2025年12月21日日曜日

大杉栄とその時代年表(715) 1907(明治40)年3月28日 夏目漱石「京に着ける夕」を読む 「遠いよ」と言った人の車と、「遠いぜ」と言った人の車と、顫えている余の車は長き轅(かじ)を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。静かな夜(よ)を、聞かざるかと輪(りん)を鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮(さえぎ)られて、高く空に響く。かんかららん、かんかららん、と云う。石に逢(あ)えばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響きである。風は北から吹く。

 

初代京都駅のプラットフォーム

大杉栄とその時代年表(714) 1907(明治40)年3月26日~31日 「三月二十八日(木)、仏滅。午前八時、新橋停車場を(神戸行最急行)一等で出発する。午後七時三十七分、七条(京都)停車場に到着する。狩野亨吉・菅虎雄の出迎えを受ける。三台の人力車を連ね、狩野亨吉の家(京都市外下加茂村四十八番地下加茂神社墳内、現・京都市左京区泉川町)に向い、京都に滞在している間、宿泊する。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

3月28日

夏目漱石「京に着ける夕」を読む

漱石の随筆「京に着ける夕」は、「大阪朝日新聞」(創刊9千号記念号)に掲載された(4月9日~11日連載)。

そもそも漱石招聘を言い出したのは「大阪朝日」の鳥居素川だったが、「大阪朝日」社主村山龍平の「大阪朝日」入社要請にも拘らず、漱石は「東京朝日」入社を選ぶ。入社前の京都旅行で素川と会った漱石は、素川の苦境を見て、この随筆は「大阪朝日」だけに寄稿した。


〈漱石の京都訪問は4回〉

漱石は生涯で合計4回京都を訪ねている。

①明治25年(1892)7月 5日間

②明治40年(1907)3月~4月 15日間

③明治42年(1909)10月 2日間

④大正4年(1915)3月~4月 29日間

一度目の明治25年の京都訪問は、大学の夏休みを利用して松山に帰省する子規とともに夜行列車で訪れたもの。

〈以下、黙翁年表より〉

大杉栄とその時代年表(70) 1892(明治25)年7月1日~16日 漱石、文科大学貸費生(年額70円) 漱石・子規の京都旅行(後半、漱石は岡山へ、子規は松山へ)、帰途に再度京都へ 一葉、花圃の仲介で『都の花』への小説掲載決まる 「松山競吟集」第1回

1892(明治25)年7月7日 

新橋停車場発。

7月8日

七条停車場着。

柊屋(京都市中京区麩屋町御池通り下ル)に宿泊。夜、清水寺などを観光。

7月9日

比叡山に登り、川魚料理屋平八茶屋(京都市左京区修学院)を訪ねる。柊屋に泊る。 

7月10日

大阪に向かう。

子規は、漱石と別れ松山へ帰郷。漱石は岡山に向う。

7月11日

漱石、岡山着。嫂(次兄直則の妻)小勝の実家片岡家に3週間滞在したのち松山に向う。

8月29日

漱石と子規、松山からの帰途、もう一度京都に立寄り1泊。

京都での旅館は先と同じ麩屋町の柊屋。

夜、街を見物に出る。子規が買って来た夏みかんを食べながら、人通りの多い街を行くうちに2人は遊郭にまざれこんだ。漱石は、幅1間ほどの小路の左右にならんだ家の覗き窓から、女が声をかけているのがなにを意味するのか気がつかずにいた。漱石が、「なんだこれは」と問うと、子規はこともなげに「妓楼だ」と答えた。当惑した漱石は、制服の裾をつかまえられたら一大事と思い、「目分量で1間幅の道路を中央から等分して、其の等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に」歩いた。そんな漱石を、子規は苦笑して見ていた。

(「京に着ける夕」で漱石が綴ったエピソード)

二度目の京都訪問は、「京に着ける夕」が書かれた時の京都訪問。

三度目の京都訪問は、この2年後の秋、中国東北部への旅の帰路での立ち寄りであった。

四度目の京都訪問は、大正4年(1915)春、随筆「硝子戸の中」を書き上げた直後の訪問。

このとき、漱石は、画家津田青楓のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉」に宿泊。祇園の茶屋「大友」の女将磯田多佳女と交友を持ち、これに関連して「漱石最後の恋」を推測するなどの話題は多い。


