1907(明治40)年
3月26日
貴族院政談集会への婦人の参加を否認。
3月26日
(漱石)
「三月二十六日(火)、池辺吉太郎(三山)を訪ね、京都行の挨拶をする。池辺吉太郎からの手紙は、「昨日は御来駕被下候處なんの風情もなく汗顔之至り〔に〕候大阪之方延引、確定は京都御滞在中と可相成見込に候、御断旁御含迄早々如此に候」
三月二十七日(水)、橋口清(五葉)から、インキ壺の模様を描いて、それに漢字を書きたいが、何か良い文面はないかという相談を受け、王維の「目落江湖白潮来天地青」か杜少陵の「石䦨斜點筆桐葉坐題詩」などどうかと思うが、明朝京都に出発するので良い句も題も浮ばぬ、ことによれば、京都から連絡する、と橋口清宛手紙に書く。
三月下旬(三月二十八日(木)以前)、森田草平に、駒込の大観音(光源寺)(天昌山松翁院 浄土宗 本郷区駒込蓬来町六十二番地、現・文京区向丘二丁目三十六番二十二号)の近くにある天台宗大学(本郷区駒込林町二百三十六番地、現・文京区千駄木五丁目六番)内天台宗東部中学(現・駒込高等学校、森田草平より一年先輩の松浦一勤務)の英語教師として勤めないかと勧める。一週六時間、月給二十円。(四月から勤める)
三月下旬(三月二十八日(木)以前) (不確みな推定)、松根東洋城来て、一緒に謡をうたう。八波則吉、上京し訪ねて来る。東京帝国大学を辞め、朝日新聞社に入社したことを抗議する。『野分』の先生と奥さんの対話を賞めるので、イギリスの小説(推定)から真似たことを告げる。頼まれて絹張りの扇に、「釣鐘のうなる許りに野分かな」と書く。」(荒正人、前掲書)
3月26日
ルーマニア農民4,000人、ブカレストへのデモ行進を企て。戒厳令が発令。軍により鎮圧。
3月27日
樺太における租税に関する法律公布。4月1日、施行。戸数割、営業税、雑種右税に限定。
3月27日
山口孤剣「父母を蹴れ」(日刊『平民新聞』59号)。家族主義道徳非難。
4月13日、山口禁固4ヶ月、編修発行人石川三四郎6ヶ月、同紙発行禁止の判決。
3月27日
東京、満州興業株式会社設立。
3月27日
仏、労働審判所法制定。
3月28日
漱石(40)、京都へ旅行のためこの日朝8時、新橋発。4月12日、帰京。
「三月二十八日(木)、仏滅。午前八時、新橋停車場を(神戸行最急行)一等で出発する。午後七時三十七分、七条(京都)停車場に到着する。狩野亨吉・菅虎雄の出迎えを受ける。三台の人力車を連ね、狩野亨吉の家(京都市外下加茂村四十八番地下加茂神社墳内、現・京都市左京区泉川町)に向い、京都に滞在している間、宿泊する。(小宮豊隆、留守宅に泊る。)
三月二十九日(金)、京都帝国大学(左京区吉田町)を訪ね、図書館と尊攘堂を見る。桑木巌翼・狩野直喜・伊津野直に逢う。「あづまや」(西洋料理 二条橋詰)で昼食をする。(推定)祇園・円山公園・知恩院・清水寺その他を訪れる。大阪朝日新聞社の社主村山龍平から池辺吉太郎(Ⅲ山)に、東京朝日新聞社に漱石入社の件について承諾の旨、通知あり、最も厄介に思われていた京都または大阪への移住はしなくてよくなる。但し、まだ漱石はこのことを知らぬ。池辺吉太郎(三山)からの手紙は、「本日大阪より来書あり改めて東京朝日に御入社を乞ふ事と相成候、願つたり叶つたり此にて確定仕度御異存有之候へば直に御一書奉希候」。
三月三十日(土)、午前、詩仙堂・銀閣寺・真如堂などに行く。
三月三十一日(日)、朝、鳥居赫雄(素川)の発案で大阪朝日新聞社に招かれようとしていたことを初めて知る。狩野亨吉の家に、鳥居赫雄訪ねて来る。高浜虚子(恕町区富士見町四丁目八番地、現・千代田区富士見)に、大谷句仏(光演) への紹介状を頼む手紙を響く。」(荒正人、前掲書)
3月29日
静岡県138銀行、東京支店支払停止。
3月31日
クロポトキン(大杉栄訳)「青年に訴ふ」(「日刊平民新聞」第63号)。
4月1日、発売頒布禁止・差押え処分。訳者大杉・署名人石川・印刷人深尾、起訴。
3月31日
米軍、ホンジュラスに上陸。
つづく

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