2024年4月23日火曜日

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震  

 

大鳥圭介

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電 より続く

1894(明治27)年

6月12日

朝鮮、混成旅団先頭部隊,仁川に到着

6月12日

朝鮮、共同撤兵交渉開始。農民反乱が和議により終結し、小康を得たため。

15日には、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結

6月12日

朝鮮、農民軍、全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置。総本部を全州大都所とする。全琫準・金開南が全羅右道(本拠金溝)・左道(本拠南原)を夫々管轄。執綱所を通じて貪官汚吏処罰、身分制廃止、税制改革、土地制度改革など幣制改革に着手。

6月12日

大鳥公使の共同撤兵交渉に関して、日本側の反応は冷ややか。

大本営は、大島旅団の上陸をさし控えるようにとの大鳥公使の要請とは逆に、更に第5師団の残部を動員して派遣すること決定(清は山海関から12時間で仁川に達するが、日本は宇品から40時間を要する。機先を制するためには、これしか道はない)。

朝鮮では共同撤兵交渉が順調に進展。

外務大臣陸奥宗光と駐韓全権公使大鳥圭介との間にズレが生じる。杉村代理大使が、日本の将来のためこれを機に韓国から外国勢力の一掃が必要と、大鳥を説得。陸奥は後に「今においてこれを追懐するも、なお悄然たるものあり」と当時の「惨憺の苦心」を述べる。

6月12日

対外自主派中央選挙本部、結成。新聞同盟からは志賀重昂が総代。

6月13日

この頃の日本のいくつかの新聞は農民軍を高く評価し、これを肯定。

「毎日新聞」6月13日社説「東学党を懯む」は「東学党は朝鮮官吏に対しては不忠なるも、朝鮮国、朝鮮人民に対しては忠義なり、生命を犠牲にして苛政を除んとする者なり」と言い、14日の「日本」社説「内乱に係る国際法」(陸羯南執筆)は、東学党は「少なくとも一の国事犯として視るぺく、盗賊蜂起といふぺからず」と言う。

しかし9月下旬以降農民軍が日本軍に対し戦闘を開始すると、これらの新聞の態度は変る。

6月14日

「自由新聞」、観兵式をするために派兵したのではない、と述べる。

6月14日

閣議、伊藤首相、日清両国軍隊により朝鮮内乱を鎮圧し、後、共同で内政改革を行うことを提案。

翌15日、陸奥外相は、伊藤提案に、清国との協議如何に係らず撤兵しない、清国との共同が実現しないときは独力でも改革を実行するという2項目を追加。閣議諒承。陸奥「わが外交は百尺竿頭一歩を進めた」。大本営の大兵力派遣方針を追認。日本軍は公使館・居留民のみでなく、甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与を強行することを決定

閣議後、大鳥公使宛に「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と電報。

第2回目の挑発。15日閣議決定。「密雲不雨」の情勢を「疏通」する為、朝鮮内政を日清共同で改革し、その結果をみるまで撤兵しないこの内政改革の提唱は「政治的必要の外、何等の意味なきもの」(「録」47)で、予想される清国の拒絶を待って「陰々たる曇天を一変して一大強雨を降らす」(同48〉ことを目的とする。第2回の挑発は、「我外交の位置を一時被動者より主動者に変ぜしめ」(「録」36)るが、それは直ちにロシアの干渉を呼ぶ。

6月14日

朝鮮公使、陸奥宗光外相に日本軍の撤退を要求。

6月14日

一葉、田中みの子の歌会の発会(例会)の手伝いのため朝から出かける。来会者は22~23人。

6月15日

子規『当世媛鏡(ひめかがみ)』(『小日本』連載~7月15日)

6月16日

朝鮮、日本軍第1次派兵(一戸大隊)、仁川着。続く第2次(大島義昌少将指揮の大島混成旅団)と合せ1万余。開戦の口実なく手持ち無沙汰

6月16日

陸奥宗光外相、清国公使に東学反乱の共同討伐および朝鮮内政の共同改革を提議。汪公使は本国への伝達を拒否するが、翌日午前1時まで協議は続きようやく伝達を諒承。21日、清国拒絶。

6月16日

一葉の日記より

「十六日 早朝、禿木子来訪。天知君より文あり。「花ごもり」二度目の原稿料送りこさる。禿木君も学校のいそがしき比(ころ)とて、はやくかへる。われは小石川稽古にゆく。

此日、三宅龍子ぬしより使にて、『依緑軒漫録』かさる。坪内ぬしよりかりたる小説もろとも、今宵通読。一時に及ぶ。」(「水の上日記」)

* 「文学界』第十六号(明27・4刊)掲載の「其五」から「其七」までの原稿料。

* 磯野徳三郎著。明治26年9月18日刊。発行所日本新聞社。リットン、ディッケンズ、ユーゴーの伝記・解題を掲げ、本文を抄訳で紹介している。

* 坪内銑子。

(十六日。早朝、平田禿木氏来訪。星野天知氏から手紙が来る。「花ごもり」の二度目の原稿料を送って下さる。禿木氏も学校が忙しい頃で早く帰られる。私は萩の合の椿古指導に行く。(以下十行抹消)

この日、三宅龍子さんから使いの人が来て、「依緑軒漫録」を貸して下さる。坪内逍遥先生から借りたという小説もあり、二つを通読するのに夜一時までかかった。)

