2025年12月24日水曜日

大杉栄とその時代年表(718) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳③〉 大正4(1915)年3月23~25日 「「先生お目覚めどすか」いうて、なんの気なしにふと先生を見たやおへんかいな。そしたらこう鼻の頭から、額もびしょびしょの汗どすのや。たらたらと流れているようやおへんか。あたしびっくりしましてな、「先生! おあんばいが悪るおすか」申しましたら、「いや、なにー」いうて、両手で洗面場をつかまえて、ぺちゃんぺちゃんとそこへ坐っておしまいるやおへんかいな。さあ、えらいこっちゃ、こらどむならん、こんな所へお坐りやしたらいかんいうて、あたしが腰を持ち上げるようにして、おこたのとこへお伴れしたんどす。」

 

NHKドラマ(2016年)

大杉栄とその時代年表(717) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳②〉 大正4(1915)年3月21~22日 「電車。雨中木屋町に帰る。淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれと電話で頼む。飯を食わすために自分で料理の品を択んであつらえる。鴨のロース、鯛の子、生瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみ。御多佳さん河村の菓子をくれる。加賀の依頼。一草亭来。」 より続く

〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳③〉 

大正4(1915)年

3月23日

二十三日(火) 朝青楓来。一草亭来。(略)腹工合あしく且天気あしゝ。天気晴るれど腹工合なほらず。遂に唐紙をかつた三人で勝手なるのをかいてくらす。夕方大阪の社員に襲はる。入湯。晩食。御梅さんとしばらく話す。(漱石日記)

3月24日

二十四日(水) 寒、暖なれば北野の梅を見に行こうと御多佳さんがいうから電話をかける。御多佳さんは遠方へ行って今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれという。夕方懸けたって仕方がない。車を雇って博物館に行く。写真版を貿う。伏見の稲荷まで行って引き返す。四條通りの洋食屋へ連れて行く、まずい。四條京極をぶらぶらあるく。腹具合あしし。帰って青楓に奈良行の催促をする。晩に気分あしき故明日出立と決心す。(漱石日記)


暖かい日だったら北野天神の梅を見に行こうと多佳に誘われていた漱石は。茶屋「大友」に電話をかける。しかし、多佳は前日から加賀正太郎と宇治の浮舟園へ船遊びに出かけているという。

腹をたてた漱石は、京都帝国博物館(現京都国立博物館)にでかけ、それから伏見稲荷を訪ね、四条通りの洋食屋で昼食をとる。漱石は日記に「まずい」とだけ書いている。そして四条京極を歩くと腹具合が悪くなって来る。津田青楓に奈良へ行く約束をするが、夜になって気分がますます悪くなり、東京に帰ろうと決心する。

この日、漱石は

「木屋町に宿を取りて川向の御多佳さんに」という詞書で

「春の川を隔てて

 男女哉」

という句を読んでいる。漱石の宿である「北大嘉」から、多佳の茶屋「大友」が見え、それを隔てるのは春の高瀬川であるという。

漱石は多佳に裏切られたと思っているが、実のところそれは漱石は勘違いだった。北野天満宮の縁日は毎月25日と決まっている(菅原道真の誕生日である6月25日と死去した2月25日にちなんで)。多佳は25日に北野天満宮に行くと約束した積りだったが、京都に不案内な漱石は、24日と勘違いしていた。

漱石はこの時のことをずっと根に持っていた。

東京に帰ってから送るといっていた『硝子戸の中』が届かないと手紙をよこした多佳に、「もしそれが届いていないとするなら天罰に違いない。お前は僕を北野の天神さまへ連れて行くといって、その日断りなしに宇治に行ってしまったじゃないか。ああいう無責任なことをすると、決していいむくいは来ないものと思っておいで(大正4年5月2日 磯田多佳宛書簡)」と書いている。


3月25日 

二十五日(木) 寝台車を聞き合せる。六号。胃いたむ。寒。縁側の蒲の上に坐布団をしき、車の前掛をかけて寝る。その前青楓来。奈良行の旅費を受持つから同行を勘弁してくれとたのむ。一草亭から、蘆に雀の画(御多佳さんの持っていったの)をもらう。御多佳さんがくる。出立をのばせという。医者を呼んで見てもらえという。寝台を断って病人となって寝る。晩に御君さんと金之助がくる。多佳さんと青楓君と四人で話しているうちに腹工合少々よくなる。十一時頃浅木さんくる。二三日静養の必要をとく。金之助の便秘の話し。卯の年の話し。先生は七赤の卯だという。姉危篤の電報来る。帰ればこっちが危篤になるばかりだから仕方ないとあきらめる。

 幽霊が出る話、先生生きてて御呉れやす。(漱石日記)

 

漱石は胃痛のために寝込んでしまう。多佳が訪ねて来て、東京に帰るのを延期しろと言う。その夜、漱石ファンの金之助ときみが訪ねて来る。話しているうちに、胃の調子が落ち着いて来た。異母姉、高田房の危篤の電報を受け取るが、帰京すればこちらの命が危いのであきらめる。


昨日おとといと、二日宇治に行きしため、先生をおたずねせず、どうしておいでやらとひるすぎ大嘉へゆく。まださむけれど、二十日よりは日に日に少しあたたかくなった様なり。先生は南向の方の縁側へ横になり、だまって寝ておいでになり、津田さんが先生には一昨日より御気分わるく、今夜の汽車で東京へ帰るとおっしゃるゆえ何とかしてとめてくれとなり。大分お顔色もわるく、昨日より何もあがらぬため、元気なさそうにて、もしやお帰りの途中にて悪うなっては難儀なり。津田さんも心配なされるゆえ、どうぞ二三日待て少しでもお快うなってからと、色々言葉をつくしてお止めせしに、二日も訪うてくれぬから淋しさにこんなにわるうなったなどと、苦しい中から冗談口をおききになる。

