2022年8月5日金曜日

〈藤原定家の時代078〉治承4(1180)8月2日~8日 大庭景親ら清盛の命を受けて相模国に下向 藤原邦通が密偵として山木館に潜入 頼朝の山木攻めの日程・メンバ確定 

 


〈藤原定家の時代077〉治承4(1180)7月5日~30日 旱魃と疫病の流行 俊成夫妻マラリア発病 高倉上皇の病状重篤 摂政基通も罹病 より続く

治承4(1180)

8月

・熊野別当湛増、謀反の弟湛覚(親平家派)の所領襲撃、人家数千余を焼き払う。

・この頃、鴨長明(26)、福原を視察

8月2日

・大庭景親ら下向。

清盛は大庭景親に対し、伊豆国に残る源頼政の嫡孫有綱が変事を企てた時には追捕することを命じ、相模国に帰国させた。その際、追捕の軍勢を集める時には、坂東にいる平氏家人に対して軍勢催促を行う権限を与えた。

大庭景親の帰国は、坂東にいる源氏の家人を疑心暗鬼に陥れ、内乱へ導く端緒となっていく。坂東には、伊豆国を20年にわたって治めた源頼政の一族・家人や、子弟が延暦寺・園城の大衆として以仁王事件に関わった地方豪族がおり、以仁王与党と見なされる不安を抱える人々が少なからずいた。

「相模の国の住人大場の三郎景親以下、去る五月合戦の事に依って、在京せしむの東士等、多く以て下着すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」

「壬午。相模国の住人の大庭三郎景親をはじめ、去る五月の合戦のために在京していた東国の武士たちが多く帰国したという。」

○大庭景親(?~1180)

平家被官。景忠の子。兄は鎌倉御家人景義。鎌倉権五郎景政の後裔。通称三郎。平治の乱後、源家譜代の家人でありながら、平家被官となる。石橋山の戦では、熊谷次郎直美以下平家被官3千余騎を率い頼朝軍を破る。この時、譜代の主君に弓引くのをなじる時政に、「恩こそ主よ」と言いはなったと延慶本「平家物語」は記す。この後、数千騎を率い三浦氏の衣笠城に進撃するが、三浦義澄らは既に安房に渡海した後の為引き返す。「吾妻鏡」は源家譜代の家人から寝返った景親を「凶徒」と罵る(治承4年9月3日条)。10月、東下した頼朝追討軍に加わる為1千騎を率いて発向するが、頼朝が20万を率い足柄を越えた為、前途を失い逃亡。富十川の戦で平氏軍が敗れた後、自ら「降人」として出頭。上総権介廣常に召預けられ、10月26日、固瀬河辺で梟首。

8月4日

・頼朝、伊豆国の目代山木兼隆を討つ為に密偵を放つ。密偵が詳細絵図を持ち帰る。

□「吾妻鏡」

「散位平の兼隆(前の廷尉、山木判官と号す)は、伊豆の国の流人なり。父和泉の守信兼が訴えに依って、当国山木郷に配す。漸く年序を歴るの後、平相国禅閤の権を仮り、威を郡郷に燿かす。これ本より平家一流の氏族たるに依ってなり。然る間、且つは国敵として、且つは私の意趣を挿ましめ給うが故、先ず試みに兼隆を誅せらるべきなり。而るに件の居所は要害の地たり。前途後路、共に以て人馬を煩わしむべきの間、彼の地形を図絵せしめ、その意を得んが為、兼日密々に邦道を遣わさる。邦道は洛陽放遊の客なり。因縁有って、盛長挙し申すに依って武衛に侯す。而るに事の次いでを求め、兼隆が館に向かい、酒宴・郢曲の際、兼隆入興す。数日逗留するの間、思いの如く山川村里に至るまで、悉く以て図絵せしめをはんぬ。今日帰参す。武衛北條殿を閑所に招き、彼の絵図を中に置き、軍士の競い赴くべきの道路、進退用意有るべきの所、皆以て指南せしめ給う。凡そ画図の躰を見るに、正にその境を莅むが如しと。」(8月4日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」

「甲申。散位平兼隆〔元検非違使尉で、山木判官と号していた〕は、伊豆国に流された流人である。父和泉守(平)信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流され、何年か経つうちに、平相国禅閤(清盛)の権威を借りて、周囲の郡郷に威光を振りかざすようになっていた。これはもともと平家の一族だったからである。そこで、国の敵(平氏)を討つため、そして(頼朝)自身の思いをとげるため、まず手はじめに兼隆を攻め滅ぼすこととした。しかし、兼隆の居所は要害の地であり、行くにも帰るにも、人や馬の往来が大変なところなので、その地形を絵に描かせ実情を探るため、兼ねてから(藤原)邦通を密かに派遣してあった。邦通は京都を離れて遊歴しているものであったが、縁あって(安達)盛長の推薦を受け、武衛(源頼朝)に仕えていた。邦通はわずかな切っ掛けを得て兼隆の館へ向かい、酒を飲み流行り歌をうたった。兼隆がこれを気に入って(邦通は)数日間滞在したので、思い通りに山川村里にいたるまですべてを絵に描くことができた。今日、帰参したので、頼朝は北条殿(時政)を人のいないところへ招き、その絵図を間に置いて、軍勢が攻め寄せる道や、進軍上の注意すべき地点をすべて指示された。それにしてもその絵図は、まさにその場にいるかのように描かれていたという」

○山木兼隆(?~1180治承4)

