1893(明治26)年
8月12日
文部省、学校の祝日大祭日の儀式に用いる唱歌として君が代等8編を選ぶ
8月13日
北インド各地、牛の屠殺問題を巡りヒンズー・イスラム教徒の衝突。
8月16日
子規、秋田の大曲駅旅館からもうすぐ旅を終えると漱石に葉書を出す。
「拝啓寄宿舎の夏季休暇果して如何」と書き始められ、「炎天熱地」に苦しめられているとし、
「秋高う象潟晴れて鶴一羽」
「喘(あえ)ぎ喘ぎ撫(なで)し子の上に倒れけり」
という二句を書きつける。
8月17日
南方熊楠、英国の週間科学雑誌「ネイチャー」に「星宿構成に関する5条」の質問を見出し、答文「極東の星座」を起稿。骨董商片岡プリンスは熊楠の博識の深さに気付き、大英博物館の考古学・民俗学部長で富豪サ-・ウオラストン・フランクスに紹介、博物館に出入りする。30日で「極東の星座」を完成、「ネイチャー」に掲載され一躍有名になる。以後、しばしば同誌に論文を発表、随筆問答雑誌「ノーツ・アンド・クィアリーズ」にも寄稿、多数の論考・答文を発表(帰国後も東洋学の権威者として名を馳せる)。大英博物館には毎日のように通い、稀覯書物を読みふけり、主に考古学・人類学・フォ-クロア(民俗学)・宗教学などを勉強。残したノート類は52冊(「ロンドン抜書」)、また、「大英博物館日本書籍目録」「大英博物館漢籍目録」編纂に尽力する。
8月18日
一葉、大音寺でせんべえを買い、駒形で蝋燭の注文をし、門跡前で渋団扇を購入。更紗模様の革の鼻緒の白木の後歯下駄を20銭で買う。
8月19日
明日は龍泉寺の氏神である千束神社の祭りで、今年は特に賑わうとのことで隣の酒屋も2日間売り出しをするという。店の品物を増やそうにも元手がないので、一葉は、見栄えの良いマッチ箱を50銭ほど仕入れる。夜更けまで大多忙。
8月20日
千束神社大祭。
この日朝は雨模様であったが、迷ったあげく多丁へ買出し、10時頃に戻る。この日は1日で売上げは1円ばかりの賑わい。
21日も賑やかだが、子供たちを大道商人に取られ、商いは振るわず。
8月21日
(露暦8/9)チャイコフスキー、「交響曲第5番<悲愴>」完成。
8月25日
8月下旬~9月上旬、一葉、頭痛で寝込む日がしばしばある
「(八月)廿五日 ・・・此処(ここ)四、五日、事のせわしさ、なみならざるが上に、脳のなやみつよくして、寐たる日もあり。すべて日記怠りぬ。」(「塵中日記」8月25日)
8月29 日
子規、自宅で「奥州帰り」句会。
8月30日
漱石、子規を訪問。子規「蕣(あさかお)や君いかめしき文學士」(『獺祭書屋日記』
秋
自由党大演説会。江原素六、わが国の兵備が完成し、「英国の東洋艦隊でも一撃に撃ちましたならば、支那、朝鮮は訳もなく震えあがって、我日本帝国はアジア大陸の盟主となる」と説き、条約改正も「基づく所は兵力」であると軍国主義を煽る。
9月
漱石、東京専門学校で、『スウィントン文集』(輪講)、ミルトン、バイロン、ダ・クィシシー(講義)をすることになる。
東京専門学校文科での英文学は、磯野徳三郎がスコット、ディケンズ、坪内逍遥がシェークスピア、カーライル、エマースンを担当する。哲学では、大西祝・小屋(大坂)保治・立花銑三郎も講義する。坪内逍遥は史学で、「英文学史」を講義する。(『早稲田文学』明治二十六年九月二十五日刊)
9月
幸徳伝次郎(23)、中江兆民の口ききで板垣主宰立憲自由党機関紙「自由新聞」翻訳係となる。
9月
プラハで暴動。ハンガリーと同様のアウグスライヒをオーストリアに要求。ターフェ首相の「生き延び」政策も限界。11月、フランツ・ヨーゼフは、ターフェ更迭。ヴィンディッシュグレーツを首相に任命するが短命。
9月1日
一葉日記。「九月一日 早朝より例之(れいの)脳病起りて、しばしもたつことあたはず、終日(ひねもす)ふしたり。午後より雷雨おびたゞし。」
9月1日
(露暦8/20)ロシア、レーニン(21)、サマラ県を出て8/31ペテルブルク着。ポトレソフ、シュトルーヴェ(アストラハン県知事息子)などのマルクス主義者グループに加わる
9月3日
自由党武相支部発会式。昌孝、座長となり支部規則議論。
9月4日
一葉日記。「四日、早朝より多丁へかひ出しに行く。・・・此日狂風砂塵を巻きて、御成道・広小路あたりは、面を向くる方もなし。車にて帰る。広瀬伊三郎帰京、参り居りしかど、脳痛はげしく、しばしも起居る事かなはねば、其まま打ちふす。・・・」
9月6日
一葉、この一両日、頭痛がひでく殆ど寝たきりだったため、日記も書けなかった。
9月7日
