2024年12月31日火曜日

大杉栄とその時代年表(361) 《子規の妹、正岡律のこと②-2》 日下徳一『子規断章 漱石と虚子』 「雀の子忠三郎 - うまれながらの長者」よりメモ2

 


《子規の妹、正岡律のこと②-2》 

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』  

「雀の子忠三郎 - うまれながらの長者」よりメモ2


3 晩婚の家系

昭和二年三月、忠三郎は京大経済学部を卒業すると阪急竃車に入社し、又しても東京には帰らず関西に住み着くことになった。しかしこれは、やがて『大学は出たけれど』という映画がヒットするほどの大不況がやってくる前兆で、大学出といえども、就職難の時代であった。幸い関西には父拓川が大阪在勤中に築いた人脈が残っており、そうした伝手で忠三郎は関西の企業を選んだのではないかとも思える。

同じ京大出で忠三郎より六歳下の朝比奈隆も高文(高等文官試験)に落ちて阪急に入社して、忠三郎と飲み仲間になる。朝比奈の頃は初任給が六十円で、「月給が半分だからハンキユウ」といわれていたそうだ。忠三郎の時もほぼ同じ額だったと思うが、もちろん六十円あれば結構暮らしていける時代だった。

朝比奈のエッセーには時々、忠三郎が出てくるが、話上手な朝比奈のことだから若干の扮飾があるかもしれない。当時、阪急は電車と百貨店を兼営していた時代で、竃車で車掌などを何年かやった後、百貨店に来る。朝比奈が入社した頃、忠三郎は売場の係長だったが、《出社する時から、もう弊衣破帽でしかも、高級紳士服や婦人洋服を扱っている売り場へ、前の晩どっか外でのんだくれて寝た格好のまま出てくる。頭はグシャグシャで、女の店員たちが困って一所懸命ブラシをかけたりするような面もあるんですよ。・・・もちろん、出世欲みたいなものもまったくないから、部下にはものすごく慕われていました。》(『朝比奈隆 わが回想』)というあたり朝比奈も忠三郎の人間としての大らかさと面白さをよく見抜いている。

一方、昭和二年五月に母八重を八十三歳で亡くし、ひとりで子規庵を守っている律にしてみれば、忠三郎の生き方が心配でならなかった。給料は大半、部下や友人を引き連れて飲んでしまっているようだし、貯金などしているふうもない。それで関西に住んでいる秋山好古の次女、土居健子に忠三郎の縁談の世話を頼んだのである。

どういうわけか松山出身者は晩婚が多い。忠三郎の父拓川にしても三十九歳の晩婚だったし、秋山好古、真之兄弟も共に結婚したのは三十六歳と遅かった。もっとも好古などは「結婚は気力を消耗する」といい、部下たちの早婚を戒めていたそうだ。家庭の事ばかり考えるようでは、立派な軍人になれないという、古い武家時代のモラルが命脈を保っていたのかもしれない。

しかし拓川や忠三郎の婚期が遅れたのは、美人の花嫁が現れるのを待っていたふしがある。拓川の妻ひさも家柄もよく、その上美人だ。こういうことが念頭にあったのか、健子の持って来た縁談は申し分なかった。新婦となるあや子の父は心理学者として著名な京大教授野上俊夫で、あや子は同志社女専(現在の同志社女子大学)を出て「サンデー毎日」の表紙に選ばれたこともある美人だった。

昭和十二年五月十五日、現在のリーガロイヤルホテルの前身、新大阪ホテルで挙行された結婚式の写真を見ると、律は忠三郎の実母ひさと並んで嬉しそうだ。忠三郎を養子に貰って正岡家を継がせた甲斐があった。その内に二人に子が授かり、子規の血筋は絶えることなく受け継がれていくにちがいない。

翌年には律が念じたように忠三郎夫婦に長男浩が授かった。この頃、律は思いつくと年に何度も舶来の玩具などを買って、初孫の顔を見たさに伊丹の忠三郎の新居にやって来た。そして逗留中、よく大阪へ出かけて文楽や歌舞伎を見たという。大正末期のアルス社に続いて、昭和四年から三年がかりで改造社から『子規全集』全二十二巻が出ており、老後の律が孫に玩具を買ったり、芝居見物をするぐらいの印税収入は十分にあった。

苦労の多かった律の生涯で、この頃がいちばん幸福な時代だったかもしれない。しかし、それも束の間、昭和十六年五月、律は二人目の孫明の顔を見ることもなく七十二歳で亡くなった。明の誕生は律没後四年目の昭和二十年四月だった。

4 小さな放送局

阪急百貨店も戦争が激しくなると売るものがなくなり、社員は女子挺身隊や軍需工場へ駆り出された。忠三郎も尼崎の鉄鋼会社に行かされたが、戦争が終わると百貨店に戻り、やがて阪急と毎日新聞社が共同で出資したラジオ局に出向した。

それは現在の毎日放送(MBS)の前身で、新日本放送(NJB)という関西初の小さな民間放送であった。昭和二十六年九月一日に初めて電波を出しているが、局舎にはまだ商品が十分揃わず空きスペースの多かった、阪急百貨店の六階と屋上が使われた。若い時から富永太郎や中原中也と親しくし、子規の従弟である忠三郎だから、放送局では文芸部長あたりが適役だのに、忠三郎にあてがわれたのは放送部事務課長というポストで、ドラマ作りや俳句や短歌には縁はなかった。

(略)

こういうあたり、忠三郎には晩年の友人司馬遼太郎のいう《うまれながらの長者》という言葉がぴったりだ。司馬は昭和五十一年九月十二日、大阪玉造のカテドラル大聖堂で行われた忠三郎の葬儀に、こういって忠三郎の大らかな人柄を称えた。

5 畢生の功績『子規全集』


ところで、だいぶ脇道にそれたが忠三郎畢生の功績は二高時代からの友人ぬやま・ひろし(西沢隆二)にけしかけられて、新しい『子規全集』を刊行したことだ。

子規没後、『子規全集』は大正十三~十五年にはアルス社から、昭和四~六年には改造社からと戦前に二回出ている。しかし、その後の研究成果や新しい資料を取り入れた全集は、戦後の全集ブームにも取り残されて戦後三十年もたつのに出ていなかった。

戦前、非合法の革命運動で逮捕されたぬやまは、獄中で子規の著作にめぐり合い生きる力を得、夢中になって子規を読んだ。そして忠三郎と子規の関係を抜きにしても、ぬやまは子規に惚れ込んだ。子規を読まなかったら、ぬやまは十二年に及ぶ府中刑務所での獄中生活に、堪えられなかったかもしれない。

ところが、ぬやまが『子規全集』を出したいと思い立った時、忠三郎はすでに病床にあったのである。

「忠三郎の生きている内に、最初の一冊でも手にとらせてやりたいのだ」

こうしたぬやまの情熱が出版社をゆり動かし、いろいろな曲折を経ながら最新の編集理念のもと、別巻三巻を含めて全二十五巻の『子規全集』が講談社から刊行されることになった。昭和五十年四月、最初の第一冊が配本されたが、忠三郎は全巻の完結を見ることなく、十五冊目の配本が終わった昭和五十一年九月十日に死んだ。また、全集刊行に命をかけていたぬやまも、忠三郎のあとを追うように忠三郎の死の八日後に没した。忠三郎が七十四歳、一歳下のぬやまは七十三歳だった。

ところで子規と血の繋がる従弟である忠三郎は、小学生時代「俳譜童子」という異名をもっていたという服部嘉香の話(『子規全集』月報20)もあるぐらいだが、どうして文学の道に進まなかったのだろうか。よく「歌も俳句も作らない」約束で、正岡家の養子に迎えられたのが原因だといわれるが、それは小学校を出たばかりの時のことである。

中学生、高校生になれば自我にも目ざめ、いくらでも軌道の修正ができるのに、忠三郎はかたくなに律との約束を守った。これが前にも拙著『子規山脈』でふれたことがあるが小幡欣治の『根岸庵律女』(「劇団民藝」初演は平成十年六月)の一つのテーマであった。

芝居の中の律が雅夫(忠三郎)に俳句を禁じたのは、雅夫がいくら精進しても子規をしのぐ程の俳人になれる保証はない。子規の縁者として、ひとときは持て囃されるかもしれないが、やがて忘れられていくだろう。律はそんなことで雅夫を、ひいては子規の名を傷つけたくなかったのだという。

忠三郎は小林秀雄など府立一中時代の文学仲間を振り切るように、高等学校では理科を選び大学では経済学を学んだ。そして周囲から、忠三郎にサラリーマンが務まるものかといわれながら、子規のことはおくびにも出さず、生涯無名の一市井人に甘んじた。

しかし血は争えない。忠三郎も職を引いた昭和三十年代の終わり頃から、律がしていたように子規や父拓川の遺品や書簡類の整理を思いつく。そしてふと知り合った雑誌「大阪手帖」の編集長のすすめで、その小さな雑誌に全て未発表の「子規への書簡」の連載を始めた。それは昭和三十九年二月号から、途中病気で休載することもあったが、昭和四十四年五月号まで五十一回続き、病気のため続稿は日の目を見ることはなかった。この中で忠三郎が取り上げたのは九名で、回数は碧梧桐が最も多くて二十回、次いで五百木飄亭が十二回。漱石は一回だけだった。

