1895(明治28)年
7月1日
朝鮮、内部大臣朴泳孝、王宮衛兵交替問題により失脚。閔妃の陰謀。7日、杉村代理公使の手配で日本へ亡命。後、「日韓併合」後、侯爵叙任。
7月
海相西郷従道、排水量1万トン台の新鋭甲鉄戦艦6隻(2隻海外既発注)を主力とする世界的水準の大艦隊を一挙に建設する海軍拡張計画を閣議提出。ヨーロッパ列強が東洋へ派遣しうる艦隊との海戦を明確に想定。5月の山県の陸軍拡張計画と同様に、これも議会の承認を得る。
7月
高野岩三郎、東京帝国大学を卒業。
7月
斎藤緑雨「門三味線」
7月
幸田露伴「新浦島」
7月上旬
一葉、この頃から執筆(博文館のための「にごりえ」執筆)のため、萩の舎の助教を田中みの子に任せて休みがちとなる
7月1日
英、南アフリカ会社解散。会社領はイギリス政府保護領となる。
7月3日
ゴーギャン(47)、マルセイユを発ちタヒチに向かう。
7月6日
露仏両国、清へ4億フラン(1582万ポンド)借款。
財政規模が1億両に満たず、戦費も内債募集が不首尾となり、イギリス・ドイツから663万余ボンドの外債に頼った清国政府は、巨額の賠償金も再び外債に頼るしかない
(1898年5月にかけて、日本に軍費賠償金2億両、威海衛守備費償却金3ヶ年分150万両、遼東半島還付報償金3千万両の合計2億3150万両(英貸3808万余ボンド)を支払う)。
この露仏借款は、ロシア政府の元利支払保証の下で、フランス6銀行(2.5五億フラン)・ロシア4銀行(1.5億フラン)の引受けにより成立。清国側に一見有利なこの借款は、翌年の露清条約その他への準備工作で、結局清国にとって極めて高くつくものとなる。
ロシアに出し抜かれたイギリスは、ドイツとともに翌96年3月に第1次英独借款1600万ボンド(香港上海銀行と独亜銀行の均等引受け)の契約を結び、続いて、98年3月には、賠償金完済のための内債募集に失敗した清国政府が、第2次英独借款1600万ボンド(前記両行の均等引受け)を仰ぐ。これらの英独借款もまた両国による利権獲得への伏線である。
償金借款は列強の清国分割と利権獲得への導火線の役割を果し、その返済は清国財政を著しく圧迫、また、増税が長期にわたり民衆生活を窮迫させる。このような帝国主義侵略に対抗した義和団運動の敗北の結果、4億5千万両の賠償金負担が、新たに民衆に加重される。
7月6日
朝鮮、閔妃クーデタ。親日派追放、親露派と結ぶ。
下関条約により朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使カール・イバノビッチ・ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、政権を奪還した。
9日、国王、閣議で親政宣言。
13日、日本の内政改革による制度・法令で矛盾のあるものは再検討するとの詔勅が官報に発表。
7月7日
一葉、大橋ときから預かった詠草を添削したものを大橋家に届けるが、来客中で早々に帰る。父則義の七回忌のため、大橋乙羽にときを通じて30円の前借を手紙で申し込む。
翌8日、大橋ときより、一葉の借金申し出に対して、夫乙羽に伝える旨の手紙が届き、その梧、義兄新太郎(新太郎が館主、妹ときと結婚した乙羽は支配人)と創案した乙羽から、かきかけであれなんであれ原稿と引き換えなら、との回答を得る。しかし、このときはまだ何も書けておらず、前借にはならなかった。
7月9日
一葉、父則義の逮夜につき西村釧之助・上野兵蔵らに招待状を出す
7月11日
一葉父則義の七回忌逮夜。
「文学界」の星野天知より「たけくらべ」の続稿を催促される(この年、1月の第25号、2月の第26号、3月の第27号(その八)まで連載したが、その後途絶している)
7月12日
一葉、関如来から手紙で「読売新瀾」の「月曜附録」に執筆を依頼される。
7月13日
台湾、近衛歩兵第3連隊第6中隊の一個小隊、三角湧にて敵襲に遭い伝令として脱出した1名を除き桜井特務曹長以下34名全員戦死
7月13日
松山連隊の凱旋式。漱石はフロックコートに山高帽といういでたちで、生徒らと松山郊外まで出向く。
その帰路、日頃から不仲であった師範学校と中学校の生徒らが双方何百と参加した乱闘騒ぎを起こした。この日の乱闘は大規模で警官隊が出動した。
生徒らをなだめようとつとめていた山口善太郎という善良な英語教師は、師範学校生徒に田に蹴倒されてさんざんな目にあった。弘中らは十分に働いた(敵方を存分に殴った)。しかし漱石は働かなかった。
「森田草平 一体、師範学校と中学校の確執は何から生じたんでしょう?
山本義晴 さあよく分からないが、中学の方じゃ師範生のことを、その時分から「地方税地方税」と言って馬鹿にしていましたね。それでいて、何事かあると県庁の方では、毎も師範学校の方を先に立てる。それが大体癪に触っていたからでしょうね。日清戦争の凱旋祝賀会に際して、ああいう喧嘩は事実あったんですよ。」(月報言行録 「坊ちゃん」の座談会)
7月13日
一葉、萩の舎の稽古休む。
芦沢芳太郎がこの日から5日間、大姑陥で包囲攻撃を受ける。
7月15日
一葉が一昨日の稽古を休んだことを心配した田中みの子からの手紙に対し、謀殺されていて、手伝いに行けないことを詫び、また来る20日も行けないだろうことを謝す手紙を送る。
7月16日
第2次伊藤内閣、台湾情勢は「百事至難の境遇に在る」と認識を改め、「速に鎮定の奏功を望」むので「鎮定までの間は法規等に拘泥せず万事敏捷に相運侯筈に申合せ」た8ヵ条を内閣閣令として通達。
7月17日
自由党在京議員総会、内閣書記官長伊東巳代治らの了解の下に新しい党方針を決定。軍備拡張と積極的経済政策を支持。
6月頃から、政府と自由党との提携交渉が、内閣書記官長伊東巳代治・法制局長官末松謙澄らと自由党側林有造・河野広中・松田正久らとを通して始まる。在京議員総会では、軍備拡張と積極的経済政策を支持し、「之力為メニ国家ノ負担ヲ増加スルニ至ルモ、富国強兵ヲ致スニ於テ実ニ不得己ノ事ナリ・・・故ニ若シ当局者ニシテ之カ成案ヲ公ニスルアラハ、其当否ヲ審査シ以テ宜ク決スル所アルへシ」とうたう。この自由党方針は、次期第9議会に提出される政府の「戦後経営」計画への支持を明らかにするもの。党機関誌は、党方針について、「之を以て吏党と罵る可なり、軟派と嘲る可なり、・・・吾人は喜んで其所謂吏党たり軟派たるの語を受けて而して之を甘ぜんなり」と述べる。
「この事(遼東還付)に関し漫に争闘を生じ、以て国家の大計を誤るは、我党の断じて取らざる所也。故に今後我党と方針を同うし、相共に謀るべきものは、相共に内外の事に力を致し、誓て愛国の至誠を押し、私を去り公に徇い、以て将来の謀を為すべし」と決議。
つづく
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