2024年6月4日火曜日

大杉栄とその時代年表(151) 1895(明治28)年5月14日~19日 三宅雪嶺「臥薪嘗胆」(「精神的にはほとんど別人となり」帝国主義に転向) 「三食を節して二食となすも海軍を拡張せよ」(報知新聞) 「かしらのわるくていと寐ぶたきに、終日床にあり。、、、時は今まさに初夏也。衣がへもなさでかなはず。ゆかたなど大方いせやが蔵にあり。、、、、、手もとにある金、はや壱円にたらず」(一葉日記) 子規、下関に到着したが上陸できず。  

 

ロシアの脅威

杉栄とその時代年表(150) 1895(明治28)年5月10日~14日 一葉日記(孤蝶と禿木の人物評 彼等とは「行水と落花の仲である」 醒めた眼で楽しい交友の終りを考える) 子規、帰国途上船中で喀血(「ああ、とうとうやってしまった・・・」) より続く

1895(明治28)年

5月14日

「大阪朝日」の1面雑報欄トップに「泣て 大詔を読む」(西村天囚人)。

翌15日、11日間の発行停止処分。

「泣て 大詔を読む 大詔紫枢より出づ、億兆臣庶、捧読数過、大御心の深きに対し奉り唯血涙あるのみ。・・・読畢りて鳴咽言ふ所を知らず、帝国臣民たる者宜しく沈重謹慎以て他日の商定を待つべきのみ。」

発行停止の理由は明示されず。天囚筆の社説「国民之戒在於狃恩」(国民の戒めは恩に狃るるに在り)中の「挙国居喪」(国を挙げて喪に居る)や「素服して外征より還るの師を迎へ」が忌諱に触れたとみられる。「聖意を体し奉り、深く国家の地位を思へば、寧ろ挙国居喪の意を為し、八音を遏密し、素服して外征より還るの師を迎へ、将士も亦敗軍の後の若く、粛然とんて其れ謹み、以て国民と涙を揮て相見るは、豈に其の宜しきを得たりとせざらんや」と、「敗軍」にたとえたところも、遼東還付の詔勅への批判と受け取られる。

5月14日

この日付の一葉の日記

「十四日、今日夕はんを終りては後に一粒のたくはへもなしといふ。母君しきりになげき、国子さまざまにくどく。我れかくてあるほどはいかにともなし参らすべければ、心な労し給ひそとなぐさむれど、我れとて更に思ひよる方もなし。」

(朝、今日の夕飯分を終えるともう米一粒の貯えもないと家族で嘆く。)


星野天知から「文学界」への寄稿の念押しの手紙が届く(「たけくらべ」(九)以降の続稿のこと。結局、この時は締め切りに間に合わなかった)。

萩の舎へ行って博文館の件の礼を述べる。中島歌子から今月の助教の報酬2円を渡してくれて助かる。家に戻ると、伊東夏子が遊びに来た。また、萩の舎の同門斎藤竹子から手製のすしが送られる。夜、国子が、わか竹(寄席)にかかっている女義太夫の竹本越子一座を見に行こうと誘う。聞いたのは、越子の「艶容女舞衣」酒屋の段、竹本越六の「絵本太閤記」など、髯を生やした大の大人が泣き、場内は一心に聞き入っていた。

5月15日

三宅雪嶺「臥薪嘗胆」(「日本」)。遼東還付の引責論。発行禁止。解停の27日、

「遼東の軍局に対する私議」で外交当局の引責辞任要求。但し、世論は開戦により屈従した反政府熱が蘇るのではなく、この責任を国力不足に求め、干渉に抵抗するために国力培養が必要という方向に移る。雪嶺は「臥薪嘗胆(中)」で「臥薪嘗胆」の語が外交失政の口実を与えることになったの延べ、(下)は書かず。また、徳富蘇峰は「力で足らなければ、如何なる正義公道も、半文の値打ちもない」と確信し、3国干渉以降、「精神的にはほとんど別人となり」、帝国主義に転向(「蘇峰自伝」)。

