「文学界」同人
(前列左より上田敏、星野天知、戸川秋骨、星野夕影。後列左より島崎藤村、馬場孤蝶、平田禿木)
1895(明治28)年
5月10日
一葉のもとに、日暮に禿木が孤蝶を連れて来訪。禿木は第一高等中学校の同窓会で一杯機嫌になり孤蝶を誘った。孤蝶は哲学を論じ、文学を語る。10時になり孤蝶が帰ろうというが、禿木は帰りたくないと言う。試験もあるのにまた一葉のところで遅くなったと知れては、秋骨になんと言われるかわからないので、孤蝶のところに泊めてくれないかと頼む。結局11時頃帰る。孤蝶は辻占(菓子の包みに入っている占い)を開けて、〈これは戴いていこう〉と袂に居れて帰る。
この日付の一葉の日記
孤蝶と禿木の人物評;
「時は五月十日の夜、月山の端にかげくらく、池に蛙の声しきりて、灯影しぱしば風にまたたく所、坐するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたたえられし兄君辰猪が気魂を伝へて、別に詩文の別天地をたくはゆれば、優美高傑かね傍へて、をしむ所は短慮小心、大事のなしがたからん生れなるべけれども、歳は今二十七、一たびおどらば山をもこゆべし。平田禿木は日本ばし伊せ町の商家の子、家は数代の豪商にして、家産今やうやくかたぶき、身におもふこと重なるころとはいへれど、文学界中出色の文士。としは一の年少にて二十三歳也とか聞けり。」
他愛のないことで笑い、ときには議論白熱して自分が裁定を下すような、このような楽しい集いを、これからもまたできるだろうか。自分は無学無識で、家に財産などなく、親類で世に知れ渡っているものなどいない。はかない女の身を捧げて、思うことを世に無そうとしても心に限度がある。智恵の限界を知った身の上だ。彼らは水の流れに落ちた花で、春を告げてはくれるが、去り行く者。どうして変わらぬ友となろうか。出世しても必ず訪ねてくれると言ってはくれるが、浮き世の契りで、大変軽々しい友の仲である。昨日は他人でも今日は友となる。今日の親友は明日にはどうなるのか。花は散ってしまうものと分かっていながら、なお晩春に散るのを恨むことは誰にでもあることである。
一葉の家は、これらの訪問客で時には「サロン」のような雰囲気があったが、彼女は彼等との出会いが決していつまでも続かない(行水と落花の仲である)ことを意識している。
「わが身は無学無識にして家に産なく縁類の世にきこゆるもなし、はかなき女子の一身をさゝげて思ふ事を世になさんとするとも、こゝろに限あり。恵の極みしるべきのみ。かれは行水の流れに、落花しばらくの春をとゞむるの人なるべく、いかでとこしへの友ならんや。」(『水の上につ記』明治28年5月10日)。
「此人々と我れもとかり初(そめ)の友といふ名のもとに遊ぶ身也。うき世の契りに於ていと軽やかなる友の中也。さりとも猶此軽やかなるちかいさへ、末全からんや。まして情にはしり情に酔ふ、恋の中に身をなげいるる人々、いかに秋風の葛(クズ)のうらみつらからざらん。夜更て、風さむし。灯火のかげにものいふ孤蝶子も、窓によりて沈黙する平田ぬしも、その中にたちて茶菓取まかなふわれも、ただ夢の中なる事ぐさに似て、禿木ぬしがいはゆる、他界にあるらん誰人かの手にもて遊ばるる身ならずやと、思ふ事探し。きのふは他人にして今日は胸友たり。今日の親友あすの何ならん。花は散るべき物とさだめて、猶暮春の恨み、たれもありぬべき事。」
一葉は醒めた眼で楽しい交友の終りを考えている。
しかし、青年達の話を聞きながら一葉は刺激を受けて、彼等の共通意識や西鶴や鴎外の作品、ゲーテの作品、秋骨の「変調論」などを吸収して行った。奇蹟の十四カ月をもたらした要因の一つは、この「サロン」であったと言える。
5月11日
一葉、萩の者稽古。来会者20人近く。中村礼子が「太陽」5号を持ってきて、一葉の小説を人々に見せる。小笠原艶子が借りて行ったが、田中みの子も見たいと言って約束する。日没近くに帰宅。夕食を済ませて早くに床に入る。
5月12日
晴天。一葉の許に、石原虎子が、野々宮菊子の紹介状を持って入門。「源氏物語」と雅俗の文章を学びたいと言うので、2時間程教えて帰す。前田利嗣侯爵とその夫人朗子による博文館の「日用百科全書第一編 和洋礼式」のための題字と題歌が中島歌子から郵便で届けられる。題字「禮」は侯爵自身によるものだが、夫人による歌は歌子の代作。大橋乙羽が急いでいるだろうと思って、すぐに車夫に持たせて送る。
