2024年4月4日木曜日

大杉栄とその時代年表(90) 1893(明治26)年7月19日~30日 子規の東北旅行(3) 鮎貝槐園との交歓 旅費の工面 商材仕入れのための5円の金が手元にないと歎く一葉 黒田清輝、フランス留学から帰国

 

《朝妝》(ちょうしょう)黒田清輝(明治26年)

大杉栄とその時代年表(89) 1893(明治26)年7月19日 子規の東北旅行(2) 「松島の心に近き袷(あわせ)かな」 「秋風や旅の浮世のはてしらず」 「われは唯旅すゞしかれと祈るなり」 より続く

1893(明治26)年

7月19日

子規の東北旅行(3)

「「はて知らずの記」と『おくのほそ道』の類似点と相違点については山下一海の『俳句で読む正岡子規の生涯』が詳しい。・・・・・「はて知らずの記」と『おくのはそ道』は類似点より相違点の方がずっと多い。しかもそれは・・・・・。芭蕉と子規、二人の文学者の年齢と資質の違いによるものでもあった、と山下氏は言う。・・・・・山下氏は、「子規の芭蕉を慕う気持ちはわかるのだが、芭蕉が古人を慕った態度とはかなり異なっている」と述べる。そして芭蕉の『笈の小文』の、「跪(きびす)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖(ひじり)の事心にうかぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依(むえ)の道者の跡をしたひ、風情の人の実をうかがふ」という一節を引いたあと、こう書いている。


芭蕉が子規と最も異なるところは、子規が芭蕉一人を慕っていることに対して、芭蕉は複数の古人を慕っていることである。ここでは「西行」「いきまきし聖」(証空上人のこと)をはじめ、「無依の道者」「風情の人」などが挙げられている。しかも途中に「造化の功」といった超人間的な力も並べられている。・・・・・芭蕉の先人追慕は、共感的、実感的であり、かつ、高く、広く、遥かなのである。それに比べて、子規の芭蕉追慕は、ただその足跡を慕うというだけで、深まりと広がりに欠け、実感性にとぼしい。


・・・・・と言っても、山下氏は、子規を批判しているわけではない。

「子規は芭蕉のようには、旅に人生を重ねたりはしない。つまり芭蕉と子規では、旅に対する認識が全く違うのである。それは芭蕉より子規のほうが劣っているというようなことではない。おそらく文芸に対する欲求の違いであろう」。つまり芭蕉が「詩的で詠嘆的」であるのに対し、子規は「合理的で散文的」なのだ。そして、「その違いによって子規の芭蕉批判が可能であったし、俳句革新が成就し得たのである」。

今、「子規の芭蕉批判」というフレーズが登場して来た。

先に私は、芭蕉という大きな壁を乗り越えるために子規が『おくのほそ道』の跡をたどる旅に出たと述べた。ロールオーバー松尾芭蕉。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

鮎貝槐園との交歓

「旧城址の麓より間道を過ぎ広瀬川を渡り槐園子を南山閣に訪ふ」(『はて知らずの記』)

与謝野鉄幹(20)と落合直文の弟・鮎貝槐園が槐園の故郷仙台へ旅行し、松島へ旅行中の子規と会い、和歌の改革で意気投合。後には対立する両者だが、鉄幹は後に根岸に住み、しばしば子規を訪れ志を同じくする2人の交際は続く。鉄幹、紀行「松風島月」を新聞「日本」に連載。

南山閣は高台にあった伊達家老石田家の別荘

〈金の工面〉

日本新聞から旅費をもらっていた子規だが、手元の金が少なくなってきた。8月7日、叔父大原恒徳に10円を根岸に送ってくれるよう依頼する。

 

 拝啓仕候。暑気いよいよ烈敷候処、御全家御揃被遊御機嫌御消光奉慶賀候。さても私、去る頃申上候通り、奥羽漫遊に出掛候えども、兎角にはかどりかね、ようよう昨夜当地着仕候。これより羽後の象潟を一見致し候上、盛岡にいで再び汽車にて帰京する積りに御坐候。旅行少々病気にかかり、養生かたがた仙台には一週間ばかり滞在仕候。病気と申しても別に何病というでもなく、只々身体疲労して朝も昼も夜も無闇に眠たきばかりにて、隔日くらいには午睡もいたし、大に体力を養い候ところ、甚だ健壮に相なり、仙台を出て二日ばかり山路を辿り、現に昨日は下駄ばきにて九里余の道をありき候えども、足こそだるけれ、からだには申分無御坐候。しかし途中用心して日中は茶屋にやすみ、さなくとも二里三里許行けば必ず一時間許休息することに定めおり候。

