《子規の妹、正岡律のこと②-2》
日下徳一『子規断章 漱石と虚子』
「雀の子忠三郎 - うまれながらの長者」よりメモ2
3 晩婚の家系
昭和二年三月、忠三郎は京大経済学部を卒業すると阪急竃車に入社し、又しても東京には帰らず関西に住み着くことになった。しかしこれは、やがて『大学は出たけれど』という映画がヒットするほどの大不況がやってくる前兆で、大学出といえども、就職難の時代であった。幸い関西には父拓川が大阪在勤中に築いた人脈が残っており、そうした伝手で忠三郎は関西の企業を選んだのではないかとも思える。
同じ京大出で忠三郎より六歳下の朝比奈隆も高文(高等文官試験)に落ちて阪急に入社して、忠三郎と飲み仲間になる。朝比奈の頃は初任給が六十円で、「月給が半分だからハンキユウ」といわれていたそうだ。忠三郎の時もほぼ同じ額だったと思うが、もちろん六十円あれば結構暮らしていける時代だった。
朝比奈のエッセーには時々、忠三郎が出てくるが、話上手な朝比奈のことだから若干の扮飾があるかもしれない。当時、阪急は電車と百貨店を兼営していた時代で、竃車で車掌などを何年かやった後、百貨店に来る。朝比奈が入社した頃、忠三郎は売場の係長だったが、《出社する時から、もう弊衣破帽でしかも、高級紳士服や婦人洋服を扱っている売り場へ、前の晩どっか外でのんだくれて寝た格好のまま出てくる。頭はグシャグシャで、女の店員たちが困って一所懸命ブラシをかけたりするような面もあるんですよ。・・・もちろん、出世欲みたいなものもまったくないから、部下にはものすごく慕われていました。》(『朝比奈隆 わが回想』)というあたり朝比奈も忠三郎の人間としての大らかさと面白さをよく見抜いている。
一方、昭和二年五月に母八重を八十三歳で亡くし、ひとりで子規庵を守っている律にしてみれば、忠三郎の生き方が心配でならなかった。給料は大半、部下や友人を引き連れて飲んでしまっているようだし、貯金などしているふうもない。それで関西に住んでいる秋山好古の次女、土居健子に忠三郎の縁談の世話を頼んだのである。
どういうわけか松山出身者は晩婚が多い。忠三郎の父拓川にしても三十九歳の晩婚だったし、秋山好古、真之兄弟も共に結婚したのは三十六歳と遅かった。もっとも好古などは「結婚は気力を消耗する」といい、部下たちの早婚を戒めていたそうだ。家庭の事ばかり考えるようでは、立派な軍人になれないという、古い武家時代のモラルが命脈を保っていたのかもしれない。
しかし拓川や忠三郎の婚期が遅れたのは、美人の花嫁が現れるのを待っていたふしがある。拓川の妻ひさも家柄もよく、その上美人だ。こういうことが念頭にあったのか、健子の持って来た縁談は申し分なかった。新婦となるあや子の父は心理学者として著名な京大教授野上俊夫で、あや子は同志社女専(現在の同志社女子大学)を出て「サンデー毎日」の表紙に選ばれたこともある美人だった。
昭和十二年五月十五日、現在のリーガロイヤルホテルの前身、新大阪ホテルで挙行された結婚式の写真を見ると、律は忠三郎の実母ひさと並んで嬉しそうだ。忠三郎を養子に貰って正岡家を継がせた甲斐があった。その内に二人に子が授かり、子規の血筋は絶えることなく受け継がれていくにちがいない。
翌年には律が念じたように忠三郎夫婦に長男浩が授かった。この頃、律は思いつくと年に何度も舶来の玩具などを買って、初孫の顔を見たさに伊丹の忠三郎の新居にやって来た。そして逗留中、よく大阪へ出かけて文楽や歌舞伎を見たという。大正末期のアルス社に続いて、昭和四年から三年がかりで改造社から『子規全集』全二十二巻が出ており、老後の律が孫に玩具を買ったり、芝居見物をするぐらいの印税収入は十分にあった。
