2025年12月6日土曜日

大杉栄とその時代年表(700) 1907(明治40)年1月1日~15日 「明治四十年一月十五日、日刊『平民新聞』は産声いさましく誕生した。足かけ四年前の明治三十六年十一月十五日、日露戦争の開始を目前にして日本の歴史上に初めて戦争反対の叫びを掲げた週刊『平民新聞』の発行を見たのであるが、その英文欄には「機運が之を要するに至らば、吾人は近き将来に於て日刊新開の発行を期待する」と明記されていた。今や実にその期待が実現され、そして日刊の『平民新聞』が呱々の声を揚げたのである。」(『続平民社時代』)

 

竹内兼七

大杉栄とその時代年表(699) 1907(明治40)年1月1日 泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載) 「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史) より続く

1907(明治40)年

1月1日

『家庭雑誌』(5巻3号)発行

大杉栄(22)「飼猫ナツメ」掲載

1月1日

『簡易生活』(3号)発行

大杉栄(22)「大儒ダイオゼニス」"

1月1日

山岡荘八、生まれる

1月1日

永井荷風(28)、正月よりメトロポリタン歌劇場にてカルメン、ジークフリート、ロメオとジュリエット、椿姫を見る。マンハッタン歌劇場にドン・ジュヴァンニを聴く。 

1月1日

レオニード・ブレジネフ、ソビエト連邦書記長(~ 1982年)生まれる

1月3

林外相よりサンフランシスコ日本領事上野季三郎へ「革命」事件詳細報告訓令。上野領事はオーバースローを「殲滅」と訳し報告

4日、日本政府、「革命」の国内及び植民地での発売頒布禁止告示。警視庁スパイが幸徳秋水を訪問し探りを入れる。

1月3

大杉栄(22)「エスペラント語講義第五回」(『語学』)

1月3

「革命」署名人竹内鉄五郎、移民局から呼出し、アメリカ社会党首領オースティン・ルイスと出頭。オーバースローは転覆であり暗殺ではないとして、無罪放免となる。連邦最高裁判事も、冷静な談話を発表し、世論も沈静化。

1月5

『日本エスペラント』の表紙を大杉栄(22)が講師をした「エスペラント語学校第一回卒業生及講師」の写真が飾る

1月6

(漱石)

「一月六日(日)、夜、伊津野直宛手紙に、昨年末から正月にかけて、来客多く、移転後の片付けもあり、仕事も滞っているのに、何もしないで休暇が明けようとしている、と書く。」(荒正人、前掲書)

1月6

大杉栄(22)、上司小剣から葉書を受け取る。

7日、大杉、上司小剣に手紙を書く

1月6

マリア・モンテッソーリ、ローマで労働者階級の子供のために彼女の最初の学校およびデイケアセンターを開く。

1月8

津田梅子、病気療養のため渡米。

1月8

ペルシャ国王モザッファロッ・ディーン・シャー、没。子のムハンマド・アリー、即位。

1月10

南商会、長野県諏訪湖氷滑場開場。榛名湖は1912年2月開場。

1月10

(漱石)

「一月十日(木)、木曜会。高浜虚子・坂本四方太の向うを張って、写生文論を話す。

-月十二日(土)、森巻吉宛手紙で、『呵責』(『帝国文学』一月号)批評する。

一月十三日(日)、午前十一時半、森田草平・鈴木三重吉と落合い、九段能楽堂に『隅田川』を観に行く。」(荒正人、前掲書)


1月10

露、トロツキーらの北極圏への移送始る。トロツキーは露暦16日、未決拘置所から中継監獄に送られる。流刑地はオブドルスク村。トロツキーは流刑地に行く途中から脱走。ウィーンへ。

1月11

堺利彦、1週間紀州新宮に出かけ大石誠之助・西村伊作に日刊「平民新聞」発行のための金策依頼。

1月11

山岡荘八、誕生。

1月11

独・デンマーク、両国の国境沿いの住民にいずれかの国籍を保証されると発表。

1月12

大杉栄(22)、神田の学士会事務所で開かれた日本エスペラント協会東京支部の1月例会に参加。参加者約15名。前年ジュネーブで開かれた第二回世界会議決議に基づいて東京支部に「東京エスペラント領事館」を創立することが決められ、千布利雄とともに副領事になる。領事は安孫子貞治郎。

1月13

石阪昌孝、東京市牛込区北町35番地の僑居にて没。帰国中の公歴との「対顔」が実現し一家が喜んで「談笑中、君卒然トシテ到レ」た。

1月13

在米日本人の社会革命党、バークレーで臨時総会。党内に「革命社」組織。

1月14

清国、長春・吉林・ハルビン・斉斉哈爾・満州里を開放。

1月14

呉海軍工廠で巡洋戦艦「筑波」竣工。13,750トン、国産12インチ砲装備。初の国産装甲鑑。

1月14

ジャマイカで大地震。死者数百人、数千人家を失う。

1月15

日刊『平民新聞』創刊

「光」・「新紀元」廃刊し統合。幸徳「宣言」、荒畑「舞ひ姫」、山川「前半身に対す」。小川芋銭挿絵。社員24名。出資30名。資金不足で5日間休刊、第2号は20日の刊となる。4月14日、第75号で廃刊(3ヶ月)。

「二六新報」「万朝報」と同じタブロイド判で4頁。第1号に記載された発行兼編輯人;石川三四郎、西川光二郎、竹内兼七、幸徳伝次郎、堺利彦。その目標として、「天下に向って社会主義思想を弘通し」、「世界に於ける社会主義運動を応援する」にあるとの標語を掲げる。