それらは『子規全集』別巻一「子規あての書簡」に全て収録されているが、「大阪手帖」の編集長は《東京辺りの》《一流の雑誌では出来ないことをやらねばならないという楽しみと自負を持って》連載を開始したと語っている。

忠三郎は収録する書簡や発信者について、子規との関係などコメントを付けているが、これがまた身内から見た子規論になり面白い。たとえば佐藤紅緑については、


大正の終りに、はじめてお目に懸ったとき、俳句を作るかといわれるので、やりませんと申し上げると、それはよかった。君が作ると下手なのでも虚子と私がほめねばならないところだといわれた。        (昭和四十一年十月号)


と、いかにも紅緑らしいやりとりを思い出す。こんな関係から忠三郎は戦時中、甲子園に住む紅緑宅へ月一回、句会に行った。当時の紅緑は少年少女小説の大家だったが、もともとは虚子や碧梧桐に次ぐ子規の門弟だったので、忠三郎も晩年の紅緑に義理立てをしたのかもしれない。

また、陸鵜南については、


子規は其叔父加藤拓川が羯南の親友であった為羯南の知遇を得、羯南に依って世に出て、日本新聞に依って、羯南は子規の和歌と俳句の革新事業を遂行せしめた。

此の一月弘前に途中下車、釘無五重塔で有名な寺に羯南先生の碑ありと放送局で聞き、雪の中を尋ねたが、寺の家族も併祠社の者も知らず、そのまま引返したのは残念であった。故郷には余り縁のなかった方らしい。 (昭和四十三年四月号)


と、子規の恩人陸羯南の記念碑を探して、雪の中をさまよった話を書く。

ところで、忠三郎のこの連載の功績の一つは、今まで所在の分からなかった漱石が子規に出したロンドンからの初便りを見つけ出したことだ。このことは本書の「倫敦の漱石」でもふれたが、漱石が明治三十三年十二月二十六日、ロンドンに着いて初めて子規に出した絵葉書が見付からず『漱石全集』書簡集や、『漱石・子規往復書簡集』にも収録されていない。子規がそれを翌年二月十四日に受け取ったところまでは分かっているのに、現物の所在は杏として不明だった。それを忠三郎が律没後、他の断簡零墨といっしょに、反故紙様のものに包まれた書簡類の中から見付けたのである。

その絵葉書はロンドンの目抜き通りを描いたもので、それに漱石がロンドンのクリスマスと新年の感懐を記し、俳句を添えている。忠三郎の注によると絵葉書の絵はイングランド銀行、丸く囲まれたのはエー・バンク・ピードルの肖像だという。

このように晩年の忠三郎はあくまでも裏方に徹し、中央の「一流雑誌」ではできないような地味な子規研究を続けた。もし忠三郎が晩年の七年近くを子規と同じように、病臥する身でなかったら、ひそかに身内から見た子規や八重や律のことを書き残しておいたかもしれない。それだけに忠三郎が晩年早くから健康を損ねたのが惜しまれてならない。


この項おわり



自宅近くの公園でスイセンが咲き始めた 2024-12-30

12月30日(月)はれ
マゴちゃんと散歩中、自宅近くの公園でスイセンを見つけた。

もっと増えるんじゃないのか? ⇒ 都議会自民のパーティー収入問題、地検が都議ら任意聴取(日経) / 都議会自民、裏金3千万円前後か 東京地検特捜部が職員や都議ら聴取(朝日) / 都内の自民党支部で計303万円の寄付の不記載(NHK) ← 自民党、末端組織まで腐敗が進んでいる! / 自民党都議会でも裏金疑惑!やはり浮上した“安倍派スキーム”…すでに特捜部が動き、石破政権は大ピンチ(日刊ゲンダイ) / 都議会自民党でも裏金づくりか 20人がパー券収入「不記載」 派閥と同様の手口「慣習として続いてきた」(東京) / 自民党に新たな裏金疑惑! 「本丸は萩生田氏」 特捜部が水面下で自民党東京都連を捜査(デイリー新潮)

 

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2024年12月30日月曜日

三菱UFJ銀行元行員、貸金庫の金塊など売却か 窃盗容疑視野に捜査 (毎日) / 川内議員「貸金庫からの窃取事案は、本件以外に金融庁に報告をされていた事があるのか」 金融庁「ございます」 しかも件数を答えられず、非公表の事案もあると答弁 / 三菱UFJ銀行元行員 スペアキーで貸金庫から10数億円相当窃取か(NHK) / 「ショートでかわいらしい雰囲気の女性」“被害総額10数億”三菱UFJ貸金庫から客の資産を盗んだ元行員の“正体”「女優でいえば…」(文春オンライン) / 三菱UFJ行員が貸金庫から窃盗 Yahoo!知恵袋で3年前に酷似事案告白、「なぜスルー」の声も(J-CASTニュース) / 三菱UFJ銀行員が十数億円を窃取 顧客約60人の資産、貸金庫から(朝日); 三菱UFJ銀行は22日、東京都内の貸金庫から顧客の資産を盗んでいたとして、貸金庫の責任者だった行員を14日付で懲戒解雇したと発表した。被害者は約60人に上り、時価で十数億円の被害を確認したという。

 

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マスク氏、トランプ支持者と応酬 移民巡り「内部対立」―Xの投稿管理問題に飛び火(時事);「きっかけは、トランプ氏が22日、次期政権の人工知能(AI)に関する政策顧問にインド系の投資家スリラム・クリシュナン氏を起用すると発表したこと。同氏はこれに先立つ11月、専門性を持つ移民の受け入れ拡大を主張しており、トランプ氏に近い極右インフルエンサーのローラ・ルーマー氏が「米国第一主義の政策に反する見解で、憂慮すべきだ」と人事に異論を唱えた。」  

大杉栄とその時代年表(360) 《子規の妹、正岡律のこと②-1》 日下徳一『子規断章 漱石と虚子』 「雀の子忠三郎 - うまれながらの長者」よりメモ1

 


《子規の妹、正岡律のこと②》

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』

「雀の子忠三郎 - うまれながらの長者」よりメモ1


1 共立女子職業学校


明治三十五年九月十九日子規が没した時、三歳下の妹律は三十二歳だった。子規が明治二十五年秋、帝大を中退して日本新聞社に入社したのを機に、母の八重と妹の律は松山の家を畳んで子規といっしょに東京で暮らすようになった。それからほぼ十年間、二人は全てを擲(なげう)って子規のために尽くしてきたといっていい。

本来なら律は長年の兄の看病から解放されて身軽になったのだから、心機一転、ここで再婚の道を考え、新しい人生を踏み出してもよかったのだが、そうはしなかった。松山の知人たちも、律が兄の看病に半生を捧げたことに同情し、「律さん、可哀相じゃね、お嫁にも行かないで」と噂していたそうだが、実は律は二度結婚して二度とも離縁になっている。

最初の結婚は十四歳の時。花聟は従兄の陸軍将校、恒吉忠道だったが、気性が合わず間もなく離婚した。いとこ同士の上、律も気の強い方だったのでうまくいかなかったのであろう。二度目の結婚相手は松山中学の地理の教師、中堀貞五郎だった。この時、律は十八歳で当時としては幼な妻という程でもなかったが、又してもうまくいかなかった。

中堀は律との離婚後もずっと教師を続けていて、明治二十八年漱石が松山中学に赴任してきた時には、下宿を世話して漱石に喜ばれている。これがいわゆる愚陀仏庵で、ここへ日清戦争に従軍して病を得た子規が、予後の静養に転がり込んできたのは周知の通りだ。漱石が子規に下宿の斡旋者の話をしたとは思えないが、狭い世界だけに不思議な縁といえる。

(略)

さて、司馬遼太郎の 『坂の上の雲』は小説だから、律が兄の親友秋山真之に淡い恋ごころを抱いていたように描かれている。昨年(平成二十一年)放映されたNHKスペシャルドラマでも、菅野美穂扮する律と本木雅弘扮する海軍士官秋山真之の再会と別れが、ドラマの中で一つの見せ場になっている種だ。実際は離婚歴のある律が真之を頼もしく思うことはあっても、再婚の相手と考えていたとは思えない。しかし、真之の姪で「日本騎兵の父」といわれた秋山好古の次女の土居健子は、《お律さんのそばにおりまして、ひょっとしたらお律さんは叔父真之のことを好きたったのではないかしらん、と思ったことがございます。私の感じといいますか、想像に過ぎないのですが、叔父は美男子でしたし、尊敬するお兄さまの親友ですから、あるいは結ばれることを夢みておられたのかもしれませんね》(『子規全集』月報11)と語っている。こういうことから、司馬が想像を逞しくして真之が律の相手にふさわしいという物語を作り上げたのかもしれない。この健子が後に律の養子となって正岡家を継ぐ忠三郎の仲人を務めることになるが、そのことは後でふれたい。

