〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳①〉
漱石の、特にその後半生は、持病の神経衰弱と胃潰瘍との闘いの日々であった。
朝日入社後、漱石は明治40年『虞美人草』、同41年『三四郎』、同42年『それから』、同43年『門』と次々に作品を発表してゆくが、その陰で繰り返し起こる神経衰弱と胃潰瘍に責め苛まれていた。
『門』執筆中に大量の吐血をして長与胃腸病院に入院し、その後、修善寺温泉に転地療養するが、そこで更に大吐血し一時危篤状態に陥る(漱石の修善寺大患)。
その後、明治44年『彼岸過ぎまで』、大正元年『行人』『こゝろ』、大正2年『道草』など、生と死の苦悩を描いた小説を発表し、大正4年『硝子戸の中』完成後再び大吐血をする。また、その間に神経衰弱も悪化の一途をたどっていた。
そんな漱石の姿を見かねた妻鏡子は、漱石を慕う弟子で京都在住の画家津田青楓に、夫が気分転換を図れるよう京都を案内してもらえないかと、内密に相談を持ち掛ける。
津田青楓は、漱石が日本画を描くに当たって相談相手になり、漱石の心酔者であった。その津田青楓が故郷である京都に住居を移したこともあって、漱石の保養を兼ねた旅が実現した。
青楓は、鏡子の依頼を受けて漱石に京都訪問を誘う。
漱石も青楓の誘いに心が動き、3月9日には青楓に宛てた手紙に、
「御安着の由結構です。僕も遊びに行きたくなった。小説は四月一日頃から書き出せば、どうか間に合うらしいのです。それでその前なら少しはひまも出来ると思います。まだ是非行くとまでは決心もしていませんが、大分心は動いているのです。しかし行くとすれば、矢張り京都のどこかへ宿をとって、そうして君の宅へ遊びにでも出掛る訳になるのでしょうか。そんな点について、もし君の心に余裕があるなら注意してくれませんか。僕は京都に少々知人があるが、大学の人などに挨拶に廻るのも面倒だから、人に知られないで呑気に遊びたいのです。その辺は御含みを願いたいのです。まだはっきりともしないのに、既に取極めたようなことをいって、自分でも変です」
と書いている。
漱石最後の京都訪問は、その死の1年半まえのことである。
大正4(1915)年3月19日
十九日〔金〕 朝東京駅発、好晴、八時発。梅花的れき。岐阜辺より雨になる。展望車に外国人男二人、女五人許(ばかり)。七時三十分京都着、雨、津田君雨傘を小脇に抱えて二等列車の辺を物色す。車にて木屋町着、(北大嘉)、下の離れで芸妓と男客。寒甚し。入湯、日本服、十時晩餐。就褥、夢昏沌、冥濛。(漱石の日記)
3月19日午後7時30分、漱石は京都駅に到着。
京都駅は、大正3年(1914)8月15日、ルネサンス風建築様式による総ヒノキ造りの2階建て木造駅舎に生まれ変わり、駅前広場や噴水のある庭園も完成していた。
駅には、津田青楓が漱石を出迎えに来ていた。
漱石は、木屋町三条上ルの旅館「北大嘉」に宿を取る。
「…駅には津田青楓が出迎えに来ていた。今回の京都への旅は、実は、鏡子夫人が漱石の神経衰弱をやわらげるために、内密で青楓に依頼したものであった。青楓からの招きを受け、漱石も心が動いて、次の連載小説を書くまでの間、京都で「呑気に遊びたい」(大4・3・9付津田育槙宛書簡)と考えたのだった。三回目の京都への旅から約五年半が過ぎていた。二人は人力車に乗って、中京区(当時は上京区)木屋町三条上ルにあった旅館北大嘉に着いた。…」(水川隆夫「漱石の京都」)
3月20日
漱石は、津田青楓の実兄である西川一草亭の案内で祇園、一力茶屋の大石忌を観に行く。
一草亭はその時の漱石を次のように述べている。