大杉栄(22)「『ル・レヴォルテ』発刊の記(クロポトキン)」掲載

「明治四十年一月十五日、日刊『平民新聞』は産声いさましく誕生した。足かけ四年前の明治三十六年十一月十五日、日露戦争の開始を目前にして日本の歴史上に初めて戦争反対の叫びを掲げた週刊『平民新聞』の発行を見たのであるが、その英文欄には「機運が之を要するに至らば、吾人は近き将来に於て日刊新開の発行を期待する」と明記されていた。今や実にその期待が実現され、そして日刊の『平民新聞』が呱々の声を揚げたのである。

『日刊平民』の創刊号は、花束を抱えた女神を背景にして右手にソシアリズムと記した長旈、左手に炬火をかざした蓬髪半裸の若者が、労働者の群にかこまれて崖上に立っている小川芋銭の挿絵と、「鶴鳴于九皐、声聞于天」という幸徳秋水の題字が、いかにもよくその意気抱負を象徴していた。その第一面冒頭の「宣言」は例によって幸徳秋水の筆になるもので、まさに初陣の若武者が凛々しい勇姿を想見させるに足りた。」(荒畑『続平民社時代』)


「『平民新聞』にはロイテル電報なく、海外特電なく、輪転機もなく、初め噂にのぼった『読売新聞』の上司小剣の入社も結局は実現されなかった。新開編集の玄人といっては堺、幸徳の二人ぐらいなもので、他はみな素人ばかりだった・・・編集室が、新聞社と言うよりも寺小屋と言う方がピッタリした。それは記者一同、畳の上に坐っておのおの小机を控え、おまけに原稿紙に毛筆で記事を書いていたからで、万年筆を用いていたのは主筆格の幸徳秋水と、秋水からアメリカ土産として贈られた編集局長格の堺利彦だけだった。

堺は『平民新聞』の毎号に「平民日記」と題する短文を発表していたが、ある日の記事に外で恐ろしい音がするから何事かと飛出して見たら、例の自動車というヤツだと書いていた位で自動車がまだ珍しかった。『朝日新聞』の大を以てしてなお且つ記事に写真版が入っていることは稀で、大相撲の記事は粟島狭衣が書いていたが取口は現今のような写真版でなく、鮱崎英朋の木版画であった。そんな時代であるから、著者の月給は大枚金十五円、山川均にしても二十円か二十五円、月末には電車賃が無かったという程度の高給であった。それ故誰しも文字通りの腰弁で、堺の弁当はブリキ製の四角い弁当箱に黒豆の煮たのが副食だった。幸徳と山川とはいつも食パン半斤に白砂糖少々で金三銭也、著者は石川から教えられて飯だけを持参し一杯三銭の「うどんかけ」をおかずにした。」(荒畑『続平民社時代』)


〈社員24名の部署〉

庶務会計部:幸徳伝次郎(主任)、村田四郎(会計)、森近運平(売捌)、椎橋重吉(広告主任)、斎藤兼次郎(発送)、神埼順一(同)、宇都宮卓爾(同)、矢木健次郎(発送集金)、吉川守圀(広告)。

編集部:赤羽巌穴、石川三四郎、西川光二郎、岡千代彦、原霞外、幸徳秋水、山川均、荒畑寒村、堺利彦、深尾韶、山口孤剣、小川芋銭、岡野辰之助(校正)、徳永保之助(同)、百瀬晋(給仕)。

山川均:

守田有秋と共に発行していた小冊子「青年の福音」記事で不敬罪により3年6ヶ月巣鴨監獄の入獄。出獄後、郷里倉敷で暮らす。日刊「平民新聞」に招かれ入社。木下尚江:「新紀元」からの不参加者。人はキリスト教と社会主義と「二人の主に仕ふる能はず」と伊香保山中「一小天地に隠れ」る。

竹内兼七;

青森県弘前市の富豪で西川光二郎と親しく、この日刊紙の主なる出資者たることを承諾した人物。

前年、明治39年初夏、西川光二郎等が兇徒嘴嘨集事件で投獄されていた頃、青森県弘前市の年若い富豪で、社会主義者であった竹内兼七が、西川、大杉、吉川等投獄された人々に見舞金を送った。また竹内は上京して獄中に西川を見舞った。そして西川に、集まった見舞金の外に自分も資金を出すから、月刊の「光」を週刊にして出してはどうかとすすめた。西川光二郎は出獄後、このことを堺に相談した。堺はそれを幸徳に伝えた。幸徳は自分たちの新聞を持ちたいと思っていたので、この話に乗気になった。その結果、堺、西川、幸徳、竹内4人の会見が行われた。3人は、竹内が出資するなら日刊の新聞を出したい、と申し出て、それを竹内が承知してこの話はまとまった。

社会党直系の雑誌としては、発刊後それぞれ1年近くなる「光」と「新紀元」があった。ともに週刊「平民新聞」と週刊「直言」の崩壊のあとを受けて出ていたものであるから、いま日刊「平民新聞」を出すとすれば、この二つを吸収統一して、運動を一本にする必要があった。

「新紀元」は主筆木下尚江、編輯安部磯雄、発行兼編輯人石川三四郎であり、3人とも強くキリスト教の影響下にある人物であった。それ故この雑誌は、平民社系の中のキリスト教社会主義を代表するものと見られ、堺や幸徳に近い西川光二郎と山口孤剣の「光」とは違う色彩を見せていた。

つづく


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