ともかく真之は子規が没した翌年、晩婚ながら三十六歳で宮内省の役人の娘と結婚した。この時、真之は海軍少佐であった。

さて肝心な律は子規亡きあと再婚を考えるどころか、するべき仕事が山積していた。まず子規の遺品遺墨を整理し、断簡零墨に至るまで一物も残さず大切に保有しなければならない。また母八重を助けて仏事を行い、香典返しに『子規随筆』を印刷して発送するのにも、律の手が必要であった。その間に松山に帰郷して、正宗寺で行われた子規遺髪の埋葬式にも出席しなければならなかった。

こうした事が一段落した翌明治三十六年、律は神田の共立女子職業学校本科に入学し、裁縫や手芸を学んだ。なにぶん律は松山の小学校を出ただけで、それも後の学制からいえば四年制の尋常科を終えたに過ぎない。・・・・・

(略)

・・・・・三十歳を過ぎて今更、女学校に行くわけにもいかず、年齢に制限のない職業学校に進んだのである。この学校はもともと、戦争未亡人に手に職を付けさせるため創設されたもので、日本における女子職業教育の先駆的な学校であった。それが発展して現在、共立女子大学という日本有数の女子学園になっているのは周知の通りだ。

律は子規に似て学問好きで、本科を出ると更に補習科に進み、明治三十九年に卒業すると初めは事務職員となり、やがて本科の教員となった。それから松山で八重がやっていたように子規庵でも裁縫や手芸を教えた。まだアルスから全十五巻の最初の『子規全集』が出る前で、子規の印税も少ない頃であったが、あれやこれを合わせると八重と律が普通に暮らしてゆくのには、何不自由はなかった。

2 反骨の人、加藤拓川


子規亡きあと、律が戸主となって正岡家を守っていたが、大正三年三月、叔父の加藤拓川の三男忠三郎が東京府立一中に入学が決まったのを機に、律の養子として正岡家を継いでもらうことにした。律は四十四歳、母八重は七十歳だった。拓川は八重の弟だから忠三郎は子規や律の従弟ということになる。

忠三郎は明治三十五年五月十八日に生まれた。外交官であった父の拓川は、ベルギーの特命全権公使に任じられ、産み月の妻ひさを東京に残して五月三日に横浜を出航した。その半月後に忠三郎は誕生したわけだ。

子規は七月二十七日付でベルギー公使館の拓川のもとへ、拓川が無事赴任地へ着いたことを喜ぶ手紙を書き、「副申」として忠三郎誕生の祝いを述べた。


令児御出生は五月十八日なりし故誰も皆今度ハ五十八(イソハチ)卜命名スべキ由いはれ候由 されど余り太鼓持めきてをかしき故御旧名を取りて忠三郎と御名づけありし由

雀 の 子 忠 三 郎 も 二 代 哉


戯作ニ御坐候

拓川は子供の命名などにはこだわらない人で、忠三郎の兄二人にも、十月九日に生まれた長男は十九郎、六月十日に生まれた次男には六十郎と名付けた。それで今度も五月十八日生まれで五十八と名付けるかと思ったと、子規は叔父をひやかしているのである。いわれてみれば確かに五十八は太鼓持ちめくので、妻ひさが拓川が船中にあるのをいいことにして、拓川の幼名を付けたのにちがいない。

余談めくが、忠三郎は俳句はやらないといっていたが、晩年ひそかに俳句をたしなみ、俳号は雀子、五十八のどちらかを使っていたという。

拓川(本名は恒忠)の父、大原観山は松山藩の藩儒で八重が長女、拓川は三男だった。観山の一族には英才の誉高い人が多く、拓川も幼い時から秀才だった。拓川は現在の東大法学部の前身、司法省法学校に学んだ。同級生には後に総理大臣になる原敬、日本新聞社を興す陸羯南、新聞記者で史論家として著名な福本日南などがいた。

拓川は晩婚で、駐仏公使館から外務省に戻り、外務省大臣官房秘書課長を務めていた三十九歳の時、山形県士族、樫村清徳医博の長女ひさと結婚した。ひさは十八歳下の二十一歳だった。

拓川は外務省きっての俊才で、末は外務大臣といわれていながら、明治四十年五月、初代の韓国統監伊藤博文、林外相らと韓国問題で意見が合わず、あっさり職を辞してしまった。ひさの妹たまの聟、石井菊次郎も後に外務大臣になっているから、もし拓川が伊藤らに逆らわず外務省に留まっておれば、外務大臣になれたかもしれない。そうなれば樫村家の娘婿二人が外務大臣になるという珍しいケースが生まれた筈だが、出世など意に介しない拓川の気性からいっても、それは有り得ないことであった。

さて、前に述べたように忠三郎には兄が二人いた。どちらも拓川ゆずりの秀才で共に私立暁星中学校から一高に進むが、不幸にして二人とも若くして他界した。末弟の忠三郎もよくでき、府立一中から仙台の二高理科に進んだ。

中学校にはいった時から忠三郎は根岸の子規庵で生活していたが、外交官で海外での生活の長かった実家の加藤家と正岡家では、生活様式が違うのも無理はなかった。弘化二年生まれで八十歳近い養祖母八重と、明治三年生まれで五十歳近い養母律に囲まれて、中学生の忠三郎が、毎日窮屈な思いをしていたことは想像にかたくない。

それで忠三郎は四年修了でさっさと東京を去り、仙台の二高へ行ったのではないかと思える。もちろん一高を受験しておれば、兄二人と同じように一高生になれていたに違いない。二高で忠三郎は後に詩人となる冨永太郎や、マルキシズムの活動家になる西沢隆二(ぬやま・ひろし)らが友人だった。後に冨永を通じて詩人の中原中也と知り合い親しくなった。

二高では青春を謳歌しすぎて留年もした。しかしそれでも東大にはいるのは、さほど難しくなかったのに、忠三郎は東京を通り越して京大に進んだ。京大の方が当時ははいり易いというせいもあったが、やはり八重や律のいる東京を敬遠したい気もあったであろう。

忠三郎の父拓川は外務省を辞したあと、衆議院議員を一期務め、その後勅選の貴族院議員になった。その間に関西に移り、大阪新報社長を六年近く務め、退社後は郷党に推されて松山市長になった。しかし在任中の大正十二年三月、名声を惜しまれながら六十五歳で食道癌のため没した。墓は市内の相向寺にあり、墓碑には「拓川居士骨」とのみ彫られている。本来なら「墓」とすべきところを「骨」としたのは、明治から大正へと型破りに生き抜いた拓川の最後の反骨ぶりだった。

境内には「散策集」から採った子規の


真 宗 の 伽 藍 い か め し 稲 の 花


という句碑が叔父の菩提を弔うかのように建てられている。


つづく


これも「キックバック」では? 自民に献金し、自衛隊に戦車を納める三菱重工が防衛省の会議メンバー(東京 有料記事); 自民党に9900万円を献金したら、防衛省から4.2兆円を受注できる。軍事産業にとって効率のいい賄賂。 自民に献金し、自衛隊に戦車を納める三菱重工     

 

2024年12月29日日曜日

大杉栄とその時代年表(359) 《子規の妹、正岡律のこと①》 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」(正岡子規『仰臥漫録』附)より《子規の妹、正岡律》に関するノート

 

《子規の妹、正岡律のこと》

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」(正岡子規『仰臥漫録』附)より《子規の妹、正岡律》に関するノート


「『根岸夜話』という、可憐な本がある。

上野に近い根岸で、江戸時代から将軍家出入りの瓦屋、”瓦亀”に生まれた大熊利夫さんが、昔から文人墨客が住んだ町内のあれこれを書き綴ったものだが、・・・まことに可愛らしい町内のミニコミ本である。

その夜話の八番目に、「律女看病記」と題したものがある。

(略)

寝床の子規は、毎夜、カリエス患部の繃帯がえで、痛さに絶叫する。その声は、のちに国鉄鶯谷駅が設けられるあたりまで届いたというから、まさに瓦亀さんあたりまで、ゆうに届いただろう。

瓦亀さんちの大熊さんは、こう語っている。

「わたしは、子規先坐があれだけの文学上の功績をおあげになった陰の力として、子規先生の妹律さんのことを、誰かが書かなければいけないと思っていたんですよ。律さんのご苦労は、それはそれは大変なことだったんですから (……)」」


「大熊さんは『根岸夜話』で語る。

「律さんは (・・・) 三つちがいの妹です。結婚もされずに子規先生の看病で一生を終られたような人です」

さらにこうも語っている。

「子規先生がお亡くなりになったんで、(・・・) お母さんの面倒を一切律さんがみなければならなくなりました」

つまり町内の人たちは、律さんという女性の、看護の戦いがずいぶんと長いものであったことを書いてあげてほしいと、言っているのだ。まさに看護は、男とは違う女の”長くて、辛抱の戦場”だった。」