〈「京に着ける夕」を読む〉

夏目漱石「京に着ける夕」(青空文庫)

1907(明治40)年3月28日午後7時半過ぎ、漱石は東海道線の列車から京都駅に降り立つ。

この時、漱石40歳。明治25年に帝国大学学生時代に訪れて以来15年ぶり。人生で2度目の京都訪問。

初めて京都を訪れた時に一緒だった子規はもういない。創作に専念するため漱石は教職を辞して朝日新聞社に入社することを決意した。朝日入社の直前、旧友狩野亨吉のいる京都を訪ね、子規と歩いた道を辿る。

この随筆は、京都の寒さを訴え、子規を失った哀しみと新たな挑戦への不安など、漱石の心境が描かれている。


3月28日朝の8時に東京駅を発った漱石は、11時間30分の汽車旅を終え、京都駅に到着する。


汽車は流星の疾(はや)きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。余(よ)が踵(かかと)の堅き叩(たた)きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉(のど)のどから火の粉をぱっと吐いて、暗い国へ轟(ごう)と去った。

たださえ京は淋しい所である。原に真葛(まくず)、川に加茂(かも)、山に比叡(ひえ)と愛宕(あたご)と鞍馬(くらま)、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒(はるさむ)の宵に、とく走る汽車から会釈(えしゃく)なく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯が尽きる北の果てまで通らねばならぬ。

「遠いよ」と主人が後(うしろ)から言う。「遠いぜ」と居士(こじ)が前から言う。余は中の車に乗って顫(ふる)えている。東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。(略)


漱石の2度目の京都は、寒かった。子規と来た1回目の京都は7月だったが、今回は3月末とはいえ漱石にとっては相当に寒かったらしい。


この日の日記には

「夜七條ニツク俥デ下加茂ニ行ク。京都 ノ first impression 寒イ」とある。


人力車の先頭には「主人」狩野亨吉、二番目に漱石、三台目に「居士」菅虎雄が乗って、京都の夜の街を七條から下賀茂へ北上する。


「遠いよ」と言った人の車と、「遠いぜ」と言った人の車と、顫えている余の車は長き轅(かじ)を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。静かな夜(よ)を、聞かざるかと輪(りん)を鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮(さえぎ)られて、高く空に響く。かんかららん、かんかららん、と云う。石に逢(あ)えばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響きである。風は北から吹く。

細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖(とざ)されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯(おだわらぢょうちん)が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気(ひとけ)のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒(はるさむ)の夜(よ)を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂(ぼうこん)でも食いに来る気かも知れぬ。(略)


漱石たちが乗る人力車から見る京都の市街は、戸が閉ざされ、明かりも消されて、静まりかえった家の連なりだった。「輪を鳴らし」「かんかららん、かんかららん」という音をたてて、暗闇の中を疾走する三台の人力車が目に浮かぶようだ。

そんな中で、漱石は、赤い小田原提灯に「ぜんざい」と書かれた僅かの光を見つかる。「ぜんざい」には、亡き親友子規に繋がる思い出があった。

始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町(ふやまち)の柊屋(ひいらぎや)とか言う家へ着いて、子規と共に京都の夜(よる)を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故(なにゆえ)かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日(こんにち)に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁(わきま)えぬ。汁粉(しるこ)であるか煮小豆(ゆであずき)であるか眼前(がんぜん)に髣髴(ほうふつ)する材料もないのに、あの赤い下品な肉太(にくぶと)な字を見ると、京都を稲妻(いなずま)の迅(すみや)かなる閃(ひらめ)きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜(へちま)のごとく干枯(ひから)びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮(ちぢ)めて京都を南から北へ抜ける。(略)


「子規は死んだ。・・・・・ああ子規は死んでしまった。糸瓜(へちま)のごとく干枯(ひから)びて死んでしまった。」

漱石の悲しみは深い。もう一度手紙が欲しいと懇願されたにもかかわらず、それを果たせなかった後悔の念もあるだろう。

しかし、京都での子規の思い出の中には、妓楼の街探検という愉快な思い出もあった。


子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行(ある)いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑(なつみかん)を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑(なつみかん)の皮を剥(む)いて、一房(ひとふさ)ごとに裂いては噛(か)み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間(ま)にやら幅一間ぐらいの小路(しょうじ)に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並(かどなみ)方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕(とら)まえそうに烈(はげ)しい呼び方をする。子規を顧(かえり)みて何だと聞くと妓楼(ぎろう)だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量(めぶんりょう)で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党(ふへんふとう)に練(ね)って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。(略)