「祇園の一力に大石忌があったので、それを見に行った。古風な座敷に並べた遺墨を見て、舞子の運んでくるお茶をよばれたり、庭で蕎麦をよばれたりした。帰りに「こんな茶を」よんだり、そばを食はせたり、懸物を見せて入場料を取らないのかね。京都といふ処は実に不思議な土地だ」といって驚いて居られた。」
漱石は一力で大石忌を見た後、京都見物に出かける。
「・・・三年坂の阿古屋茶屋へ入る。あんころ一つ。薄茶一碗、香一つ。木魚は呼鈴の代り。座敷北向、北の側、山家の如し、絶壁。(祇園から建仁寺の裏門を見てすぐ左へ上る)。清水の山伝 子安の塔の辺から又下る。小松谷の大丸の別荘を見る。是も北に谷、其又前に山を控へて寒い。亭々曲折して断の如く続の如く、奇なり。石、錦木を植ゑたり。小楼に上る。呉春蕪村の画中の人、腹いたし。電車にて帰る。晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す。・・・」(漱石の日記)
一力から花見小路を南に下がって建仁寺の裏門から安井北門通を東に向かい、三年坂から清水寺に向かう。
「…三人は、花見小路通を南へ歩き、建仁寺の裏門前で左折して安井北門通を通って東大路通を東側に渡り、二年坂にある阿古屋茶屋へ入った。「日記」に「三年坂」とあるのは、この店が二年坂から三年坂(産寧坂) へ出る直前に位置しているからであるが、入口は二年坂に面し、今も「二年坂阿古屋茶屋」と称している。江戸時代に清水寺への参詣人を目当てとした清水新地がこの地にあり、俗に阿古屋茶屋とも呼ばれたが、明治初年に遊廓はなくなり、そのうちの一軒が阿古屋茶屋として名をとどめたのである。三人は、ここで抹茶にあんころ餅を一つ食べた。…」(水川隆夫「漱石の京都」)
〈漱石と磯田多佳の出会い。「晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す」〉
一力茶屋の女将はお茶屋「大友(だいとも)」の姉娘であり、そしてその妹娘が磯田多佳であった。
漱石は、津田青楓の実兄・西川一草亭という案内人によって、賀茂川べりの旅館「北大嘉」に滞在し、川向こうのお茶屋「 大友」の女将である磯田多佳と付き合うことになる。
この時、漱石は48歳。多佳36歳。
多佳は10年前に芸妓を止め、浅井忠の依頼により浅井の経営する陶器店「九雲堂」を手伝っていた時代がある。多佳はその店で自ら絵付けをして出来た湯飲みを漱石へ人づてに贈ったことがあり、漱石のほうでは自分の愛読者たちが当時から京都にいることを日記に書いている。
浅井忠は漱石の英国留学時代に付き合いのあった洋画家であり、浅井を会して漱石と多佳は全くの無縁の間柄ではなかったといえる。
この当時、多佳は母の経営するお茶屋「大友」を継ぎ女将となっていた。かねてからひそかに尊敬し愛読していた文豪の上洛で、津田青楓の仲介により漱石が宿にしていた北大嘉で、多佳へ声がかかった幸運を多佳は感激した。
津田青楓『漱石と十弟子』に記されたその時の様子。
廻り縁の角のところへ鏡台を持ち出して漱石先生は髯を剃っていられる。津田は座敷で新問を読んでいた。そこへお梅さんが、
「お多佳さんがお出でやしたわ、津田さん」
津田は先生の方ヘ
「お多佳さん御存知なんですか、先生」
「お多佳さんて言うとあの文学芸者かい。ーーSさんが知っているんで、漱石が京都へ行くとでも言ってやったんだろう。津田君も知っているのか」
「ええ知ってます。通しますか」
「うん……」
お梅さんは、階段をとんとん下りて行ったが、やがてお多佳さんを案内してきた。
漱石先生は髯をそりながら、鏡にうつるお多佳さんの横向含の姿を眺めていられた。
