義忠を恃み思し食さるるの間、十七日以前、土肥の次郎實平を相伴い参向すべきの由、今日義實が許に仰せ遣わさると。」(12日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「壬辰。(山木)兼隆を討つ事は、来る十七日をその決行日と定められた。そこで、特に岡崎四郎義実・同与一義忠を頼りに思い、十七日以前に、土肥次郎実平と共に参上するよう、今日義美のもとに命を伝えられたという。」

○義忠(1148久安4~1180治承4)。

岡崎義実の男。母は中村宗平の女。岡崎与(余)一・佐奈田余一と称される。

□「吾妻鏡」

「定綱明暁帰りをはんぬべきの由を申す。武衛これを留めしめ給うと雖も、甲冑等を相具し、参上すべきことを称す。仍って身の暇を賜う。仰せに曰く、兼隆を誅せしめ、義兵の始めに備えんと欲す、来十六日必ず帰参すべしてえり。また定綱に付け、御書を渋谷庄司重国に遣わさる。これ則ち恃み思し食さるるの趣なり。」(13日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「発巳。(佐々木)定綱は明朝に帰るつもりであると申したので、武衛(源頼朝)はお引き留めになったが、甲胃を着けて参上するという。そこで帰国をお認めになり、命じて言った。「兼隆を誅して挙兵の始めとしたい。来る十六日には必ず戻ってくるように」。また、定綱に託して、御書を渋谷庄司重国に送られた。それは、重国を頼りに思われているという内容であった。」

□「吾妻鏡」

「佐々木兄弟今日参着すべきの由、仰せ含めらるるの処、不参して暮れをはんぬ。いよいよ人数無きの間、明暁兼隆を誅せらるべき事、聊か御猶予有り。十八日は、御幼稚の当初より、正観音像を安置し奉り、放生の事を専らせられ、多年を歴るなり。今更これを犯し難し。十九日は、露顕その疑い有るべからず。而るに渋谷庄司重国当時恩の為平家に仕う。佐々木と渋谷とまた同意の者なり。一旦の志に感じ、左右無く密事を彼の輩に仰せ含めらるるの條、今日不参に依って、頻りに後悔し、御心中を労わしめ給うと。」(16日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「丙申。昨日から雨が降っていて一日中止まなかった。明日の合戦が無事に成功するようにご祈祷を始められた。住吉小大夫昌長が天曹地府祭を勤めた。武衛(頼朝)が自ら鏡を取り、昌長に授けられたという。永江蔵人頼隆は一千度の御祓を行ったという。佐々木兄弟には今日参着せよとよくよく命じられていたのに、参上しないまま日が暮れた。人数がまことに少ないので、明朝に(山木)兼隆を討つことを延期しようかとためらわれた。十八日は、御幼少の頃からずっと正観音を安置して殺生をやめているので、今となってこれに反するようなことはできない。十九日では、事が露顕してしまうことは疑いない。そして渋谷重国は平家に恩があって仕えており、佐々木は渋谷に同心するであろう。一旦の志に感じて深く考えずに密事を彼らに仰せられたが、今日彼らが参上しなかったのでとても後悔し、ご心中を悩ませていらしたという。」

8月10日

・10日過ぎ、荒れ果てた京へと帰って来た大納言藤原実定、近衛河原の妹・太皇太后多子の御所を訪問。「平家物語」「月見」の章の始まり。

実定「旧き都をきてみれば浅茅が原とぞあれにける 月の光は隈無くて秋風のみぞ身にはしむ」。

「月見(つきみ)」(「平家物語」巻5)

福原の新都、せめてもの取りどころは、源氏の昔をしのぶよすがの須磨明石に近いことくらい。名所の月を見ようとて、さまよい歩く。旧都に残る人々は伏見、広沢の月を見る。

「そのなかにも徳大寺の左大将実定の卿は、旧(ふる)き都の月を恋ひて、八月十日余りに、福原よりぞ上り給ふ (略)故郷の名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける。」 大宮には、実定の異母姉多子が催び住まい。多子は宮廷第一の美女として近衛帝に入内、帝没後、かねて多子に思いを寄せていた二条帝に再入内を余儀なくされ、「うきふしにしづみもやらで河竹の世にためしなき名をやながさむ」と詠じた薄幸のひと(巻1「二代后」)

実定は、この御所に仕えている歌のじょうずな女房、待宵の小侍従を呼び出して「昔今の物語して、小夜もやうやう更けゆけば、旧き都の荒れゆくを、今様にこそ歌はれけれ。旧き都を来てみれば、浅茅が原とぞ荒れにける、月の光は隈なくて、秋風のみぞ身にはしむ。」                    

待宵の小侍従は、あるとき、大宮の御前より「待つ宵、かへる朝(あした)、いづれかあはれはまされる」と問われて、「待宵のふけゆく鐘の声聞けば帰るあしたの烏はものかは」と答えたことがあって以来、待宵の小侍従と呼ばれた。源三位頼政と相恋の間柄だったのは、双方それぞれの家集からうかがえる。頼政討死のこの年に先立って治承3年春、小侍従は出家していたという。

徳大寺実定は夜明けとともに帰ったが、供の蔵人藤原経尹(つねただ)に「侍従があまりに名残り惜しげにみえるから、戻って何とでも言うてこい」という。走り戻って、「物かはと君がいひけん鳥の音のけさしもなどか悲しかるらむ」と即興すれば、待宵の君も涙をこらえて、「待たばこそふけゆく鐘も物ならめあかぬ別れの鳥の音ぞ憂き」と応じた。蔵人、いそぎ帰ってこれを伝え、大いにはめられ、以来「物かはの蔵人」と呼ばれた。

8月12日

・福原、この度の福原行幸は「遷都」か「遷幸」か(福原は「新都」か「離宮」)の議論(「山槐記」8月12日条)。8月上旬頃には、福原は離宮として営む、従って八省大内を造るには及ばない、大小の路は便宜開き、しかるべき卿相侍臣を選んで宅地をあてる、大嘗会は延引、に落着。

・福原、古京(京都)へ還るべき議がもち上がり、隆李と時忠とが相談して清盛にこれを伝えると、清盛は、「尤も然るべし、但し老法師(清盛)においては御共に参るべからず(結構なことだ。しかしこの老法師はご一緒しません)」と言う。人々は興ざめし、その後還都のことは言わなくなった、とある。(「玉葉」8月12日)。

8月17日

・源希義、配流先土佐で自害。


つづく

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