苦労の多かった律の生涯で、この頃がいちばん幸福な時代だったかもしれない。しかし、それも束の間、昭和十六年五月、律は二人目の孫明の顔を見ることもなく七十二歳で亡くなった。明の誕生は律没後四年目の昭和二十年四月だった。
4 小さな放送局
阪急百貨店も戦争が激しくなると売るものがなくなり、社員は女子挺身隊や軍需工場へ駆り出された。忠三郎も尼崎の鉄鋼会社に行かされたが、戦争が終わると百貨店に戻り、やがて阪急と毎日新聞社が共同で出資したラジオ局に出向した。
それは現在の毎日放送(MBS)の前身で、新日本放送(NJB)という関西初の小さな民間放送であった。昭和二十六年九月一日に初めて電波を出しているが、局舎にはまだ商品が十分揃わず空きスペースの多かった、阪急百貨店の六階と屋上が使われた。若い時から富永太郎や中原中也と親しくし、子規の従弟である忠三郎だから、放送局では文芸部長あたりが適役だのに、忠三郎にあてがわれたのは放送部事務課長というポストで、ドラマ作りや俳句や短歌には縁はなかった。
(略)
こういうあたり、忠三郎には晩年の友人司馬遼太郎のいう《うまれながらの長者》という言葉がぴったりだ。司馬は昭和五十一年九月十二日、大阪玉造のカテドラル大聖堂で行われた忠三郎の葬儀に、こういって忠三郎の大らかな人柄を称えた。
5 畢生の功績『子規全集』
ところで、だいぶ脇道にそれたが忠三郎畢生の功績は二高時代からの友人ぬやま・ひろし(西沢隆二)にけしかけられて、新しい『子規全集』を刊行したことだ。
子規没後、『子規全集』は大正十三~十五年にはアルス社から、昭和四~六年には改造社からと戦前に二回出ている。しかし、その後の研究成果や新しい資料を取り入れた全集は、戦後の全集ブームにも取り残されて戦後三十年もたつのに出ていなかった。
戦前、非合法の革命運動で逮捕されたぬやまは、獄中で子規の著作にめぐり合い生きる力を得、夢中になって子規を読んだ。そして忠三郎と子規の関係を抜きにしても、ぬやまは子規に惚れ込んだ。子規を読まなかったら、ぬやまは十二年に及ぶ府中刑務所での獄中生活に、堪えられなかったかもしれない。
ところが、ぬやまが『子規全集』を出したいと思い立った時、忠三郎はすでに病床にあったのである。
「忠三郎の生きている内に、最初の一冊でも手にとらせてやりたいのだ」
こうしたぬやまの情熱が出版社をゆり動かし、いろいろな曲折を経ながら最新の編集理念のもと、別巻三巻を含めて全二十五巻の『子規全集』が講談社から刊行されることになった。昭和五十年四月、最初の第一冊が配本されたが、忠三郎は全巻の完結を見ることなく、十五冊目の配本が終わった昭和五十一年九月十日に死んだ。また、全集刊行に命をかけていたぬやまも、忠三郎のあとを追うように忠三郎の死の八日後に没した。忠三郎が七十四歳、一歳下のぬやまは七十三歳だった。
ところで子規と血の繋がる従弟である忠三郎は、小学生時代「俳譜童子」という異名をもっていたという服部嘉香の話(『子規全集』月報20)もあるぐらいだが、どうして文学の道に進まなかったのだろうか。よく「歌も俳句も作らない」約束で、正岡家の養子に迎えられたのが原因だといわれるが、それは小学校を出たばかりの時のことである。
中学生、高校生になれば自我にも目ざめ、いくらでも軌道の修正ができるのに、忠三郎はかたくなに律との約束を守った。これが前にも拙著『子規山脈』でふれたことがあるが小幡欣治の『根岸庵律女』(「劇団民藝」初演は平成十年六月)の一つのテーマであった。
芝居の中の律が雅夫(忠三郎)に俳句を禁じたのは、雅夫がいくら精進しても子規をしのぐ程の俳人になれる保証はない。子規の縁者として、ひとときは持て囃されるかもしれないが、やがて忘れられていくだろう。律はそんなことで雅夫を、ひいては子規の名を傷つけたくなかったのだという。