「大阪朝日」によれば、詔勅発布以後10日間で全国38紙が発行停止処分を受ける。三国干渉に対して「嘗胆臥所」して耐えるべきを説いた三宅雪嶺「日本」の、「最後の頓座(三国干渉)真に憾むべく、疾呼し絶叫して責むるの価値あるも、しかるも当局者において既にすでに自ら悔悟する所あるぺければ、今更これを窮逐するも益なかるべきか」でさえ批判と受け取られる。

5月15日

一葉のもとに孤蝶来訪。第1回の試験の首尾は良かったらしい。春陽堂「写真画報」と博文館「文藝倶楽部」4号を借りる。夕飯を一緒に食べて、夜に帰る。

5月15日

ロシア、ロバノフ外相、西公使に対して、日本は朝鮮内政に極端に干渉(日本官吏の配置、鉱山採掘権・鉄道施設権)し、不満高まっている、善処必要と述べる。また、駐露アメリカ公使の、ロシアは近々日本に対して朝鮮駐在軍撤兵を求めるであろう、という報告が陸奥外相に届く。

5月16日

林家彦六(8代目林家正蔵)、東京に誕生。

5月16日

一葉のもとに、野々宮菊子と安井哲子が稽古に来る。

5月17日

改進党系「報知新聞」、「三食を節して二食となすも海軍を拡張せよ」

「国民新聞」(6月1日)、「五年以内に欧州最強国極東海軍の二カ国にたいすべき海軍力を作ること」と「現時に倍する常備陸軍兵力を作ること」が必要と指摘。

「時事新報」(8月30日)、「今日実際においては天下の人心断じて軍備拡張に反対するものなし」と保証。

5月17日

この日付の一葉の日記

「十七日、一日雨ふる。かしらのわるくていと寐ぶたきに、終日床にあり。夕ぐれよりおき出づ。」

この日、星野天知から頼まれた「文学界」の原稿(「たけくらべ」の続稿)が全くできなくて困っている。その上家計の困難が加わる。

時は今まさに初夏也。衣がへもなさでかなはず。ゆかたなど大方いせやが蔵にあり。夕べごろより蚊もうなり出るに、蚊や許(ばかり)は手もとにあるなん、これのみ流石にこころ安けれど、来月は早々の会日など、ひとへだつ物まとはではあられず。母君が夏羽織、これも急に入るべし。ましてふだん用の品々、いかにして調達し出ん。手もとにある金、はや壱円にたらず。かくて来客あらば魚をもかふべし。その後の事し計(はかり)がたければ、母君、国子が我れを責むること、いはれなきにあらず。静に前後を思ふて かしら痛き事さまざま多かれど こはこれ昨年の夏がこゝろ也。けふの一葉はもはや世上のくるしみをくるしみとすべからず、恒産なくして世にふる身のかくあるは覚悟の前也。軒端の雨に訪人なきけふしも、胸間さまざまのおもひを、しばし筆にゆだねて、貧家のくるしみをわすれんとす。」(「みつのうえ」明28・5・17)。

隣に住んでいた銘酒屋浦島やが引っ越しをする際に、その池に飼っていた緋鯉や金魚などを預けていった。大きな魚たちが鰭を動かし尾を振って泳ぐ姿は見事だったが、しばらくして、引っ越し先に池がが惚れたというので、そこの妻が網を持ってきて、小さな魚は獲りづらいと、もともといた大きな魚まで持って行ってしまった。母などはひどく悔しがる。世間の無常を思う。"

5月18日

陸奥外相、対ロシア政策上、朝鮮を列国に開放する事を条件にイギリスを引き入れる事を提案し、駐英公使加藤高明への訓電案を起草し、伊藤首相に上奏を依頼。伊藤は、戦争目的を根本的に変更するものとして、決断できず。