かんかららんは長い橋の袂(たもと)を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺(わらぶき)とも思われる不揃いな家の間を通り抜けて、梶棒(かじぼう)を横に切ったと思ったら、四抱(よかかえ)か五抱(いつかかえ)もある大樹の幾本となく提灯(ちょうちん)の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜けて、よくよく寒い所へ来たのである。遥(はるか)なる頭の上に見上げる空は、枝のために遮(さえぎ)られて、手の平(ひら)ほどの奥に料峭(りょうしょう)たる星の影がきらりと光を放った時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと考えた。

「これが加茂の森だ」と主人が言う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士が言う。大樹をめぐって、逆に戻ると玄関に灯が見える。なるほど家があるなと気がついた。(略)

子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜(よ)よの月円(まる)きに乗じて、清水(きよみず)の堂を徘徊(はいかい)して、明(あきら)かならぬ夜(よる)の色をゆかしきもののように、遠く眼(まなこ)を微茫(びぼう)の底に放って、幾点の紅灯(こうとう)に夢のごとく柔(やわら)かなる空想を縦(ほしい)ままに酔(え)わしめたるは、制服の釦(ボタン)の真鍮(しんちゅう)と知りつつも、黄金(こがね)と強(し)いたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸(まるはだか)のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔(は)いて新聞屋となる、余は尻を端折(はしょ)って西国(さいこく)へ出奔(しゅっぽん)する。御互の世は御互に物騒(ぶっそう)になった。物騒の極(きょく)子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日(こんにち)に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山(まるやま)へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺(ただす)の森(もり)の奥に、哲学者と、禅居士(ぜんこじ)と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑(かん)と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。

「主人」狩野亨吉(京都帝大文科大学学長(現、文学部長)、漱石より2歳年長)、「居士」菅虎雄(第三高等学校教授、漱石と同年)は、下鴨神社境内、糺の森の近くの借家に同居していた。家には狩野と菅のほかに、若い書生と台所番の老爺の男ばかり4人が暮らしていた。


若い坊さんが「御湯に御這入(おはいり)」と云う。主人と居士は余が顫(ふるえ)ているのを見兼て「公(こう)、まず這入れ」と云う。加茂(かも)の水の透(す)き徹(とお)るなかに全身を浸(つ)けたときは歯の根が合わぬくらいであった。湯に入(い)って顫えたものは古往今来(こおうこんらい)たくさんあるまいと思う。(略)


日記には、

「湯ニ飛ビ込ム」とある。

真夜中頃に、枕頭(まくらもとの)違棚に据(す)えてある、四角の紫檀製(したんせい)の枠に嵌(は)め込まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀(ぎんわん)を象牙の箸で打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒さましたら、時計はとくに鳴りやんだが、頭のなかはまだ鳴っている。しかもその鳴りかたが、しだいに細く、しだいに遠く、しだいに濃(こまや)かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかから、心の底へ浸み渡って、心の底から、心のつながるところで、しかも心のついて行く事のできぬ、遥(はる)かなる国へ抜け出して行くように思われた。この涼しき鈴(りん)の音(ね)が、わが肉体を貫いて、わが心を透(すか)して無限の幽境に赴くからは、身も魂も氷盤のごとく清く、雪甌(せつおう)のごとく冷(ひやや)かでなくてはならぬ。太織の夜具のなかなる余はいよいよ寒かった。


日記には、

「夜中ニ時計ガチーーーーーーーーーンと鳴る」とある。


暁(あかつき)は高い欅(けやき)の梢(こずえ)に鳴く烏(からす)で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂(かも)の明神(みょうじん)がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。


日記には、

「暁ニ烏ガ鳴く。への字ニ鳴きくの字ニ鳴く」とある。"


漱石が京都から小宮豊隆に送った手紙には

「京都は寒く候 加茂の社はなお寒く候 糺の森のなかに寝る人は夢まで寒く候」と記され、「春寒く社頭に鶴を夢見けり」という俳句が書かれていた。。


漱石は、この随筆を「春寒(はるさむ)の社頭に鶴を夢みけり」の俳句で結ぶ。


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