2025年12月13日土曜日

大杉栄とその時代年表(707) 1907(明治40)年2月23日 有島武郎、ロンドンでクロポトキンを訪問 クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。

 

有島武郎

大杉栄とその時代年表(706) 1907(明治40)年2月18日~22日 「日本社会党の大会が終ると早くも二月二十日、前日発行の『平民新聞』に掲載された大会の決議、及び幸徳秋水の演説は新聞紙条令第三十三条に違反するとして発売頒布を禁止された上、裁判所に告発された。超えて同二十二日、社会党大会の決議が「安寧秩序に妨害ありと認むる」として、内務大臣から日本社会党禁止の命令が発せられた。」(続平民社時代) より続く

1907(明治40)年

2月23日

有島武郎、再度クロボトキン家を訪ねる機会がなく、この日、ロンドンで乗船、日本に向かう。地中海を経て、3月7日ポートサイド、3月21日コロンボ着。彼は毎日トルストイの「アンナ・カレーニナ」の英訳を読みつづけていた。


〈有島武郎のクロポトキン訪問(日本文壇史より)〉

有島武郎は、パリで壬生馬と別れて、1月17日にロンドンに向う。このとき、武郎は数え年30歳、壬生馬は26歳。

武郎はロンドンにクロボトキンが流寓生活を送っているのを知っていて、彼はクロボトキンの愛読者だったので、できればクロボトキンに逢いたいと思っていた。彼は、クロボトキンの自叙伝「回想記」を読んで圧倒されていた。


「この時代、ロシアの無政府主義者クロボトキンが西ヨーロッパの思想界に与えていた影響は、トルストイと並んで、極めて大きなものがあった。彼の思想の核心は、ダーウィンの学説なる生物界の競争による自然淘汰に対して、生物学的に反証を提出したところの相互扶助論であった。クロボトキンは一八四二年に生れた。貴族の出で、幼年時代から近侍としてロマノフ朝の宮廷に入り、皇后の膝で眠ったりすることもあり、皆に愛される美しい少年であった。国家の役に立つことを心から考える純真を青年として、彼は近衛士官学校に学び、自ら進んで東シベリアのイルクーツクの兵営に入った。そこで彼は、クーケルという将軍の副官になったが、このクーケルは革命的な自由思想を持った人物であり、彼はその影響を受けた。監獄制度、流刑制度などの改善に心を傾けたが、シベリアでそのような善意が実現する機会はなかった。

クロボトキンは、一八六八年、二十六歳の頃に軍籍を脱し、ぺテルブルグ大学の物理数学科に入って、五年間学究生活を送った。彼は地質協会の有力な学者と目されるようになり、フィンランドに探検旅行をした。その経験で、極北地方における動植物界の相互依存的な生活状態を知り、自由競争を前提とする十九世紀の社会思想を否定するという思想的な自覚を彼は抱くに到った。また彼は富裕を貴族なので、しばしば社交界に出入していたが、ある冬の夜舞踏会が終って外に出ると、馭者が吹雪の中で眠っているのを見た。そのことが彼の生活についての直接の反省を生むきっかけとなった。そして一八七二年から、当時のロシアにおける革命運動の中心であったチャイコフスキー団の一員となった。彼はその財産を放棄し、社会主義者の結社であるインターナショナルに加わって、西ヨーロッパを旅行し、その一地方支部員として労働者の間に混り、実践運動に入った。やがて彼は捕えられて二年間獄中にいたが、脱獄を試みて奇蹟的に成功し、一八八六年にイギリスに亡命したのだった。イギリスに来てから彼は、インターナショナルから分裂したバクーニン一派の無政府主義者の作った社会民主同盟に加わっていた。」(『日本文壇史』)


武郎は、自分の経歴の中に、クロボトキンと通じるものがあるのを感じた。彼は、札幌農学校に学び、自然科学の世界にも親しんだこと、海外に出て社会主義に関心を持つようになったこと、貴族でないにしても、富裕な家の出で、自分の受け継ぐ財産についても考えねばならぬことなどによるものだった。日本にいたとき皇太子の学友として赤坂離宮にしばしば行き、成年になってから輔導役になるように勧められたことすら、一脈クロボトキンの少年時代に通じていた。また彼の中にあるキリスト教の考え方からすると、共産主義よりも、生物界の秩序に相互扶助的な力が働いているとするクロボトキンの思想が受け容れやすかった。

2月、武郎は、ロンドン西方郊外にいるクロボトキンにあててお目にかかりたいという手紙を出すと、次の月曜日に待っているとの返事があった。たまたまその日は武郎の都合が悪く、1日前の日曜日に彼は勝手に出かけた。

武男はロンドンから汽車で20ほどの町へ下り、逢う人ごとに道をたずねてようやく捜し出したクロポトキンの家は、三軒続きの貸家らしい石造の家の右端にあった。クロポトキンは、その夫人・娘と住んでいた。招き入れられた部屋は、入ってすぐの、往来に面した細長い客間であった。家具も粗末で様式の統一もなかった。マントルピースの上には、トルストイとドストエフスキーの写真が置かれていた。壁に掲げられた写真はブルードン、バクーニン、ブランデスなどで、ブルードンのような故人を除いて大部分の写真には、それぞれその人からクロボトキンあての献辞をサインしたものであった。

クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。

武郎は、自分はひどい臆病者で、思想的には暗中模索をしており、精神的には乞食のような存在であると言った。クロボトキンは好意のある微笑をしなから、武郎を慰めた。クロボトキンは、自分は自分の主義に専心しているのだからと言って、日本における社会主義運動のことをたずねた。有島は知っているだけのことを説明してから、「相互扶助論」について疑問の点をたずねた。

クロボトキンは、武郎を二階の書斎(四方の壁が天井まで本で埋められている陰気を広間)に連れて行き、説明しはじめた。聞いているうちに武郎は、自分の境遇も、自分が日本人であることも、ここがイギリスであることなどすっかり頭から去って、ただ年とった親の膝下でその話に耳を傾けている小児のような気特になった。彼は、クロボトキンの書物で読んだ「未だ人間というものの運命について深く考えもせず、激しく働いたこともないものが、私の説の当否を論ずることはできない。そういう人間は 赤面して沈黙すべきだ」という言葉を思い出した。

クロポトキンは自著「Fields, Factories and Workshops」に署名して武夫に与え、日本に帰ってから自分の著書を翻訳しようと思うなら、君にその許可を与えようと言った。

昼食後、「ロシアの文学のことが話題になり、武郎がトルストイについて意見を武郎が求めると、クロボトキンは、自分はトルストイと兄弟にも劣らぬ親しい間柄だが、自分の最も共鳴するのは彼の壮年時代の思想である。彼は大分年をとって、その信仰に曖昧な神秘主義が混って来たのか残念だ、と言った。」(『日本文壇史』)

2時頃になり、武郎は暇を告げた。クロボトキンは、送って出て、今度は君をロンドンの自分たちの仲間のクラブに連れて行ってあげよう。もっと色々なことを君はそこで知ることになるだろう、と言った。


2月23日

麒麟麦酒設立

2月23日

日清豆粕製造株式会社設立。

2月23日

明治屋社長米井源治郎ら、ジャパンブリュワリー買収。麒麟麦酒株式会社設立。本社横浜。


つづく


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