電訓案。まず「今、陸海ノ強兵ヲ有スル国(ロシア)ニシテ、一朝、朝鮮ヲ占領シ其威力ヲ黄海ニ恣スル事モアラバ、全世界ノ震愕ヲ来スハ勿論ナリ」、これを防ぐために「各国ニ於テ朝鮮ノ独立ヲ担保スル」ことを提議し、日本はその代わりに朝鮮から撤兵すると、イギリス政府に申出るよう指示する内容。列強に多少の分け前を与え、その利権を朝鮮に引き込みロシアの占領を阻止し、何とか朝鮮支配の主導権だけは日本で維持しょうといもの。伊藤が決断しえない内に、朝鮮の親露派の勢力が増し、朝鮮駐在井上馨公使の急電は、日本が現状を維持するには、今後朝鮮にたいし「十分強大ナル圧力ヲ加へゲルべカラズ」と判断されるが、「其結果ハ、霧国ヲシテ朝鮮ノ事ニ容喙セシムルノ機会ヲ作為スルト同然」であり、「本官ハ殆ンド手ノ付ケ様ニ困却セリ」と伝え、日本政府に「干渉ノ程度、即チ朝鮮政略ノ大綱」をすみやかに決定することを求める。

5月18日

下関講和会議日本側全権、広島に帰り大本営に報告。21日、天皇が批准。

5月18日 

子規、馬関(下関)に到着

甲板に出てみると、人で一杯。背中越しに陸の方を見ると、低く連なる山々が手に届くほど近くに見える。その緑の美しさ。それまで遼東半島のはげ山ばかり見てきた子規の目に、日本の山は「緑青(ろくしやう)で塗ったのかと思はれた」という。だが、すぐその日に上陸というわけにはいかず、翌日、検疫があるということで、子規たちは船のうえでもう一泊することになる。

5月19日 子規、彦島で下船して風呂に入り、検疫所で衣服を消毒してもらい、心身共にさっぱりして上陸に備える。久しぶりに白い砂の浜辺を歩き、子規は「病気の事を忘れる程愉快であった」と記している。

5月20日 同じ船に乗っていた車夫1人がコレラで死んだということで、上陸は1週間延期され、船はこのまま下関に留まることになる。その知らせを聞いて、子規は足がガクガクし、部屋のベッドに戻って横になると、両足が「氷の如く冷え」てしまっていた。朝風呂に入ったせいなのだが、子規は、コレラ菌に感染したせいではないかと疑い、不安に駆られてしまう。「平生の志の百分の一も仕遂げる事が出来ずに空しく壇の浦のほとりに水葬せられて平家蟹の餌食となるのだと思ふと如何にも残念でたまらぬ」と子規は記す。おまけに、その日から喀血が一層ひどくなる。しかし、船内に吐き捨てるわけにもいかず、飲み込むしかない。それも「いやな思ひの一つであった」。

5月21日夕方、同乗の将校と従軍記者の代表が船長に談判したのが功を奏したのか、上陸できるかどうかは分からないが、船は神戸の和田岬まで進むことになる。

5月22日午後、船は和田岬に到着。

5月23日午前10時ごろ、上陸できることが決まり、検疫を受けたのち、午後3時すぎにようやく自由方面の身となる。

5月18日

一葉、夜、はじめて基督教青年会館の大音楽会場へ行く。会場の雰囲気に圧倒される。新しい知己を2人得る(不詳)。

5月19日

ドイツ、清国に対して、台湾問題で再戦になれば不利(賠償増、海南島など失う可能性)なため、独立運動を抑圧すべきと勧告。20日、唐巡撫を免職し帰国命令。

5月19日

金弘集内閣総辞職。後継、朴定陽内閣。

5月19日

この日付の一葉の日記

「十九日、午前のうちだけ小石川稽古を断りて、石ぐろ虎子がけい古をなす。野々宮君やがて来訪あり。もろ共にひるいいたべて、我れは小石川へゆく。帰りしは日没近かりしが、西村君来訪ありけり。留守のうち穴沢の清次、及び半井のぬしおはしたるとか。清次の事は事なし。半井ぬしはいかにしておはしたるにや。夢かとたどられて、何事を仰せられしと聞くに、あわただし。むし菓子一折を送られしよし、別しての物がたりもおはせざりし。姉君を迎へこんと幾度もいひしが、否さしての用事も侍らず、久々にて御不沙汰見舞に参りつる也、とて帰られしといふ。とにかくにむねつぶる。」

「むねつぶる」(胸がつぶれる)思いをしたとあるのを見ると、桃水への思慕はまだ続いているように見える。


つづく

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