律さん必死の勉学

・・・・・

・・・律さんは子規の死後に、共立女子学園、そのころの共立女子職業学校に入学、さらに卒業してから、裁縫の技術を磨き、母校である共立女子職業学校の教員となり、十四年間勤め上げているのだ。共立女子学園には、律さんの履歴がきちんと残されていた。次の写真を見てもらいたい。これは子規の死後三年の、明治三十八年(一九〇五)三月に、共立女子職業学校を卒業したときの写真である。

見てすぐわかるように、律さんは同級生よりもかなり年上だ。このとき律さんは、なんと三十五歳だったのた。

この共立女子職業学校は、自立した女性の育成を目的として、東京の中心地に名士の鳩山春子さんを含む三十四名の有識者が集まって明治十九年(一八八六)に設立された。共同で設立した学校なので名前が共立なのだ。

・・・・・

律さんが職業婦人を目指したのは、正岡家が長男の子規こと升を失って、律さんが戸主となり、年老いた母の面倒を見なければならない事情が第一であったのだが、実は、律さんは、〝勉強〞をしたかったのである。

病臥する子規の口述を筆記し、膨大な日本の俳句の分類を手伝わねばならなかったころ、その子規さんの仕事を支えるに当たって、あまりにも律さんは文化を知らなさすぎた。余命いくばくもない兄の子規は、病苦の中で、妹の律さんに「馬鹿」とか「阿呆」のきつい言葉を浴びせたという。

無理もない。明治のころの普通の女子は、漢学の勉強をさせられることもなく、学閥と無縁のところにいた。女は結婚して、子供を産み、義父母に仕えて家事に尊念するのが務めであったのだ。

- 兄は、俳句革新の道半ばにして倒れた。そのあとを何とか継いでいくためには、戸主として家計を安定させた上で、文化の勉強が必要だった……。そのために、女子の自立の旗をかかげた共立女子職業学校に入学したのた。それ故か、律さんは若い仲間に気おくれもせず、常に成績がトップだったそうである。・・・・・」


二度の結婚と離婚

共立女子学園の図書館には、同校を卒業し、教員として奉職もした律さんの公式年譜がつくられている。

それによると、兄・正岡子規さんの三歳年下の妹として明治三年(一八七〇)に生まれたとあり、そしていきなりの感じで、明治十八年(一八八五)に従兄・恒吉忠通と結婚となっている。年齢をみると、十五歳である。やや若すぎると思ったが、日本が近代国家に成熟するまでは、女子の十五歳は結婚適齢期であった。

夫となる恒吉忠通は、同じ松山藩の士族であり、陸軍大学にあって銀時計をもらうほどの英才だったから、実に良縁であったといえよう。

ところが結婚して二年にして、律は離婚されて正岡家に帰ってきている。

(略)

子規さんの説得によるのか、律さんは二年後に再婚している。相手は松山中学校の教員・中堀貞五郎である。夫になった中堀さんは夏目漱石『坊っちゃん』に出てくる「うらなり」のモデルだという説もある人で、教育熱心かつ実直な人と評判が高かったが、なんと、こちらも一年で離婚となっているのだ。

この破婚は、子規の病気が原因であったようだ。

「兄の看病に、帰らせてもらいます」

と律さんは、夫の中堀さんに宣言したのだと、私は想像する。なぜ、そういうことをするのか - 。ざっくり言ってしまえば、律さんにとって兄・子規が恋人であり、理想の人であったのではないか。

(略)

わが兄はホトトギス

子規の主治医であった宮本仲(ちゆう)博士は、こう語っている。

「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」

子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。

「ことに妹律さんは、十分表彰されてよい方だと思う」

とも語っているが、律さんは十分表彰されているかというと、残念ながらまことに乏しいと言わざるを得ない。

そう思うのは私一人ではないようで、すぐれた小説家であった山田風太郎さんが、昭和五十一年(一九七六)に書いた「律という女」の一文がある。

「私は『仰臥漫録』を読むたびに、妙にこの女性のことが気がかりであった」

なぜなら、子規の偉業を支えた律は、

「他の大作家の妻の内助の功などというもの以上に偉大なものであったといえるのではないか」

そして、

「律という女性は、子規の歿後どうしたのだろう。どんな運命を辿ったのだろう?」

と書いている。

まったくその通りで、律さんのその後はまったくといっていいくらい検証されていない。

(中略)

すると、子規さんの側近の弟子であった俳人寒川鼠骨さんの一文を見つけたのだ。

鼠骨さんは関東大震災のあと、老朽化した根岸の子規庵を再建し、お律さん(と鼠骨は呼んでいる)と母堂八重さんとは壁一重の隣家に住み、律さんと一緒に子規の遺品や子規魔そのものを護った上、律の最期をも看取った人物である。

その鼠骨さんは、こう書いている。

「子規没後、お律さんはまだ三十一歳。再々婚してもよい年頃であった。実際に、お婿さんに擬せられた人もあった。しかし、お律さんは健気にも独力で家を支持し、令兄の跡を濁(けが)すまいとの決心を固められた」

つまり、お婿さんを迎えることも出来たのだが、自分が正岡家の戸主となったのだから、まず自立して正岡家を維持したいと決心したのだ。自立するには、どうすればいいか。先に書いたように、律さんは、神田の共立女子職業学校に通学して、卒業後はその教員として独立の計を立てたのである。

(中略)

律は職業婦人となって、独立の計を立てたのち、親戚から義子(*)を迎え、正岡家を立派に永続させた。そして子規さんに続き、母・八重さんを看護し、看取るのである。」

(*)律44歳、母八重70歳の時、子規の叔父加藤拓川の三男忠三郎(東京府立一中に入学)が、律の養子として正岡家を継ぐことになる。

電鈴のボタン

・・・・・

正岡子規の最良の看護人である妹の律さんを支え抜いて、その生涯を看取ったのは、寒川鼠骨さんである。

鼠骨さんが昭和十六年(一九四一)に改造社の『俳句研究』に書いている回想録「律子刀自を懐(おも)ふ」を紹介したい。

「お律さん(私はこう呼んでいた)は、私の宅とは壁一重を隔てる子規庵を護って居られた。

老齢であるにもかかわらず、女中なしで、ひとり寂しく暮して居られた。

それで萬一の場合の用心にとて、私の宅と扉一つで往来できるよう電鈴をつけ、お律さんがボタンを押されると私の宅のベルが鳴るようにしてあった」

つまり、子規庵が再建されてからは、鼠骨さんは、子規庵の隣に家族で住んで、子規庵を護ると同時に、老齢の律さんも護ったのだ。

(中略)

「お律さんは、電鈴のボタンを枕元にして、子規居士の病室だった部屋に、居士と反対の方向である北枕に寝られるのであった。そうした設備をしてから十余年の間、扉の開閉は毎日のようだが、ベルの鳴ったことは一度もなかった」

そして、こうも続けている。

「お律さんは令兄子規居士と反対に、平生極めてお達者であった。身に病あることを知らない人であった。子規居士に似て、ざわめて健啖、南瓜なんかは、私の家人四人が食べる分量を一人で食べられるので、大笑いしたほどであった」

「だから子規居士の五十年忌までは生きているつもりだと語っておられた」

しかし、律さんは七十歳をこえるころから、体に異変がおきるのである。

「ベルは鳴らなかったが、ベルよりも大きな物音が響いた。お律さんの寝室の方からであった。(…:)急いで扉を排してお律さんの寝室へ行ってみると、お律さんは蒲団の上に横たわって居られた。『どうなきったの』。『少し目まいがして倒れましたが、イエ、タイシタこともありません』。『大丈夫ですか』。『大丈夫です、すみません、おやすみ下さい』。その夜はそれだけで済んだ」

翌午前六時、再び大きな物音がした。急いで駆けつけると、お律さんは寝室の次室に倒れていた。

「『小用に行きたいのです』と言われるので、すぐ前の縁側の便所へ後ろ抱きにして伴(つ)れていく」

医者を呼んできてもらうと、軽い脳溢血だということであった。

舌が少しもつれていたが、高熱を発して小石川の東大分院に入院した。

- 丹毒という診断であった。

寒川鼠骨さんは病室に泊まりきりで看護した。しかし、律さんの衰弱はひどい。

そこで鼠骨さんは、律さんの耳元に口をよせて魔法の言葉を言ったのだ。「お律さん、あんたはさむらいの娘でしょ。しっかりして下さい」「あなたはさむらいの娘なんですよ」と。」

さむらいの娘

その魔法の言葉を聞いた律さんは、どう反応したか。鼠骨さんの一文を借りる。

「『お律さん、しっかりしてください。食事を食べてください。さむらいの娘でしょ』と声をかけると、お律さんは首肯(うなづい)た。二人の看護婦はひそかに笑っていたが、お律さんは何時も〝さむらいの娘〞と自分でも言っておられ、真にさむらいの娘の気魄で一生を過ごされたのであった」

時代はすでに昭和。とうに侍の身分は消えて、チョンマゲも腰の刀もなくなっている。鼠骨さんはどんな憲味をこめて〝さむらいの娘〞を口にしたのだろう。また鼠骨さんの一文を借りよう。