津田はいつとはなしに多佳女とは知り合だった。狭い京の町では文学者や画家や俳人という社会の人間の行くところには、彼女も顔を出すことが多いので自然と知り合いになっていた。津田が個人的につき合ったのは日露戦争の始ったころで、彼女はある土木業者にひかされて、岡崎町のあたり白川の流に沿った東山が手のとどくところに、舟板塀の家をこさえてもらって住んだ。ちょうど、その頃津田は兵役を終えて住んだ家が、彼女の舟板塀の目と鼻の間にあった。それで自然と遊ぴにいくようなこともあった。でも、その頃の津田は彼女から言えばまだ子供であり、本当の彼女の遊び友達は、津田の先生に当る浅井忠とか中沢博士とか池辺とかいうような大人の風流人だった。彼女は舟板塀の主人公にはふさわしからぬ器拭で白粉気も何もなく、木綿着で立ち働いていれば婆やと見まがう程であった。その代り彼女には他の芸者衆の持っていない趣味と思想があった。彼女はお寺好きだった、と言っても本願寺とか智恩院という信心を対象とするお寺参りではなく、西芳寺の庭がいいとか、光悦寺は鷹ヶ峰が紅葉の間から見られて画の様だとか、詩仙堂はソーズ(かけひ)の音が閑寂でたまらないとか、言わば閑寂な景勝地としての埋れたる寺や祠が好ぎだった。その上俳句を語り古美術を談じたりするので、器量よりも話相手の芸者として、金のない文人画人風流人に知己が多かった。そしてまた彼女は河東節、一中節という古典音曲が得意だったので、趣味のない金で遊ぶ商人や相場師なぞには向かなかった。浅井忠氏が彼女の舟板塀にしばしば出入りしたのも、他ではきかれない一中節や河東節を聞く為の様だった。
多佳「夏目さん、えらい粋なとこへおこしやしたなあ」
漱石「津田君が世話してくれたんだ」
多佳「津田さんえらいわ。ええとこ知っといやすなあ。」
津田「兄と母が相談してぎめてくれたのです。」
多佳「ああそうどすか。西川さんしばらく逢いまへんなあ。」
漱石「お多佳さんへ僕のことはSさんが知らしてよこしたんでしょう。」
多佳「ええ、Sさんええお人どすな。あの方東京へゆかはりまして寂しおすわ。おとなしいええお方どすえな」(津田青楓『漱石と十弟子』)
この紹介者のSさんというのは、芝川照吉という人で、妻・鏡子の『漱石の思い出』にはこう記されている。
「東京をたつ前に、もう亡くなられましたが芝川照吉さんから、京都へ行ったら祇園にお多佳さんという有名な文芸芸者がいる。今では大友というお茶屋の女将だが、このひとにぜひ会ってごらんなさいとすすめられ、自分でも興味をもっていたのでしょうが、京都へ行ってその話を西川さんにすると、すぐ呼びましょう、喜んで来るからということで連れておいでになる。話がいかにもおもしろくて、一中節などは大のお得意。そこで暇な時にはよく遊びに来てもらって、話をきいたり一中節をきかせてもらったりして相手になってもらう。いい遊び相手だったのでしょう」
多佳はこの時のことを『洛にてお目にかかるの記』に書いている。
かも川にそうた二階座敷に、先生と西川さんと津田さんと三人にて、初めてとお思われぬほど色々打とけおもしろいお話をする。ことに先生はしゃれが上手で、私二人して、無口な西川さんと津田さんをけむにまいてしまうほど酒落を言い合うた。先生の奥さんはしゃれをいう人は上調子でいけないとおきらいであるそうな、先生の笑いながらのお話ぶりが兼々思うていたように中々窮屈なところがなく、やさしい中にりんとした御気性と思われる。京へは大分長い間御越しにならなんだが、久しぶりに来て余り寒いのでおどろいたと、どうやら御風邪気の様子、先生も朝の内大石忌においでになったとやら、思わず長話をして十二時がなったのにびっくりして御いとまをつげて帰る。(磯田多佳『渋柿』大6・2)」
漱石は、機知に富んだ話をする多佳が気に入った。
つづく

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