先生のお笑いになる時、少し口をゆがめて目尻に皺をよせて、軽うお笑いになるのがまたなく、なつかしい。ようやくお帰りもお見合せになり、浅木さんというお医者さんをよぶ。このまま、二三日静にしておいでになる方がよいといわれる。そして、浅木さんも先生崇拝家にて、これまでお書きになったものなどの話をして帰えらる。お病はやはり御持病の胃が悪いそうな。さむさがあたったのであろうか。(大正4年3月25日 磯田多佳「洛にてお目にかかるの記」)

あけの日は、ちょうど中村楼へ宴会に行っていましたけど、会がすむとすぐお君さんを誘うて、合乗りで大嘉へ押し掛けたんどっせえ。なんぞお土産でもいうて、お菓子もけったいなさかい、鳩居堂で梅が香を買うて大嘉の玄関へ押し掛けて行ったんどす。ちょうどまたお多佳さんが行ってはりましたよって、一寸下へ呼んでもろて、お君さんと二人で、声だけけでもだんないさかい、聞かしておくれやすいうて頼んだんどすわ。そしたらお多佳さんが二階へお上りて、先生にお都合を聞いておくれやしたんどす。そして上ってもだんないいうことどっしゃろ、あたし襖の此方から「えろうあっかましおすけど、どうぞお目にかからしとくれやっしゃ」というて、やっとお座敷へ這入りました。あの時は先生と津田さんと、お多佳さんの三人ぎりどしたわ。こう床の間の柱にもたれておいやした先生が、さあ、ずっとこっちへいうて、近う寄ってもだんないいう意味で、やさしゅういうとくれやした時には、勿体のうて、胸がどきどきしてなんにもいえしまへんのやがな。その初対面の時の感じが、日本語の上手な西洋人のおじいさんちう感じどっしゃろ、うれしおしたえ。ほんまにあんなうれしかったことて知りまへんえなア。そしてその時の話が、どだい下品な汚ないことばっかりどしたわ。初対面もなにも、そんな角張ったことは抜きで、何やら話のつづきから先生ちうたらこうおいいやすの。おいどの穴が乾いたら、ほろほろ粉が一落ちるおいいやして、金ちゃんもそうやないか、おいやすのどっせ。へえ、まあそうどっせえなア。こうあたしもお返事せんなりまへんやろ。先生とは初めから、そんな風でお目に懸って来たんどす。

もうお座敷へ出ましてもな、辛気臭うてどむなりまへんがな。このお客さん、はよ、いなはらんかいな。そんなに何遍おもたか、しれまへんえ。三十分でも大事おへんのや、一寸お顔が見たいおもて、まるで間夫(まぶ)にでもあいに行くように、お座敷をそこそこに切り上げたもんどっせえ。

その晩はこわい話ばっかりしましてな、とうとう、先生が幽霊ちうもんはあるおいいるやおへんかいな、こんなえらいお方がおいいるのどすよって、ほんまにあるもんかしら思いましたえ。先生とお君さんとあたしが、こう膝を突き合して、夜通しそんなこわい話ばっかりしたんどす。よう覚えまへんけど、そんなお話の中ででも、たんとええことを聞かしておくれやしてな。まあその晩はそんな訳でおそなりましたよって、あたしだけ大友へ泊りました。先生は下の六畳でお寝みやしたわ。朝になって御飯のお給仕をしようおもて、もう三畳の間には御所どきの縫い模様のひわと紫のだんだんのおふとんで、ちゃんとおこたが出来ておしたよって、洗面所においる先生をお迎えに行ったんどす。

「先生お目覚めどすか」いうて、なんの気なしにふと先生を見たやおへんかいな。そしたらこう鼻の頭から、額もびしょびしょの汗どすのや。たらたらと流れているようやおへんか。あたしびっくりしましてな、「先生! おあんばいが悪るおすか」申しましたら、「いや、なにー」いうて、両手で洗面場をつかまえて、ぺちゃんぺちゃんとそこへ坐っておしまいるやおへんかいな。さあ、えらいこっちゃ、こらどむならん、こんな所へお坐りやしたらいかんいうて、あたしが腰を持ち上げるようにして、おこたのとこへお伴れしたんどす。そして、どないどすいうて、なんぼお聞きしても、何もおいいやしまへんやろ。心配どすがな。そしたらやっと、津田を呼んでくれおいいやすよって、大亀谷にいやはった青楓さんへ、直ぐに使いを上げたんどす。その日は生憎、あたし弦声会の稽古でな。仕様がおへんさかい、ちょこちょこと稽古に行って来て、先生のとこへ大急ぎで帰って来たら、ええ工合に津田さんがおいでやした。あの時はあたし、きつうお多佳さんに怒られましたわ。あんたが夜通しして饒舌(しゃべ)るよってやいわれた時には、心配で心配で、もしものことでもあったらどないしよう、ほんまに、いても立っても堪りまへなんだ。(梅垣きぬ「漱石先生」)

 

梅垣きぬは、金之助という漱石の本名と同じ源氏名の芸者。芸者の野村きみ(通称お君さん)とともに大の漱石好きで、京都に来ていることを聞き及び、会いたいと多住に伸介を頼みに押しかけてくる。


「中村楼」は八坂神社の鳥居のうちにあり、その創業は室町期と伝えられる。当初は門前の水茶屋を営んでいたが、やがて豆腐料理や、菜飯、酒を供するようになり、江戸末期には京都屈指の料理茶屋となった。もともと、八坂神社には参道を挟んで、藤屋と柏屋という2軒の茶店があり、藤屋は明治維新後に廃業となったが、柏屋は時代の風雪に耐えて中村楼となった。


つづく



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