2024年6月11日火曜日

大杉栄とその時代年表(158) 1895(明治28)年7月20日~31日 子規、県立神戸病院から須磨保養院へ移る 「或時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦を食つた」「須磨の静養は、居士の生涯に於ける最も快適な一時期であつた」 

 

須磨保養院

大杉栄とその時代年表(157) 1895(明治28)年7月1日~17日 海軍拡張計画 対清露仏借款(翌年英独も) 親露派と結び閔妃クーデタ、親日派追放 朴泳孝亡命 松山で師範学校と中学校の乱闘騒ぎ 自由党在京議員総会、軍備拡張と積極的経済政策を支持 より続く

1895(明治28)年

7月20日

早朝、子規が初めて外出し、虚子の下宿を訪ねる。

7月21日 子規、虚子を従えて人力車で下山手通の竹村鍛の家を訪ねる。

7月23日

閣議、遼東半島還付条件決定。①他国への不割譲、②代償5千万両、③牛荘・大連湾・沙河鎮の開港など。駐清公使林董を全権代表とする。

交渉後、条件は代償3千万両のみとなる。11月8日遼東還付条約締結。12月27日引渡し完了、撤兵。

7月23日

一葉、石黒虎子の文章を通信添削した際に、「つとめて無用の文字をはびき」、「御詞をかざ」らず、「俗言平語」の文章を書くことを薦める。

7月23日

子規、県立神戸病院を退院して須磨保養院へ移る。


「大砲の音も聞かず弾丸の雨にも逢はず腕に生庇一つの痛みなくておめおめと帰るを命冥加と言はゞ言へ故郷に還り着きて握りたる剣もまだ手より離さぬに畳の上に倒れて病魔と死生を争ふ事誰一人其愚を笑はぬものやある。」(『陣中日記』7月23日)


「保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちてゐた。何の雲翳(うんえい)も無く、洋々たる前途の希望の光りに輝いてゐた居士は、之を嵐山清遊の時に見たのであったが、たとひ病余の身であるにしても、一度危き死の手を逃れて辞任の悦びに浸つてゐた居士は之を保養院時代に見るのであつた。我等は松原を通つて波打際に出た。其処には夢のやうな静かな波が寄せてゐた。塩焼く海士(あま)の煙も遠く真直ぐに立騰(たちのぼ)つてゐた。眠るやうな一帆はいつ迄も淡路の島陰にあった。

或時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦を食つた。居士の健啖は最早余の及ぶところでは無かつた。


人も無し木陰の椅子の散松葉      子規

涼しさや松の落葉の欄(らん)による  虚子


などゝいふのは其頃の実景であった。」(虚子『子規居士と余』十)


須磨の静養は、居士の生涯に於ける最も快適な一時期であつたので、如何に機嫌の悪い時でも、どうかした話の蔓をたどつて其を須磨にさへ持つてさへ行けば、大概居士の機嫌は直ほつたのであった。」(虚子『子規居士追懐談』)

7月25日

井上公使、帰任。王夫妻に高額な品を献上。政府決定していない「財政再建のための300万円寄贈」を口にする。

7月25日

虚子が東京に戻る。

7月25日

この日付けの漱石の斎藤阿具宛ての手紙。


「当中学は存外美少年の寡なき処其代り美人があるかと思ふと矢張り払底に御座候何しろ学校も平穏にて生徒も大人なしく授業を受け居候小児は悪口を言ひ悪戯をしても可愛らしきものに御座候」


7月26日付の斎藤阿具宛の手紙。


「小生当地に参り候目的は金をためて洋行の旅費を作る所存に有之候処夫所ではなく月給は十五日位にてなくなり申候」

■松山時代の漱石とその頃の松山中学

(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』より)


「漱石は松山中学で四年と五年の英語を受けもっていた。指導を受け、後年漱石の主治医になる真鍋嘉一郎は、受けた感化は忘れないこと、講義振りの明快、熱心、正確なことにつづいて、「俳句は其時分可なり熱心で、試験の時や、作文の間なぞには、教室でも頻りに俳句の本を読んでゐた」(「夏目先生の追憶」『漱石全集』別巻)という。