「お律さんは〝さむらいの娘〞であるから、猥(みだ)らなことが大嫌いだった。お律さんはチャボを育てるのが道楽で、また上手であって、可愛いい沢山のチャボを育てられたのだが、小さなチャボが成人すると、みな他に譲ってしまわれるのだ。卵を割って出たばかりの、黄色の生ぶ毛の雛を育てる間が楽しいようであった。しかし、卵を生まずためには親鶏が必要であり、その親鶏が朝早く塒(ねぐら)の箱を開けられたとき、庭に飛び出すや否や、交尾をするのである。するとお律さんは、それを目の敵のように竹箒を持って雄鶏を叩いて追っ払うのだ。雄鶏は悲鳴をあげて逃げ回る。こうして一時間近くも葛藤(たたかい)が続く。『どうしたんですか』とたずねると、『朝から無作法ですもの。行儀を直さんといけませんから』と答える。律さんは誰に対しても『さむらいの道』を要望するのだった」

(中略)


この項おわり


〈関連記事〉

大杉栄とその時代年表(357) 1901(明治34)年9月17日~20日 「律は理窟づめの女なり 同感同情の無き木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に課したることなどは少しも分らず (略) 時々同情といふことを説いて聞かすれども同情のない者に同情の分る筈もなければ何の役にも立たず 不愉快なれどもあきらめるより外に致し方なきことなり」(子規『仰臥漫録』)

大杉栄とその時代年表(358) 1901(明治34)年9月21日~24日 「律は強情なり 人間に向つて冷淡なり (略) 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し 若(も)し一日にても彼なくば一家の事は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり (略) されど真実彼が精神的不具者であるだけ一層彼を可愛く思ふ情に堪へず (略) 病勢はげしく苦痛つのるに従ひ我思ふ通りにならぬために絶えず癇癪を起し人を叱す家人恐れて近づかず 一人として看病の真意を解する者なし」(子規『仰臥漫録』)

営業継続前提での解決を! ⇒ 鎌倉市長「戦後のどさくさにまぎれて続いてきた施設」発言で人気カフェに誹謗中傷相次ぎ…損害賠償・立ち退き問題で泥沼の“訴訟合戦” 「破産するんじゃないかと思うぐらい苦しい」(FNN) ;「神奈川・鎌倉の海岸沿いにある「ヴィーナスカフェ」は、映画やドラマの舞台にもなった人気店だ。 しかし、2023年の市長発言が原因とみられる誹謗(ひぼう)中傷などが相次ぎ、カフェの運営会社社長は、市長を相手に損害賠償と謝罪広告を求めて提訴した。 一方、鎌倉市側は耐震検査結果を受け、立ち退きを求めて店側を提訴していて、現在も双方の対立は続いている。」    

 

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2024年12月28日土曜日

大杉栄とその時代年表(358) 1901(明治34)年9月21日~24日 「律は強情なり 人間に向つて冷淡なり (略) 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し 若(も)し一日にても彼なくば一家の事は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり (略) されど真実彼が精神的不具者であるだけ一層彼を可愛く思ふ情に堪へず (略) 病勢はげしく苦痛つのるに従ひ我思ふ通りにならぬために絶えず癇癪を起し人を叱す家人恐れて近づかず 一人として看病の真意を解する者なし」(子規『仰臥漫録』)

 

子規『仰臥漫録』9月23日「巴里浅井(忠)氏より上の如き手紙来る」

大杉栄とその時代年表(357) 1901(明治34)年9月17日~20日 「律は理窟づめの女なり 同感同情の無き木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に課したることなどは少しも分らず (略) 時々同情といふことを説いて聞かすれども同情のない者に同情の分る筈もなければ何の役にも立たず 不愉快なれどもあきらめるより外に致し方なきことなり」(子規『仰臥漫録』)  より続く

1901(明治34)年

9月21日

親英派小村寿太郎、駐清公使から外相就任。総務長官(外務次官)珍田捨己・政務局長山座円次郎・通商局長杉村濬と朝鮮通の外交官。駐清公使内田康哉。

9月21日

永代借地権に関する法律公布。

9月21日

啄木(15)、回覧雑誌『爾伎多麻』第1号に「翠江」の筆名で美文「秋の愁ひ」・短歌「秋草」30首・「嗜好」等を発表。現存する啄木最古の作品。同雑誌は2号まで発行。

9月21日

9月21日 この日付け子規『仰臥漫録』。


「律は強情なり 人間に向つて冷淡なり 特に男に向つてshyなり 彼は到底配偶者として世に立つ能はざるなり しかも其事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人となり了(をは)れり (略) 而して彼(律)は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費さざるなり 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し 若(も)し一日にても彼なくば一家の事は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり 故に余は自分の病気が如何やうに募るとも厭はず、只彼に病無きことを祈れり (略) 

(中略)

彼は癇癪持なり 強情なり 気が利かぬなり 人に物問ふことが嫌ひなり 指さきの仕事は極めて不器用なり 一度きまった事を改良することが出来ぬなり 彼の欠点は枚挙に遑(いとま)あらず 余は時として彼を殺さんと思ふ程に腹立つことあり されど真実彼が精神的不具者であるだけ一層彼を可愛く思ふ情に堪へず (略)

病勢はげしく苦痛つのるに従ひ我思ふ通りにならぬために絶えず癇癪を起し人を叱す家人恐れて近づかず 一人として看病の真意を解する者なし

9月21日

ロンドンの漱石


「九月二十一日(土)、洋服屋に代金払う。 Glasgow University (グラスゴー大学)から試験問題を請求される。 Morris (モリス)を連れて散歩する。」(荒正人、前掲書)


9月22日

9月22日 この日付けの夏目漱石の妻、鏡子宛て手紙。


「近頃少々胃弱の気味に候。胃は日本に居る時分より余りよろしからず、当地にては重に肉食を致す故猶閉口致候。

「近頃は文学書は嫌になり候。科学上の書物を読み居候。当地にて材料を集め帰朝後一巻の著書を致す積りなれど、おれの事だからあてにはならない。只今本を読んで居ると、切角自分の考へた事がみんな書いてあつた。忌々しい。

「先達御梅さんの手紙には博士になつて早く御帰りなさいとあつた。博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々敷(しい)。博士なんかを難有る様ではだめだ。御前はおれの女房だから、其位な見識を持つて居らなくてはいけないよ。・・・・・」

「また(*鏡宛手紙に)、桜井房記にフランスへの留学延期の件を文部省に頼んで欲しいと云ってやったが、文部省から、一切聞き届けぬとのことで、泣き渡入りしていると伝えている。」(荒正人、前掲書)


9月23日

中江兆民「続一年有半(無神無霊魂)」脱稿。秋水の援助で刊行。

9月23日

福田英子(37)、角筈女子工芸学校設立。自らも寡婦(子供3人)となり、婦人の経済的独立のための技術をみにつけるための学校。造花・刺繍。月謝1円、対象は13~40歳。経営は順調であるが、女の行儀がうるさい世間で評判が悪くなり閉鎖。

9月23日

この日付けの子規『仰臥漫録』


「巴里浅井(忠)氏より上の如き手紙来る」と。


続いて、子規は、芭蕉の


「五月雨をあつめて早し最上川」は、

「この句、俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので、今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくづくと考えて見ると「あつめて」という語はたくみがあつて甚だ面白くない。 」という。

子規はその代わりに、

「五月雨や大河を前に家二軒」という蕪村の句のほうが「遥かに進歩して居る」という。


9月23日

ロンドンの漱石


「九月二十三日(月)、 Glasgow University (グラスゴー大学)へ手紙を出す。 King's College へ行く。 Denny (デニー)で ""Ethics"" 及び ""Origin of Art"" を買う。」(荒正人、前掲書)


9月24日

日清間で、重慶日本専管居留地取極書調印。11月7日告示。

9月24日

9月24日 秋分の日。朝、大原家の大叔母が餅菓子持参で子規を見舞う。


「・・・・・信州から氷餅(ひもち)を送ってきた。陸家からは自家製の牡丹餅(ぼたもち)をもらった。お返しに菓子屋にあつらえた牡丹餅をやった。

「牡丹餅をやりて牡丹餅をもらふ。彼岸のやりとりは馬鹿なことなり」

この日の三食の献立。

朝飯 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬 牛乳(ココア入) 餅菓子一つ 塩せんべい二枚

午飯 粥三わん かじきのさしみ 芋 なら漬 梨一つ お萩一、二ケ

間食 餅菓子一つ 牛乳五勺(ココア入) 牡丹餅一つ 菓子パン 塩せんべい 渋茶一杯

夕 体温卅七度七分 寒暖計七十七度 生鮭照焼 粥三わん ふじ豆 なら漬 葡萄一ふさ


このうち、佃煮、なら漬、餅菓子、牡丹餅、葡萄はもらいものである。ほかに食前に葡萄酒を一杯飲み、クレオソートを毎日六粒ずつ服用している。

この日の献立をざっと計算してみると、合計三八〇〇キロカロリーの熱量がある。現代の成人男子で一日二五〇〇キロカロリー、六十四歳軽労働なら一八〇〇キロカロリーで十分とされるから、寝返りさえ満足に打てぬ重病人としては破格である。