○例の通り恐入候えども、今月末までに十円だけ宿許(根岸)宛にて御送附被下間数候や。途中仙台滞在などのため、余計の費用を要しために、本月分月給のうちより十円だけ前借致し候次第に御坐候。他の健壮書生の話をきけば一日三十銭にてすむなどと申候えども、私のはどうしても五十銭は要し候故、太た閉口致し候。やすみやすみの茶代馬鹿にならぬものに御坐候。先は用事まで出立の際大畧恐惶謹言。

廿六年八月七日  叔父上様

今日は最上川の船にのるつもりに御坐候。(明治26年8月7日大原恒徳宛書簡)

更に、8月14日、子規は日本新聞社主陸羯南に対しても送金を依頼。「毎々恐入侯候えども」とある。

 

 拝啓溽暑中々難去候。御地も同様と存候嘸御困却のことと奉存候。小生去る五日仙台を辞し関山越より羽前に入り、最上川を下り、陸路酒田本圧を経て昨日秋田より当地着。目的はただ象潟一見に御坐候。

 炎天といい羸脚(るいきゃく)といい、数日の行脚にほとほと行きなやみ候に付、昨日より掟を破り馬車人車等に打乗申候。けだし天いよいよ熱く、懐ようやく冷かなる時候に向い候に付、車馬は全く禁じ、しかも一日十里詰の歩行しなければ帰京難致都合に相成、両三日はやって見候えども、何分十里はさておき七八里も覚束なく、ついに右の禁も解き申候。

 ついては軍用金不足に付、毎々恐入侯候えども、またまた三四円拝借仕度何卒願上申候。もっとも旅費の尽きたるところより電信か郵便にて可申上候に付、その節またまた御手段相煩申度候。当地よりは可成早く鉄道にとりつく考なれども、青森へ出ては不経済に付、秋田より横手に帰り、それより黒津尻に出る積りに御坐候。出立後一月に垂んとすれば最早帰京も可然と存候。先は用事まで。恐惶謹言。

八月十四日朝  象潟湖畔旅亭   常規 拝

 陸老先生 虎皮下

   留守中別けて御世話相掛候ことと存候。

   苦痛多き時は名句も何も出不申候。(明治26年8月14日陸実宛書簡)

7月21日

ナンセン、プラム号で北極探検に出発

7月22日

東海道・鈴川の宿高砂屋。失恋した藤村は旅に出て、「文学界」の仲間を呼寄せる。北村透谷・戸川秋骨・平田禿木。透谷は「ハムレット」のオフェリアのせりふを実演。藤村は「春」にこの場面を書く。

7月22日

一葉の母、父の旧知の日本橋の伊勢利を訪ね、商売の助力を頼む。

昨日今日は新居の掃除や店の準備で忙しい。

7月23日

一葉のところに伊勢利(石井利兵衛)が来て、店の棚つりなどをしてくれた。帰りがけに、古い馴染の浅草門跡前の中村屋忠七を紹介するというので、一葉が伊勢利に連れ立って行き、5円ばかりの品を整えてくれと頼み、手付として1円を渡す。明日に荷を持ち込む約束で、明後日に伊勢利が飾りつけに来てきてくれる手筈となる。

しかし、その5円が手元にない

7月24日

一葉、問屋に支払う金の工面ができない。この日、初めて吉原遊郭に入る。

7月25日

陸奥宗光外相、青木英国公使に条約改正に関する訓令。同日付私信で、従来の失敗の原因は国内世論が弱いためであり、今後は自由党との連携を強化すると述べる。

7月25日

一葉、元手資金がなく、5円の仕入れもできないと嘆く。

翌日、母たきは仲之町の引手茶屋伊勢久の千代という女性を訪ね、仕立物の内職の世話を頼み、ゆかたの注文を貰う。仕上がりによって継続するという。

この夜、「国子と共に家の善後策を案ず」

母方の親戚広瀬伊三郎に借りる積りであったが、伊三郎の妾が急病になったり、貸していた金が返らなくなったり、故郷の妻も病気になり、帰郷しなければならなくなったとか、当てにならない。