桓武平氏。父は平信兼。京で検非違使に任官していたが、父と対立し、治承3年(1179)父の訴えにより伊豆国に配流。山木郷に住み山木判官と号し、平氏の権威をかりて勢力を広げる。治承4年5月、伊豆国の知行国主源頼政、国司の仲綱父子が、以仁王の挙兵に参加して戦死し、国主が平時忠、国司が平時兼にかわった際、伊豆目代に任じられ国衙を支配下におく。以仁王の令旨に応じる頼朝は、平氏討減の緒戦を伊豆目代山木兼隆におく。山木館は要害の地にあったため、頼朝は藤原邦通を山木館に送りこみ、屋敷や近辺の地形を調べさせ、これを絵図に描かせたる。8月17日夜、山木兼隆襲撃決行。その日は三島大社の祭礼にあたり、兼隆の郎従の多くが神事の参詣に出向いて館を守る郎従は少なく、兼隆は加藤景廉、佐々木盛綱らにより獲首。

8月6日

・頼朝、山木攻めの日程、メンバを確定。

□「吾妻鏡」

「邦道・昌長等を召し、御前に於いて卜筮有り。また来十七日寅卯の刻を以て、兼隆を誅せらるべきの日時に点じをはんぬ。その後、工藤の介茂光・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・宇佐美の三郎助茂・天野の籐内遠景・佐々木の三郎盛綱・加藤次景廉以下、当時経廻士の内、殊に御恩を重んじ身命を軽んずるの勇士等を以て、各々一人次第閑所に召し抜き、合戦の間の事を議せしめ給う。未だ口外せざると雖も、偏に汝を恃むに依って仰せ合わさるの由、人毎に慇懃の御詞を竭さるの間、皆一身抜群の御芳志を喜び、面々勇敢を励まさんと欲す。」(6日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」

「丙戌。(藤原)邦通と(佐伯)呂長を御前に召してト筮が行われた。そして来る十七日の寅卯の刻を(山木)兼隆攻めの日時と決定した。その後、工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義美、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉はか、この時周辺にいた武士のうち、特に(頼朝の)命を重んじて身命を投じる覚悟のある勇士を、一人ずつ順番に人気のない部屋へ呼び、合戦のことについてお話しになった。そして、「今まで口に出して言わなかったが、ただお前だけが頼りだから相談しているのだ。」と、一人一人に丁寧な言葉をおかけになったので、勇士たちはみな、自分だけが頼朝に期待されていると喜び、それぞれが勇敢に戦おうという気持ちになった。これは、自分だけがという思い入れを禁じられたものだが、家門の草創という大事な時期に、彼らが共通の意図を持つためにとお考えになってのことであった。しかし真実や重要な密事は、時政以外には知らされていなかった。」

○茂光(?~1180治承4)

工藤家次の男または定経の男とも。工藤介と称し、頼朝の挙に真っ先に応じた御家人の1人。

〇義実(1112天永3~1200正治2)。

三浦義継4男。三浦義明の弟、佐奈田義忠の父。

○助茂(祐茂)(生没年未詳)。

工藤祐次(継)の男。祐経の兄。宇佐美三郎と称す。

○遠景(生没年未詳)。

天野景光の男。内舎人に任官し、藤内と称す。

○盛綱(1151仁平元~?)。

佐々木秀義3男。初名は秀綱。父の命で伊豆に配流されている頼朝に仕え、実名も盛綱と改める。

○加藤景廉(1156保元元~1221承久3)

加藤景員の2男。「尊卑分脈」では、加藤景清を父とする。母は不詳。頼朝挙兵に父景員、兄光貞と共に参加し、石橋山の戦いの敗北後、箱根山中に3日間いた兄弟は、老父を走湯山に送った後、一旦は分散、翌日、駿河国大岡牧で逢い、富士山麓に引き籠もる。元暦元年(1184)~文治元年(1185)、病身にもかかわらず範頼に属し、平家追討に参加、頼朝より賞詞を得る。建久4年(1193)、頼朝命により女の事にて安田義資を処刑、義資の父義定の所領遠江国浅羽荘地頭職を与えられる。正治2年(1200)、梶原景時と朋友であったとして所領を収公されるが、のち回復。承久3年(1221)承久の乱では、宿老の1人として鎌倉に残る。同年8月2日没。

○土肥実平

父は中村庄司宗平。桓武平氏村岡良文の子孫。土肥郷(湯河原町・真鶴町)に進出し、土肥次郎実平と称す。頼朝挙兵に参画。治承4年8月17日、長男遠平・弟宗遠と共に山木兼隆館を襲撃した後、相模国土肥郷を経て、24日石橋山合戦にのぞむ。合戦中、実平の知略により頼朝は土肥の真名鶴崎より安房に逃れることができる。11月佐竹秀義攻撃、寿永3年2月一ノ谷合戦で活躍、翌年、備前・備中・備後を管轄。頼朝は、華美を好む武士に対し、「(千葉)常胤・実平がごときは、清濁を分たざるの武士なり」「おのおの衣服巳下、麁品を用いて美麗を好まず。故にその家富有の聞こえありて、数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんとす」と賞賛(「吾妻鏡」元暦元年11月21日条)。文治元年(1185)上洛、畿内の治安維持にあたり、平信兼の旧領揚梅屋敷を拝領。文治5年(1189)頼朝奥州進発、建久元年(1190)頼朝入洛に随行。「吾妻鏡」の記載は、建久2年7月で途絶える。 

8月8日

・隆季(親平家筆頭公卿)が兼実に言う。自分が、「遷都の事、凡そなお叶うべからざるものを、拠(ヨンドコロ)なき沙汰かな、今は始終見るべし(遷都は出来ない。お手並拝見といこう)」と言ったを清盛が知り、「この一言により更に励心を起こして骨張(コツチョウ)せらる、と云々」(「玉葉」8月8日条)。


つづく

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