2025年12月25日木曜日

大杉栄とその時代年表(719) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳④〉 大正4(1915)年3月26~4月2日 「私が行った時には、大友(お多佳さんの家)から宿へかえって臥せっておりましたが、いつもの病気でたいしたこともない様子で、まあまあと一安心しました。そこへまた皆さんがお見舞いを兼ねて来てくださいます。なかなか賑やかなことでした。」

 

夏目鏡子

大杉栄とその時代年表(718) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳③〉 大正4(1915)年3月23~25日 「「先生お目覚めどすか」いうて、なんの気なしにふと先生を見たやおへんかいな。そしたらこう鼻の頭から、額もびしょびしょの汗どすのや。たらたらと流れているようやおへんか。あたしびっくりしましてな、「先生! おあんばいが悪るおすか」申しましたら、「いや、なにー」いうて、両手で洗面場をつかまえて、ぺちゃんぺちゃんとそこへ坐っておしまいるやおへんかいな。さあ、えらいこっちゃ、こらどむならん、こんな所へお坐りやしたらいかんいうて、あたしが腰を持ち上げるようにして、おこたのとこへお伴れしたんどす。」 より続く

〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳④〉 

大正4(1915)年

3月26日

二十六日(金) 終日無言。平臥。不飲不食。午後に至り胃の工合少々よくなる。医者来る。(漱石の日記)


3月26日以後、漱石の体調は悪く、一日中、床に臥せって、画帳や短冊に思いつくままに絵を描いて過ごした。

3月27日

二十七日(土) 夕方から御君さんと金之助と御多佳さんがくる。三人共飯を食う。牛乳を飲んで見ている。御多佳さん早く帰る。あとの二人は一時過迄話している。・・・・・ (漱石の日記)


3月28日

二十八日(日) 昨夜三(人)が置いて行った書帖や短冊に滅茶苦茶をかいては消す。・・・・・

医者来。人工カルゝルスをくれる。(漱石の日記)


3月29日

二十九日(月) 又畫帖をかく。午後御多佳さんがくる。晩食後合作をやる。(漱石の日記)

(以下、4月8日まで日記欠)


3月30日

だいぶ気分が良くなったので、京都で世話になった人たちを招いて、舞妓の踊りを見ようとしたが、その宴のさなか漱石は腹痛激しくなり大友に泊まる。


3月31日

具合よくならない。多佳は青楓に電報を打ってきてもらう。医師は心配はないという(いつもの胃病)。食事は全くしない。きぬ、きみ来る。この日も大友に泊まる。


多佳はその時のことをこう言っている。


「『病気なればこそ祇園の茶屋に思いがけず二泊することになる。』といって、先生はお笑いになる。」

4月1日

食事は全くしない。大阪朝日新聞社より竃話がかかり医者に見せたかとか手当は行き届いているかなどといわれる。

鏡子夫人に電報を打って京都に来てもらうことにする。漱石は北大嘉に戻る。

鏡子夫人、夕方東京駅発、神戸行きの急行で京都に向かう。


自分でも京都をいいかげんに切り上げるについて、今まで西川さんや何かに何くれとなく御厄介になった、そのお礼心にどこかで一夕お招きしたいというので、お多佳さんのお家で舞妓の踊りでもという段取りをつけて、それには金が少し足りそうにもないので、すぐ百円ばかり送ってくれろと申して来ましたのでそれを送りました。ちょうど病気が悪くなったのはその招待の日のことで、木屋町の御池から祇園の新橋まで、俥でいらしたらというのを、道も近いことですから歩いて行ったそうですが、だんだんお腹がいたみ出したのを、初めはどうやら我慢に我慢していたものの、しまいにはやりきれなくなって臥せってしまったのだそうです。ところがお多佳さん初め他の人たちも、そんなことには出会したことがないのでびっくりしてしまって、じっと様子を見ると夏目の臥せっている様子たらないのだそうです。というのは、苦しいので物をいうのもいやなので、黙りこくって、額に玉の汗をいっぱいかいて、それが息もせずに苦しそうにねているので、死んだんじゃないかと思って覗き込んでは、みとっていたそうですが、さて様子を見てると、なおりそうにないどころか、ますますいけなくなる一方のように見受けられるので、私から来てもらおうかどうかという相談です。するとそれを小耳にした夏目が、なにも家内なんか呼ぶことはないからやめにしてくれろと申すのだそうです。なぜと申しますと、私がやって来て、またお悪いんですかとか何とかいうと、それだけでぞっとするとか、やりきれないとかいうんだそうです。が、そんなことをいってられないほどどうも様子が悪い。このままにしておいて、もしものことがあってはというので、そこで夏目が怒ったら怒ったで責任は自分が負うというので、津田さんが私のところへ電報を打って来られたのだそうです。(夏目鏡子「漱石の思い出」)

4月2日

朝、鎮子夫人京都着、病状を聞く。

青楓の案内で鎮子夫人は大極殿、知恩院、清水など見物する。夜は青楓が芝居に案内するというので、北大嘉の女中のお梅さんに早い夕食をたのんだところ、漱石に「病人をおっぽり出して昼間ぶらぶら出あるいて、まだ芝居に行くのか」としかられる。


私が行った時には、大友(お多佳さんの家)から宿へかえって臥せっておりましたが、いつもの病気でたいしたこともない様子で、まあまあと一安心しました。そこへまた皆さんがお見舞いを兼ねて来てくださいます。なかなか賑やかなことでした。

 病気は例によって例のとおりなもので、落ちつくとだんだんよくなりましたが、それからというものは、ずっと床の上にねたり起きたりして、自然に癒るのを待っておりました。べつにむずかしい本を読むでなし、自分でもたいへんゆうゆうとした気持ちで、少しよくなってからは、床の上にすわっては、よく絵を描いたり、俳句を短冊に書いたりしておりました。画帖なんぞもだいぶ持ち込まれて、自分では暇なものですから、手当たりしだいによごして行くといったぐあいでした。(夏目鏡子「漱石の思い出」)

 

この時の滞在は先生の病気が再発して、意外に長引いたけれども、一時心配した程の危機は去って漸次快方に向われた。ある日大嘉の次の間で東京から看護に来られた奥さんと津田と三人で、すしか何かを食べていたら「皆何を食っているのか、おれにも食わせろ」といってどなられたので、奥さんがしぶしぶ煎餅を半分病床に持って行かれた。すると、「半分はひどい、せめて一枚くれ」という調子で、一代の文豪も病気にかかっては子供のように意気地がなかった。(西川一草亭「漱石の書と花の会」)

つづく

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