5月13日
この日付の官報、遼東半島の還付についての詔勅と講和条約全文を公表。
詔勅。「今において大局に顧み、寛洪もって事を処するも、帝国の光栄と威厳とにおいて毀損する所あるを見ず。朕、すなわち友邦の忠言を容れ、朕が政府をして三国政府に照覆するにその意をもってせしめたり。もしそれ半島譲地の還付に関するいっさいの措置は、朕、特に政府に命じて清国政府と商定する所あらしめんとす。・・・百僚臣庶、それよく朕が意を体し、深く時勢の大局に視、微を慎み漸を戒め、邦家の大計を誤ること勿きを期せよ」。
5月13日
一葉に宛てて野々宮菊子から手紙。18日に美土代町の基督教青年会館で開かれる青年音楽会の切符が準備できたとのこと。
芦沢芳太郎から手紙。金洲付近に宿営しているが、講和条件が整ったので近々帰国とのこと。
10時近く、大橋乙羽から使いが来て、昨日のお礼と「ゆく雲」を原抱一庵が「国民の友」で細評するらしいとのこと(「国民の友」第252号「「太陽」最近の四小説」)。
5月14日
子規、遼東半島柳樹屯から佐渡国丸に乗船、15日出航。
5月17日(出航して2日目) 子規、帰国途上船中で喀血。
「鱶がいる、早く来いと呼ぶものがあった。自分は急ぎ甲板に上がった。すると痰が出たので船端に吐いた。それは血だった。以前にも喀血したことがあるが、今度は量が多い。下等室へ戻って用意の薬をのみ、横たわった。
それでなくとも狭い船室が、二段に分けられている。上の段には軍人たちがいて、下の段、天井が一メートルもない空間に、記者十一人は並んで寝ている。上の段の軍人たちが高声で談話しながら茶などをこぼすと、板の隙間から顔にしたたった。
喀血はなおつづいた。血を吐く場所はなく言子規はそれを飲みこむよりなかった。つらかったのはそのことより、すぐ目の上に迫った低い天井の圧迫感であった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )
「陣中日記」には、「朝大なる鱶の幾尾となく船に沿ふて飛ぶを見る。此時病起れり」と簡単に記されている。
明治32(1899)年12月10日発行「ホトトギス」掲載の随筆「病」では、船のうえでの喀血から上陸して神戸病院に入院するまでの経緯が詳しく記されている。
明治廿八年五月大連湾より帰りの船の中で、何だか労(つか)れたやうであつたから下等室で寝て居たらば、鱶が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り着くと同時に痰が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰では無かつた、血であった。
「ああ、とうとうやってしまった・・・」。言葉にならない不安と失望感に襲われ、子規は鱶を一目見るとすぐに船室にもどり、行李のなかから用意の薬を取り出し、それを外套のカクシへ押し込み、自分のベッドに戻って静かに寝ていたという。ところが、結核が再発したことが分かると、それまでなんとか我慢してきた船室の狭さ、特に就眠用に当てがわれた簡易ベッドスタイルのスペースの天井の低さが気になって仕方がない。呼吸器の病だけに、一層息苦しく、窮屈に感じられる。「血を咯(は)く事よりも此天井の低い事が一番いやであった」という。
医者は一人しか乗り合わせておらず、しかもコレラ用の薬しか持っていないという。仕方がないので、手持ちの薬を飲んで横になっているが、喀血は止まらない。ただでさえ狭い船室の中にしつらえられた蚕棚のような簡易ベッドに身を横たえ、この先どうなるのか、無事に日本に帰り着くことができるのか・・・不安感にさいなまれながら、全身的な疲労感と胸の不快感に耐え忍び、ただただひたすらに船が下関に着くのを待つしかない。時間をやり過ごすため「凱旋の七言絶句」を作り、顔のうえのベッドの板裏に書きつけようとするが、手はだるく、胸は苦しいので、結句は書けなかった。
それでも船は東に進み、血痰が出た日の翌日(18日)昼過ぎに下関に到着する。
つづく
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