魚の刺身などは十五銭から二十銭した。現代では二千円か。これらは子規だけの特別食である。長塚節が人を介して届けてきた鴨三羽、左千夫が持参した本所与平の鮨、虚子が持たせてよこした小エビの佃煮、ウニ、神田淡路町風月堂の洋菓子、大阪から送ってきた松茸や大和柿、みな子規だけのものだ。左千夫、鼠骨、虚子ら高弟が相伴することばあるが、五十六歳の母と三十一歳の妹は、ときに野菜煮などは食するものの、「平生台所の隅で香の物ばかり食ふて」いたのである。」(関川夏央、前掲書)


つづく

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題(元局長プライバシー情報漏洩・不当公開拡散問題)】 元県民局長の私的ファイル?続く拡散 なぜ兵庫県はすぐ調べないのか(朝日 有料記事) / 斎藤知事とPR会社社長を刑事告発 SNS運用めぐり買収の疑い 立花氏がSNSで拡散の“私的情報”はどこから流出? 斎藤知事は第三者委員会の設置検討【news23】 / NHK党立花氏公開の「プライバシー情報」 斎藤兵庫知事「本物かどうかわからない」(産経新聞) / 長瀬猛議員『(立花氏への)情報漏洩の根っこは井本本部長と片山元副知事ではないかと強く疑う』 「県幹部がプライバシーに関わるようなデータをプリントし見せて回っていた」 / USBに保持していた私的情報まで押収した ⇒ 何故、USBのデータが公的PCのディスクトップにあったのか?        

 

 

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2024年12月27日金曜日

能登半島地震、国に対する憤りの声(NEWS23動画) 大谷地区 丸山会長 「1年かかって水道が来てないという現状、これどう見ますか?私は国にお願いしたい、今の現状を見て復旧に対して正常に戻してほしい…でもほとんど諦めてますから、これがこの国の力だと思っているから、いくら言ってもしょうないねと」

 

防衛省が不祥事の在庫一掃セール? 国会の追及避け、年末に集中発表(朝日 有料記事);「潜水艦修理をめぐる川崎重工業の裏金問題、「特定秘密」の違法な取り扱い、手当の不正受給、事務次官級の幹部によるパワハラ――。  防衛省が27日の夕方に、四つの不祥事を一斉に発表した。多くの企業などが仕事納めとなる年の瀬の金曜日に、なぜ集中させて発表したのか。  「我が省にとって大切な政策が議論されていた。そんなときに不祥事について国会で追及されることだけは避けたかった」  防衛省幹部のひとりは、背景についてそう明かす。」   

 

大杉栄とその時代年表(357) 1901(明治34)年9月17日~20日 「律は理窟づめの女なり 同感同情の無き木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に課したることなどは少しも分らず (略) 時々同情といふことを説いて聞かすれども同情のない者に同情の分る筈もなければ何の役にも立たず 不愉快なれどもあきらめるより外に致し方なきことなり」(子規『仰臥漫録』)

 

子規『仰臥漫録』9月17日の「ニ、三日前にちぎりし夕顔(実物大)」

大杉栄とその時代年表(356) 1901(明治34)年9月12日~15日 中江兆民、僅か10日間で『続一年有半』脱稿 「令閏始め一同が、そんなにお書きなさると一倍病気に触りましやう、お苦しいでしやうと言ても、書なくても苦しさは同じだ、病気の療治は、身体を割出しでなくて、著述を割出しである、書ねば此世に用はない、直ぐに死でも善いのだと答へて、セツセと書く、疲れゝば休む、眠る、目が覚めれば書くといふ風であった」(幸徳秋水) より続く

1901(明治34)年

9月17日

連合軍の北京撤兵完了。

9月17日

この日の子規『仰臥漫録』に「ニ、三日前にちぎりし夕顔(実物大)」の絵あり

9月18日

元老伊藤博文、ロシアとの交渉のため横浜港出発(公式はイェール大學記念式典出席)。日露協商交渉を意図(ロシアとの戦争回避。「満鮮交換論」者)。日英同盟を進めようとする桂太郎にとっては雑音。

10月21日ワシントンでルーズベルト大統領と会見。

23日イェール大学で称号授与。

11月4日パリ着。

9月18日

『時事新報』、埼玉県の企業家関根イトの女工虐待に関する裁判を報道。女工虐待問題批判の世論高まる。

9月18日


「九月十八日午後、虚子がきた。このとき虚子は、九段坂上の富士見町に転居したことを告げた。家賃十六円という。子規は初耳である。ほかに「ホトトギス」事務所を猿楽町に借りている。こちらは四円五十銭という。「ホトトギス」と俳書の刊行だけでここまできたのは、虚子の才覚には違いない。感心する。感心はするけれども、かすかな不快の念がともなうのをおさえられない。

上根岸の「吾盧(わがろ)」の家賃は六円五十銭にすぎない。」(関川夏央、前掲書)

9月19日

澤田美喜、誕生。エリザベス・サンダース・ホーム創建者。

9月19日

9月19日の子規『仰臥漫録』


「家賃くらべ

虚子(九段上)十六円。飄亭(番町)九円。碧梧桐(猿楽町)七円五十銭。四方太(浅嘉町)五円十五銭。鼠骨・豹軒同居(上野源泉院)二円五十銭

吾盧(わがろ)(上根岸鶯横町)六円五十銭 ホトトギス事務所 四円五十銭 把栗(大久保)四円、秀真(本所緑町)四円(畳建具なし)


「自分は一つの梅干を二度にも三度にも食ふ。それでもまだ捨てるのが憎い。梅干の核(たね)は幾度吸(す)はぶつても猶酸味を帯びて居る。それをはきだめに捨ててしまふといふのが如何にも憎くてたまらぬ」


これを読んだ虚子が、自分へのあてつけと思ったのは当然であった。『仰臥漫録』は、つねに子規の枕頭に置いてあり、訪問者は自由に見ることができた。これはおもしろい、という感想が大勢を占めたが、虚子は『仰臥漫録』が子規の自分に対する「不平を洩らす為の記録ではないか」(『柿二つ』)とさえ疑った。」(関川夏央、前掲書)

9月20日

石光真清大尉(変名「菊池正三」)、ハルピンで「菊池写真館」開業。支配人は山本逸馬(甲武鉄道信濃町駅長)、他に東京の「小川写真館」から技師2人を雇用。石光は日本郵船ウラジオストク支店長寺見機一を通じて東清鉄道運輸部長ワホウスキーと交渉し土地貸与・営業許可の助力を得、また、東清鉄道指定写真館にしてもらう厚遇をえる。写真館には東清鉄道から建設状況・地形・風景など、またロシア満州派遣軍の報告用軍事施設撮影などの注文が入る。

9月20日

川俣事件、控訴審始まる。

10月5日、判事・検事・弁護士・記者、現地検証。毎日新聞記者松本英子ルポ「鉱毒地の惨状」。

9月20日

9月20日 この日付け子規『仰臥漫録』。


「夕刻左千夫本所の与平鮨一折を携えて来る

上野の森の梟しばし鳴いてすぐ止む

虚子より『ホトトギス』先月分のとして十円送り来る

律は理窟づめの女なり 同感同情の無き木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に課したることなどは少しも分らず 例へは「団子が食ひたいな」と病人は連呼すれども彼はそれを聞きながら何とも感ぜぬなり (・・・・・)故に若し食ひたいと思ふときは「団子買ふて来い」と直接に命令せざるべからず 直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背することなかるべし その理窟っぽいこと言語道断なり 彼の同情なきは誰に対しても同じことなれどもただカナリヤに対してのみは真の同情あるが如し 彼はカナリヤの籠の前にならば一時間にても二時間にても只何もせずに眺めて居るなり しかし病人の側には少しにても永く留まるを厭ふなり 時々同情といふことを説いて聞かすれども同情のない者に同情の分る筈もなければ何の役にも立たず 不愉快なれどもあきらめるより外に致し方なきことなり


「幼年期の兄が近所の悪童らにいじめられて泣いて帰ると、仇をとりに石をつかんで駆け出したという逸話を残す律は、士族の娘ではあったが、その時代の松山の平均的な女子のように小学校の尋常科四年で公教育を終え、やがて嫁した。最初の夫は軍人、二番目は教員であった。どちらの結婚生活も短かった。

二番目の夫とともにあった明治二十八年、子規大喀血の報に接した律は、神戸の病院を出たら兄は松山に帰ってくるはずだと考え、兄の介抱のため一日おきに実家へ帰らせてもらうと夫に宣言した。夫が渋るとそのまま離婚した。五尺に満たぬ貧弱な体の夫にもともと不満だったという見立てもあるが、律が兄を優先するのは自然な反射のごときものであった。

その後、律は母八重とともに上京、兄の死まで根岸で三人暮らしをつづける。律の結婚歴は別に秘密というのでもなかっただろうが、碧梧桐、虚子らの松山出身者らを除けば知る者はほとんどいなかった。