漱石と小学校時代からの友人篠本二郎は、あるとき漱石に、「時に松山の学生の風は如何な塩梅か」と尋ねた。


君は曰く、てんで話にならない。教師が生徒に対して其罪を糺し、或は諭す場合にも、生徒は何時も私の損であるから犯しました、若くは私の徳であるから致しましたと答ふるを通例とし、毫も事理を弁じないから、殆ど諭戒の甲斐がない。

全然利己の外に一片の節操だも抱かざる有様であった。僅かの間就職して居たが生来こんな不快なる間に衣食したことがないと、長大息された。彼の『坊ちゃん』の小説も、斯く不平の間に胚胎したものと恩はるゝ

(「五高時代の夏目君」『漱石全集』月報一九三五年版三号)


と漱石は答えている。漱石の言が当を得たものであることを、松山中学の出身者である山本信博が次のように語っている。


其頃の松中は、全くの乱脈時代で、地方の有志、県会議員などを後楯とした生徒の団体が無闇に威張り散らす、校長始め教員達は、其内部一致せず、外生徒の跳梁を奈何(いかん)せんと云ふ有様であった


と述べ、金之助先生は事情(松山中学の内情)を知ってか知らずにか、平然と来任したが、先生の人格と学識との光は、直に生徒を抑えつけて従わせ、誰一人先生を謳歌しない者はない様になった、と語り、当時の思い出を次のように語っている。


当時卒業生中の腕白者数名が、新米先生を冷かしてやらうぐらゐの意味を以て、先生の下宿を訪問したが、僅かに三十分か一時間の談話中に、何か知らん感心させられてしまって、虎の如くにして往つた者が、猫の如くになつて帰って来た事もあつた。恥かしながら其猫の中に私も交じつて居たのである、此時が私の先生にお目にかゝった最初であつたと思ふ。                  (「松山から熊本」前掲書)

"

山本信博の体験発表は、小説『坊つちゃん』の内容を地で行っているようである。漱石が篠本二郎に答えた松山中学の実態は、1890年代日本での草創期の中学校に共通した問題である。当時の中学校は、多くの問題 - 地元有力者の容喙、校長の独裁または放漫経営、一部分別のない生徒の頻繁なストライキなど ー があったことは立証されている。

漱石の談話「正岡子規」でも、「教員などは滅茶苦茶であつた。同級生なども滅茶苦茶であつた」という回想にも示唆されている。漱石は大学三年のとき、教育学の論文として、教師の改良、生徒の改良を中心にした「中学改良策」を執筆している。松山中学の教師、生徒の行動には敏感であった。松山中学の夏目金之助先生のエピソードの一つとして、次のような話がある。

英語講義中に、参謀肩章をつけたいかめしい軍服姿の将軍が、ふんぞり返った姿をみせた。校長もお供をしている。金之助先生は形式的な挨拶だけで無視して、講義をつづけた。この軍人はのちの元帥上原勇作(日清戦争には第一軍参謀)、陸軍軍閥の大御所(半藤一利『漱石先生ぞな、もし』)。日清戦争が終った直後、軍人風が猛烈に吹きはじめたころのことであった。立憲君主国家から軍国主義国家へ、忠君愛国という言葉が声高になってきていた。

7月28日

サミュエル・ゴンパース、高野に手紙。翌年の米労働総同盟大会で報告招待。

7月29日

近衛師団、旧台北府管内制圧を完了。

日本軍が土兵や土匪(匪賊)と呼んだ義勇兵は大軍をみたら白旗を揚げて笑顔で迎え入れ、少数になれば後ろから襲いかかって日本軍を攻め立てたために、日本軍は対策として村まるごと殺戮するといった強硬手段に出た。このことがさらなる反発を呼び、抗戦運動を長引かせた。また、山岳地帯は天然の要塞となり、日本は各防衛拠点に人数を分散せざるを得なかった上に十分な情報の通信ができなかったことが、苦戦の直接的な原因とされている。こうした困難は、新聞に掲載された兵士の手紙などによって日本国民にも知らされていた。

7月下旬

樺山台湾総督、劉永福将軍に抗戦放棄勧告。拒否。

近衛師団は、抵抗・炎暑・河川氾濫・疫病のため、台中・彰化戦後は1ヶ月休養して戦力回復が必要な状況。

一方、義兵側も日本軍の近代兵器の前に苦戦、また、北部を占領されているため武器・弾薬が極度に欠乏。

7月

一葉、大橋乙羽に「にごりえ」未完原稿を届ける。


つづく



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