午前5時、築地本願寺別院小使部屋より出火、太子堂以外焼失。築地本願寺は樋口家の菩提寺。
9月8日
イギリス、ウィリアム・グラッドストン内閣提出第2次アイルランド自治法案、上院で否決。
9月8日
ニュージーランド、シェパード女史ら婦人キリスト教連合の運動により世界初の女性投票権法成立。19日、女性投票権法発効。成人女子75%が選挙権を得る。
9月10日
官営富岡製糸場、三井高保に払い下げ。
9月10日
下田歌子(39)、横浜港からフランス船メルギルン号で出航、英国皇室の皇女教養事情視察のためイギリスに向かう。28年8月20日に帰国。
9月15日
三多摩自由倶楽部発会式、北多摩郡三鷹村で開催。昌孝も出席。
9月15日
吉原遊郭の定例行事の俄(仁和賀狂言。芸妓の踊りと幇間の狂言)が始まり、一葉の母たきが切符を貰い見物に行く。
9月16日
一葉、下谷の風船屋にゴム風船を仕入れに行く。
9月18日
一葉に、『文学界』の星野天知から、寄稿を促す葉書が届く。
(星野の手紙)「敵にうしろを見するを慙(はず)るは男子のみには候まじ。女文なくんば冬園一輪の花なき嘆あり。斯道の為めやりそこねても何の罪にも成るべからず。当号へ何か御心組は無くや御一報待居申候」 (明治26・9・18付)
挑発的ともとれ、また懇請のようでもありながら、出来ばえについては問わずに励ましをこめた手紙。『文学界』が女性の作品をほしがるのは、希少価値としてばかりでなく、女性尊重の見地から女性のオ能の育成を促進するという、進歩的理念によることであった。星野の葉書から、一葉はその真面目な意図と情熱とを受けとめた。
9月19日
一葉、ここ4~5日、頭痛がひどく、その上商売が忙しく何もできない。
「(八月)十九日 四、五日脳痛はげしく、加ふるに商業忙しくして、何事をもものせず。」(「塵中日記」9月19日)
9月21日
一葉、商売は軌道に乗り、売り上げは順調だが、利益は厳しい
「廿一日、おなじく雨。此頃の売高、多き時は六十銭にあまり、少なしとても四十銭を下る事はまれ也。されど大方は、五厘、六厘の客なるから、一日に百人の客をせざることはなし。身の忙しさかくてしるべし。」
売り上げは順調で、1日40銭~60銭となる。しかし、仮に1日の利益が15銭としても、月に4円50銭。親子3人の生活費にもならない。
9月22日
南方熊楠、この年(明治26年)春頃から大英博物館に通うようになり、この日、博物館の要人の知遇を得る。
「片岡氏とブリチッシュ・ミュージュムに行、古物学部長フランクス氏及助手リード氏に面会。午餐談話の後、館内の別室を開かれ、仏像、神具等に付尋問あり。リード氏一々ラベルに筆記す。畢て邸にがへり、談話の後、夕に至り帰る。」(9月22日付け熊楠の日記)
「幸運なことに熊楠はこの日、英語で書いた処女論文「東洋の星座」のゲラ刷のチェックまで、フランクスに行なってもらったという。そしてこの論文は、翌十月、つまり夏目漱石が高等師範に初出講するころ、イギリスでも権威ある雑誌『ネイチャー』に掲載されるのだ。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
大英博物館には毎日のように通って、収蔵されている古今東西の稀覯書物(容易には見られない書物)を読みふけり、主として考古学、人類学、フォ-クロア(民俗学)、宗教学などを勉強した。
9月23日
一葉、毎日の勤めとして、早朝、金杉の菓子の卸屋に行く。帰宅後すぐに食事をして、神田へ絵紙を買い出しに行く。
9月28日
一葉、野々宮起久へ手紙。
野々宮起久は、明治2年(1869)9月9日千葉県香取郡多古町の呉服と荒物を商う野々宮商店の娘として生まれた。裁縫の稽古に通っていた先で一葉の妹邦子くにと知り合い、東京府女学校時代に一葉を桃水に紹介した人物である。卒業後麹町小学校に就職、明治25年10月から盛岡女学校(現・盛岡白百合学園)に転職したが、同26年12月26日付で退職する。
8月20日この書簡が出される前、多古町に戻った起久は一葉に対して「御病気後保養のため一カ月間ばかり御出でなされては如何」と勧めた手紙を寄せていた。
一葉は商いの生活に追われ、起久の誘いに対して「ありし御詞にあまへせめては三日がほどを塵外にのがれ度と願ひながら知らせ拾ふ如き境界に落人たる身は厘毛のあらそひに寸の暇もなく火宅のやどにうごめき居候次第御笑ひ下さるべく候」と書いている。
つづく
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