叫喚する兄を、まさに「木石の如」く受けとめ、毎日一時間かけて膿だらけの繃帯をとりかえる。便をとり、大量の汚れものを庭先の井戸端で日ごと洗う。そのうえ、あらゆる家事をほとんど言葉なく着実にこなす。兄の看病のためにこの世にあるかのような律に有夫の時代があったとは、ましてそれが二度におよんでいたとは、誰も想像しなかったのである。

律は硬い輪郭線を持った女性であった。そしてたいていの人にはその輪郭線しか見えなかった。

この日、律についてしるす子規の筆致は過剰に冷静である。非情とさえいえる。(関川夏央、前掲書)


つづく

2024年12月26日木曜日

女性側、岸和田市長に反論 不倫ではなく「関係強要」(共同) / 「妻同席で会見」ですと! ⇒ 大阪・岸和田市 永野市長 議会を解散 女性問題で不信任決議案が可決されたことを受け 妻同席で会見“辞職・失職の考えなし”(TBS) / 岸和田市長、議会解散の意向固める 自身の性的関係めぐり不信任可決(朝日) / “不倫”性的関係めぐり維新離党も続投意思の岸和田市長に市議会「本会議出席拒否」の申し入れ(読売テレビ) / 岸和田市長に2度目の判断も「離党勧告処分」大阪維新の会 性的関係めぐり女性と和解 会見で「不倫の関係」など説明(MBS) / 「人の道を外れる行為だった」 - 岸和田市長、謝罪も辞職は否定(共同) / 岸和田市民「辞めさす方法ないの?」 女性に“性行為強要”で和解の永野耕平市長が辞任否定 維新公認当選だが…離党しても市長続けたい(FNN) / 岸和田市長に維新離党勧告 性的関係強要巡る和解受け(共同) / 「維新が除名判断したら辞職する」市議会で「性加害ない」と繰り返し主張する岸和田市長 市議会から辞職求める声(MBS) / 岸和田市長、500万円を支払い和解 本人尋問で明かされた「被害内容」(小川たまか) / 大阪・岸和田市長、性的な関係めぐり女性から2年前に提訴 11月に和解(MBS); 女性は「本心では、和解などしたくはありませんでした」「心身ともにぼろぼろです。裁判を早く終わらせたい思いが強く湧くようになり、諦めたというのが実情です」と / 配偶者がいる岸和田市長、性的関係巡り和解…強要されPTSD発症の女性「許したわけではない」(読売) / 岸和田市長、性的関係めぐり和解 地裁「優越的な立場、非難免れぬ」(朝日) / 大阪・岸和田市長「悪いことしていない」 地元は戸惑い 一問一答(毎日) / 大阪・岸和田市長、性的関係をめぐり和解 女性「今でも悔しい」、市長「自分に非はない」(産経)      



 

ヒョンビンが安重根、リリー・フランキーが伊藤博文演じる新作映画が韓国で公開前からヒット確実 / 『KCIA 南山の部長たち』のウ・ミノ(ウ・ミンホ)監督がメガホンを取った映画 『 ハルビン / 하얼빈 』

韓国文学が描く民主化 ―戒厳令と犠牲の忘却(真鍋祐子さんインタビュー)(date2024.12.25 writer安田菜津紀) ; 犠牲の上の民主化を破壊した「非常戒厳」  民主化後も残る「過去の積弊」  監視下で文学が民主化運動を描くこと  孤独の光州は世界に繋がっていた

 

大杉栄とその時代年表(356) 1901(明治34)年9月12日~15日 中江兆民、僅か10日間で『続一年有半』脱稿 「令閏始め一同が、そんなにお書きなさると一倍病気に触りましやう、お苦しいでしやうと言ても、書なくても苦しさは同じだ、病気の療治は、身体を割出しでなくて、著述を割出しである、書ねば此世に用はない、直ぐに死でも善いのだと答へて、セツセと書く、疲れゝば休む、眠る、目が覚めれば書くといふ風であった」(幸徳秋水)

 

子規『仰臥漫録』9月12日「昨日床屋の持て来てくれた盆栽」

大杉栄とその時代年表(355) 1901(明治34)年9月7日~10日 「気慰みの写生画の対象に、庭の花々や棚の糸瓜(へちま)のほか菓子パンさえ選ぶこの時期の子規への見舞いは、食べものと決まっていた。その見舞いの品々を、子規は『仰臥漫録』に欠かすことなく記録した。」(関川夏央) より続く

1901(明治34)年

9月12日

この日の子規『仰臥漫録』に「昨日床屋の持て来てくれた盆栽」の絵あり。


「午後沼津の麓の手紙来る

麓留守宅より鰻の蒲焼贈り来る

高浜より使い、茶一かん、青林檎ニ、三十 金一円持来る 茶は故政夫氏のくやみかえし、林檎は野辺地の山口某より贈り来るもの、金円は臍斎(せいさい)より病気見舞い」(『仰臥漫録』)


9月12日

ロンドンの漱石


「九月十二日(木)、寺田寅彦・野々口勝太郎から手紙来る。寺田寅彦宛手紙に、下宿の老嬢の文学的教養とフランス語を自由に話すことに驚いたと伝え、「學問をやるならコスモボリタンのものに限り候英文學なんかは縁の下の力持日本へ帰つても英吉利に居つてもあたまの上がる瀬は無之候」「僕は留學期限を一年のばして仏蘭西へ行き度が聞居られさうにもない」と書く。(この頃、フランスへ留学することを本気で考えていたらしいが、希望がかなえられず失望する。この日の新聞(不詳)で Sie Arthur Ruker (リュッカー教授)が、 The British Association for the Advancement of Science (イギリス科学振興協会)で行った ""Atomic Theory"" (原子論)に関する演説を読み、興味覚える。)」(荒正人、前掲書)



9月12日 漱石の寺田寅彦宛の手紙。


「同氏(池田菊苗)とは色々話をしたが頗る立派な学者だ化学者として同氏の造詣は僕には分らないが、大なる頭の学者であるといふ事は慥かである同氏は僕の友人の中で尊敬すべき一人と思ふ」と池田菊苗を評し、「君の事をよく話して置たから暇があったら是非訪問して話をし給へ君の専門上其他に大に利益がある事と信ずる」と記す。(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))


9月13日

那桐清国特使参内。北清事変について陳謝の国書提出。

9月13日

兆民は、岡田の勧告と医療処置を受け入れ、9月13日より筆を執り、わずか10日間で脱稿した。『続一年有半』である。秋水はこう伝えている。

「令閏始め一同が、そんなにお書きなさると一倍病気に触りましやう、お苦しいでしやうと言ても、書なくても苦しさは同じだ、病気の療治は、身体を割出しでなくて、著述を割出しである、書ねば此世に用はない、直ぐに死でも善いのだと答へて、セツセと書く、疲れゝば休む、眠る、目が覚めれば書くといふ風であった」

9月13日

この日の『仰臥漫録』に「朝顔」の絵と句あり。

9月13日

9月13日~14日 ロンドンの漱石


「九月十三日(金)、 Dr. Furnivall (ファニヴァル博士)に逢う。

九月十四日(土)、午後、 Wimbledon Common (ウィンブルドン共有地)に行き、桑原金之助(推定)の宅に一寸立寄る。七時三十分帰宅する。桜井房記から手紙届く。」(荒正人、前掲書)


9月14日 漱石に五高校長桜井房記からの手紙が届き、以前周旋を依頼しておいた留学期限延長とフランスに移る件が不許可になったと伝えられる。更に、東京転任の希望すらも覚束ない様子を伝えられる。


「フランス留学の希望は強かったらしい。フランス語は、大学予備門で建築家を志した時に学んでいたと想定される。ロンドンでも勉強していたものと想像される。かなり自信があったらしい。」(関川夏央、前掲書)

9月14日

清国、学校改革令発布。

9月14日

「九月十四日午前二時頃、子規は耐えがたい腹痛で目覚めた。深夜に絶叫号泣。ついで「下痢水射三度許(ばかり)」とある。

隣家の医師を叩き起こそうとしたが、あいにく旅行中で留守という。電話を借りて、やや離れた場所に住む医師に連絡をとった。夜が明けてやや痛みも鎮まった頃、代診の若い医師がやってきた。疲労困懸。」(関川夏央、前掲書)

9月14日

マッキンレー米大統領、没。副大統領セオドア・ルーズベルト、大統領就任(~1909年3月)。

9月15日

この日の子規『仰臥漫録』


「昨夜疲れて善く眠る

(略)

夕暮前やや苦し 喰いすぎのためか」


9月中旬

元軍医総監・男爵の石黒忠悳(1845~1941)、中江兆民を見舞う。石黒は、兆民中江篤介なる人物が不治の病に倒れたとの報を聞き、30年前、自分に診察を頼んだ一青年が中江篤介と名乗っていたことを思い出し、堺で療養する兆民に、見舞いかたがた問合わせの書状を送った。これに対し兆民は、診察を乞うたのは間違いなく自分だと返書。帰京した兆民を石黒は、確認されるだけでも、9月中旬、10月下旬、11月15日頃、12月初旬と、4回見舞う。告別式にも参列。