忠三郎は小林秀雄など府立一中時代の文学仲間を振り切るように、高等学校では理科を選び大学では経済学を学んだ。そして周囲から、忠三郎にサラリーマンが務まるものかといわれながら、子規のことはおくびにも出さず、生涯無名の一市井人に甘んじた。
しかし血は争えない。忠三郎も職を引いた昭和三十年代の終わり頃から、律がしていたように子規や父拓川の遺品や書簡類の整理を思いつく。そしてふと知り合った雑誌「大阪手帖」の編集長のすすめで、その小さな雑誌に全て未発表の「子規への書簡」の連載を始めた。それは昭和三十九年二月号から、途中病気で休載することもあったが、昭和四十四年五月号まで五十一回続き、病気のため続稿は日の目を見ることはなかった。この中で忠三郎が取り上げたのは九名で、回数は碧梧桐が最も多くて二十回、次いで五百木飄亭が十二回。漱石は一回だけだった。
それらは『子規全集』別巻一「子規あての書簡」に全て収録されているが、「大阪手帖」の編集長は《東京辺りの》《一流の雑誌では出来ないことをやらねばならないという楽しみと自負を持って》連載を開始したと語っている。
忠三郎は収録する書簡や発信者について、子規との関係などコメントを付けているが、これがまた身内から見た子規論になり面白い。たとえば佐藤紅緑については、
大正の終りに、はじめてお目に懸ったとき、俳句を作るかといわれるので、やりませんと申し上げると、それはよかった。君が作ると下手なのでも虚子と私がほめねばならないところだといわれた。 (昭和四十一年十月号)
と、いかにも紅緑らしいやりとりを思い出す。こんな関係から忠三郎は戦時中、甲子園に住む紅緑宅へ月一回、句会に行った。当時の紅緑は少年少女小説の大家だったが、もともとは虚子や碧梧桐に次ぐ子規の門弟だったので、忠三郎も晩年の紅緑に義理立てをしたのかもしれない。
また、陸鵜南については、
子規は其叔父加藤拓川が羯南の親友であった為羯南の知遇を得、羯南に依って世に出て、日本新聞に依って、羯南は子規の和歌と俳句の革新事業を遂行せしめた。
此の一月弘前に途中下車、釘無五重塔で有名な寺に羯南先生の碑ありと放送局で聞き、雪の中を尋ねたが、寺の家族も併祠社の者も知らず、そのまま引返したのは残念であった。故郷には余り縁のなかった方らしい。 (昭和四十三年四月号)
と、子規の恩人陸羯南の記念碑を探して、雪の中をさまよった話を書く。
ところで、忠三郎のこの連載の功績の一つは、今まで所在の分からなかった漱石が子規に出したロンドンからの初便りを見つけ出したことだ。このことは本書の「倫敦の漱石」でもふれたが、漱石が明治三十三年十二月二十六日、ロンドンに着いて初めて子規に出した絵葉書が見付からず『漱石全集』書簡集や、『漱石・子規往復書簡集』にも収録されていない。子規がそれを翌年二月十四日に受け取ったところまでは分かっているのに、現物の所在は杏として不明だった。それを忠三郎が律没後、他の断簡零墨といっしょに、反故紙様のものに包まれた書簡類の中から見付けたのである。
その絵葉書はロンドンの目抜き通りを描いたもので、それに漱石がロンドンのクリスマスと新年の感懐を記し、俳句を添えている。忠三郎の注によると絵葉書の絵はイングランド銀行、丸く囲まれたのはエー・バンク・ピードルの肖像だという。
このように晩年の忠三郎はあくまでも裏方に徹し、中央の「一流雑誌」ではできないような地味な子規研究を続けた。もし忠三郎が晩年の七年近くを子規と同じように、病臥する身でなかったら、ひそかに身内から見た子規や八重や律のことを書き残しておいたかもしれない。それだけに忠三郎が晩年早くから健康を損ねたのが惜しまれてならない。
この項おわり