6月18日

新聞同盟事務所、加盟各社に「伊藤内閣選挙干渉の手段」と題する通信を発す。

25日には、朝鮮問題審議の臨時議会召集を求める社説・短評を掲載するよう内報。

7月7日、「自由党党報」の対外硬派批判に「駁撃」を加えるよう指示。

6月20日

李鴻章、ロシア公使に朝鮮問題で日清間の調停を要請。

6月20日

明治東京地震

この日14時4分、東京湾北部を震源として地震が発生(南関東直下地震)。地震の規模はマグニチュード 7.0、震度6。

帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)地震学教室によれば、余震が少なく、6月21日、22日には弱震が1回ずつ、微震が数回程度あっただけ。但し、10月7日に発生した東京湾の地震(M 6.7)は最大余震の可能性が指摘されている。

被害の中心は東京から横浜にかけての東京湾岸で、建物の全半壊130棟(東京府90棟、神奈川県40棟)、死者31人(東京市24人、横浜市4人、橘樹郡3人)、負傷者157人。建物の被害は洋風建築の煉瓦建造物の被害が多く、煙突の損壊が目立った事から、煙突地震の異名もある。華族会館(旧鹿鳴館)のバルコニー到壊。

6月20日

竹鶴政孝、誕生。ニッカウヰスキー

6月20日

一葉の日記より

「二十日 午後二時、俄然大震あり。我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなく、そこなひたる処などもなかりしが、官省通勤の人々など、つとめを中止して戻り来たるもあり。新聞の号外を発したるなどによれは、さては強震成しとしる。被害の場処は、芝より糀丁(かうじまち)、丸之内、京橋、日本橋辺おも也。貴衆両院、宮内、大蔵、内務の諸省大破、死傷あり。三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。直に久保木より秀太郎見舞に来る。ついで芝の兄君来訪。我れも小石川の師君を訪ふ。師君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし。「床の間の壁落、土蔵のこしまきくずるゝなどにて、松平家は大事成し」とか。鍋島家にて新築の洋館害に達て、珍貴の物品どもあまたそこなひ給ひけるよし。師君のもとにはさしたる事もなかりき。此夜、「更に強震あるべきよし人々のいへば」とて、兄君一泊せらる。その夜十時過る頃、微震あり。

・・・」(「水の上日記」)

(二十日。午後二時、急に大地震がある。

私の家は山陰の低い所なので、それほど振動もなく損害もなかったが、役所勤めの人たちの中には、仕事をやめて帰って来た人もいた。新聞の号外によれば、成程強震だったということがわかった。被害の場所は芝から麹町、丸の内、京橋、日本橋あたりが主な所でした。貴衆両院、宮内、大蔵、内務の各省は大破し死傷者も出た。三田小山町辺には地が裂けた所もあり、泥水を噴き出し、その様子は恐ろしい程であったと聞く。すぐに久保木から秀太郎が見舞に来る。ついで芝の兄も来る。私も小石川の中島先生を見舞う。先生はこの日、四谷の松平家にいてこの強震に遭われたとのこと。床の間の壁が落ちたり土蔵の腰巻きの壁が崩れるなど、松平家では大事であったとのこと。鍋島家では新築の洋館に被害が出て、珍しい貴重な品物が沢山破壊したとのこと。先生のお宅は大したことはなかった。

「今夜再び強震があるだろうと人々が言っているから」

といって、兄は泊まっていく。夜十時過ぎ頃に微震があった。)


「この頃の事すべて書尽しがたし。朝鮮東学党の騒動、我国よりの出兵、清国との争端、これらは女子の得(え)よくしるべき事にもあらず、かつは此頃打つゞき心のせわしきに、その日の事をその日にしたゝめあへねば、やがては忘れて散うせぬるも多かり。又折をまちてかひつけてん。

北里、青山両医博士、黒死病しらべとて香港に渡りたるは、いみじき名誉なりしや。青山博士の、その病につかれてあやふげなる電音(でんおん)おぼつかなし。知らぬ人にもあらぬ仲なれば、殊に哀なり。」

(事件が多いので、この頃の事をすべて書き記すことは出来ない。朝鮮の東学党の騒乱、それに対する我国からの出兵、そして清国との争いの起こり、これらのことは女子の身ではその事情を充分知ることは出来ない。またこのところ何かと心慌しい日が続いて、その日のことをその日のうちに記録することが出来ないので、そのまま忘れてしまったものも多い。またそのうちに思い出して記録しよう。

北里柴三郎、青山胤通両医学博士がペスト菌調査のため香港に行かれたのは非常に名誉な事でした。青山博士がそのペストに感染され生命が危険であるという報道があったが、気がかりな事です。全然知らない間柄でもないので、特に悲しく思われるのです。)

青山胤通;

明治27年(1894)南清国各地にペストが流行し、その研究に派遣されるも罹病し、数日間の危篤の状態になる。明治34年(1901)日本の臨床医学を確立し、明治34年(1901)東京帝国大学医科大学長。明治36年(1903)ドイツ・オーストリア・フランス・スイス・ロシア・イギリス・アメリカを歴訪、明治37年(1904)4月に帰国。明治40年(1907)桂太郎を総裁に、渋沢栄一を副総裁に癌研究会を発足させる。明治45年(1912)明治天皇崩御に際して、その拝診を仰せつかる。

内科医師の立場からペスト・脚気などの治療に取り組み、明治・大正にわたって、日本医学界の発展と改革に努めた。しかし、「脚気」の原因について東大の威光を背に最後まで伝染病説を主張したが、やがてビタミンB1が発見され後輩である島薗順次郎にビタミン欠乏症であることを証明されるにいたり敗北するという東大権威主義の一面もあった。大正4年(1915)所轄が内務省から文部省に替わった折に北里柴三郎に代わって伝染病研究所所長となる。


つづく

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