この石黒の見舞訪問や石黒と兆民の奇縁が新聞に報道されたことが、森鴎外に微妙な波紋を投げかける。

「逢ひたくて逢はずにしまふ人は沢山ある(中略)。中江篤介君なんぞは、先方が一度私を料理屋に呼んで馳走をしてくれたことがあるのに、私は一度も尋ねて行ったことがない。それが不治の病になったと聞いて、私はすぐに行きたいと思つた。そのうちに一年有半の大評判で、知らない人がぞろぞろ慰問に出掛けるやうになつた。私はとうとう行かずにしまった」と、鴎外の「長谷川辰之助」(『二葉亭四迷』(坪内逍遥・内田魯庵編)にある。兆民の療養時、鴎外は第一二師団軍医部長として小倉に滞在していたから、容易には兆民を見舞うことはできなかったかも知れないが、必ずしも見舞いが不可能ではなかったはず。鴎外は石黒に穏やかならぬ感情を抱いていたといわれ、鴎外には石黒は煙たい存在で、石黒も鴎外に全幅の信頼を寄せていたわけではないようだ。


つづく

2024年12月25日水曜日

大杉栄とその時代年表(355) 1901(明治34)年9月7日~10日 「気慰みの写生画の対象に、庭の花々や棚の糸瓜(へちま)のほか菓子パンさえ選ぶこの時期の子規への見舞いは、食べものと決まっていた。その見舞いの品々を、子規は『仰臥漫録』に欠かすことなく記録した。」(関川夏央)

 

子規『仰臥漫録』9月7日の「糸瓜」

大杉栄とその時代年表(354) 1901(明治34)年9月3日~7日 あと4,5ヵ月(翌年2、3月まで)は生命は保ちうるとの医師の答えを聞いて、兆民は失望し、「余近日ニ到り病大ニ増悪セルヲ以テ、我事当ニ一週ヲ出デズシテ終告(ママ)ヲ告グルナルべシト大ニ喜ビシガ、今又先生ノ言ヲ聞ケバ尚四五月ノ病苦ヲ忍バゲルヲ得ザルガ、是余ノ望ム所ニアラズ、請フ一刀患部ヲ截テ死ヲ早カラシメヨ」と(「一二珍奇ナル食道癌ニ就テ」)

1901(明治34)年

9月7日

この日の子規『仰臥漫録』に「糸瓜」の絵あり

9月7日

ロンドンの漱石


「九月七日(土)、 Morris (モリス)を連れて、 Hyde Park (ハイド・パーク)を散歩する。 National History Museum (博物展示館)に行く。」(荒正人、前掲書)


9月8日

この日の『仰臥漫録』に「間食」に食べた「菓子パン数個」の絵あり


更に、

「九月八日の午前十一時頃「苦み泣く」とあるのに、夕食には「焼鰯十八尾」と鰯の酢のもの、キャベツで粥二椀。食後に梨一つ。「焼鰯十八尾」には本人も驚いたらしく、わざわざ圏点を打ってある。」(関川夏央、前掲書)


9月9日

この日(9月9日9の子規『仰臥漫録』に「病牀所見」の絵あり


続けて、

「隣家に八石(はちこく)教会と云ふあり

八石ノ拍子木鳴ルヤ虫ノ声」

という句がある。


以下、「八石教会」なるものについて、森まゆみ『子規の音』より

八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。幽学は寛政に生まれ、諸国を流浪して、神道、仏教、儒教を一体とする「性学」を開いた。下総国香取郡長部村の農業振興を頼まれ、日本初の農業協同組合といえる先祖株組合を設立した。幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。

「教会の人はどこに行くにも決して汽車や人力車を用いない。どこまででも徒歩で行く。また髪を決して刈らない。どんな小さな子どもでも皆まげを結っていた。会員は主に農業についていたが、中には大工もあれば左官もあり植木屋もあって、これらの人たちは冬こそその職に忠実に働くが、その収入は全部教会に納めて一銭も私しない。魚は食うが肉は食わない。無論洋傘や外套を用いない。つまり明治になってからの文明は殆ど取り入れていない世にも変わった団体であった」(藤井浩祐「上野近辺」『大東京繁昌記・山手篇』) 

(略)

藤井浩祐は東京美術学校を出た彫刻家で、帝国美術院会員になったが、今では忘れられた。若いころは日暮里に住んでいた。同じくジャーナリストの下田将美も子供の頃見た八石教会について書いている。長いので要約したい。

創始者は遠藤良左衛門(亮規)といって「二宮尊徳そのままの人格者」である。下総の長部村字八石という小さな村に慶応年間、性学八石教会として発祥し、両総(上総、下総)に信者が多かった。「働け働け」「粗衣粗食に甘んじる」「他人のために尽くす」のが主眼で、説教を聞く間も手を動かし、生産物は平等に分けた・・・・・。なんだか引力がある解説だ。

それが東京にも広まって、根岸の「笹乃雪」付近と日暮里の佐竹の下屋敷を中心として明治十四、十五(一八八一、八二)年にはすぼらしい勢いになっていた。守旧であっても彼らの平和主義に明治政府は弾圧の手を伸せなかった。佐竹の原は今の道灌山の開成学園のある辺から田端にかけて(現在の荒川区西日暮里四丁目)、ここに信者の家が多く、皆黒い綿服を着、男はちょんまげを結い、女は同じ櫛を付けていた。彼らは熱心に炭団をこね、干していた。それを子どものころ下田将美は珍しいものに眺めた。

根岸には東京の八石教会の取締、石毛源左衛門という長老がいた。

彼が東海道石部の椿の教会支部に出かけるとき、東海道線がすでに通っているのに、山駕籠でいったそうである。

女は髪に真鍮のかんざしに黒檀の櫛と笄(こうがい)を飾り、それは皆池之端の「川しまや」に注文していた。

そこの主人は生粋の江戸っ子で、こう述べていたという。

「何しろ昔風の山駕籠に石毛先生がのってそれをかついでいる人が皆丁髷(ちよんまげ)の黒い綿服に脚絆(きやはん)穿(ば)きなのですからずいぶん人の目にも立つ奇妙な格好なものでした。石毛先生はもういい年でして無論ちょんまげ、懐には、昔を忘れぬ懐剣が何か一本ぶち込んでいるのです。・・・・・とにかくかわっていましたな、いったいこの八石教会の人には旧幕時代を憧れた人が多かったようでしたね」(下田将美『東京と大阪』)

正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。子規はそれ以上書いていないけれども。いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で、上野東照宮では彰義隊の幹部で、足の怪我のため上野戦争の当日、上野に入れなかった本多晋(すすむ)が宮司を務め、長く上野でなくなった同志を弔い、榎本武揚などもよく来たという。

根岸の八石教会は子規の死後、明治の末にこの石毛老人の死去により急速に勢力が衰えた。子規の隣のりっぱな石毛邸もなくなった。そこの人々は茶道をしたり、夜には拍子木を打っていたのだろうか。画家谷文晁の末裔のおけいさんという女性や、木内重四郎の父も教会員だったという。下田は慶応義塾を出て、時事新報記者、その後大阪毎日新聞社の幹部となった。昭和五年刊の『東京と大阪』では、大正期、郊外住宅地としての日暮里渡辺町の形成によって佐竹屋敷あとの信者たちは跡形もなく消えたと述べている。」(『子規の音』)

9月9日

仏、画家アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック(36)、没。

9月9日

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルク家出身のメキシコ皇帝マクシミリアンが革命派に処刑されたため、メキシコとの国交を回復(1867年以来断絶していた)。

9月10日

大日本労働団体連合会、結成。

9月10日

この日の子規『仰臥漫録』に安民(やすたみ)から贈られた蛙の置物の絵あり。



「九月十日には「便通、間にあはず」とある。律の準備に間に合わず粗相をしたということであろう。そのあと繃帯の取換え。号泣する。

しかし間食には、「焼栗八、九個 ゆで粟三、四個 煎餅四、五枚 菓子パン六、七個」を食べている。九月十二日にも繃帯換えの大騒動があったが、その日の夕食には鰻の蒲焼を七串食べた。ほかに酢牡蠣とキャベツで飯を一椀半。食後には梨一つと林檎ひと切れ。九月十三日の間食は、桃の缶詰三個と紅茶入り牛乳五勺、それに菓子パン一個と煎餅一枚である。

鰻の蒲焼と桃缶は岡麓が届けてきた。茶と林檎は虚子が一円を添えて使いに託した。気慰みの写生画の対象に、庭の花々や棚の糸瓜(へちま)のほか菓子パンさえ選ぶこの時期の子規への見舞いは、食べものと決まっていた。その見舞いの品々を、子規は『仰臥漫録』に欠かすことなく記録した。(関川夏央、前掲書)

9月10日

ゴーギャン(53)、夕ヒチを発ち、マルケサス諸島のヒヴァ・オア島に向かう。

16日ヒヴァ・オア島アトゥオナに上陸。


つづく