やはり西村に頼むしかない、と母が言う。今回は家具を整理して、20円ほど引き受けてくれる筈になっている。しかし、24日に母が、せめて5円だけでも早く欲しいと頼むと、どうしても駄目との冷たい返事であった。

仕方ないので、問屋に交渉して、荷入れを2、3日待ってもらい、伊勢利にも断りを入れる。

「落ぶれて、そでに涙のかゝるとき、人の心の奥ぞしらる、とは、げにいひける言葉哉。たらぬことなき其むかしは、人はたれもたれも情ふかきもの、世はいつとてかはりなきものとのみ思ひてけるよ。人生の行路難は人情反ぶくの間にあるこそいみじけれ。」と西村への怒りをぶちまける。

「人は唯其時々の感情につかはれて、一生をすぐすもの成けりな。あはれはかなのよや。さりとては又哀れのよや。かの釧之助が我家に対して、其むかし誠をはこびけるも、昨日今日のつれなき風情も、共に其のこころのうつしゑ成けり。今にもあれ、我が国子をゆるさんといはば、手のうらを返さぬほどに、そのあしらひの替りぬべきは必定也。をかしやうきよのさまざあなる。ここには又かかる恋もありけり。其かみは我家たかく彼家いやしく、欲より入て我はらからを得んとこひ願ひけめ。やうやう移りかはりては、かしことみて我れ貧なるから、恩をさせてをしいただかせんとや計りつらむ。夫(ソレ)にもしたがふべき景色の見えぬを、いとつらにくく、口をしく思ひて、扨はこたびの事を時機に、おもひのままにくるしめんとたくらみけるにや。こは我がおもひやりの深きにて、あるひはさる事もあらざるべしとはおもへども、彼れほどの家に五円十円の金なき筈はあらず、よし家にあらずとて友もあり知人もあり、男の身のなさんとならば成らぬべきかは。殊に母君のかしら下ぐる斗にの給ひけるをや。とざまかうざまにおもヘど、かれは正しく我れに仇せんとなるべし。よし仇せんとならばあくまでせよ。樋口の家に二人残りける娘の、あはれ骨なしか、はらはたなしか、道の前には羊にもなるべし、仇ときゝてうしろを見すべき我々にもあらず。虚無のうきよに好死処あれば事たれり。何ぞや釧之助風情が前にかしらをし下ぐるべきかは。・・・」(同7・25)

今度という今度は、一回便りを出してその返事行かんによってはただではおかぬと意を決する一葉

西村の両親にも釧之助にも面倒をみてきた母たきが、頼みに行ったにもかかわらず断られたと怒り、背水の陣をしいての生活転換にも拘わらずたかだか5円の元手が工面できない痛哭、細民街に身をおく切迫した危機意識が、一葉を包む。

7月26日

一葉の母たき、昨日につづき中之島へ仕立物について聞きに行き、午後、出来上がったものを持って再び行く。一葉、西村への怒りを抑え、「早朝西村に手がみを出す。字句つとめてうやうやしくひたすらにたのみてやる」とある。したたかな一葉。

7月27日

西村釧之助が頼まれたほどには用意できないと3円持ってくる。

時事問題について、相馬家の相続問題、朝鮮公私の問題(大石正巳を更迭、大鳥圭介が清国公使と兼任)、杉浦重剛の日中関係論に大いに納得。

欧米人種の伸長に対して、日中の結束を説く。(「日支の関係」(「東京朝日新聞」7月26,27日))

7月29日

アルゼンチン、大統領にPANのロケ・サエンス・ペーニャ就任。弾圧受けた急進市民同盟、各地で武装蜂起、敗北。ブエノスアイレス州武装闘争指導のイリゴージェン、一時州都ラプラタ制圧。

7月29日

エンゲルス、遺書作成。

7月30日

黒田清輝、フランス留学から帰国。外光派の画風をもたらす。

7月30日

ポーランド王国、社会民主党が結成。

つづく

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