〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑤〉
大正4(1915)年
4月6日
鏡子夫人、青楓とともに東山に行く。絵を画いていると多佳が来る。うぐいすの話などをする。
4月8日
午後4時多佳来る。一中節(いっちゅうぶし)を聞かせてくれと頼むと「大長寺」「根曳の松」を唄う。多佳12時帰る。
多任は浄瑠璃の一中節(漱石は「通行」が好きで何度も聞いたという)や河東節の名手で、長唄や古い地境「四条の橋から」や頼山陽作「ひがし山」を好んだ。
4月11日
鎮子夫人、銀閣寺、黒谷見物。午後3時多佳来る。一中節「かみすき」、河東節「熊野」語る。夜きぬ、きみ来る。10時に多佳帰る。
4月12日
午後3時多佳来る。小説のこと松枝東洋城について話す。
4月15日
加賀正太郎・千代子夫婦来て、津田、西川、多佳、岡本橘仙、漱石、鏡子で山崎の別荘を見に行く。多住と京都駅で別れる。
岡本橘仙:
彼女が芸者をしている頃、中島某に落籍されるが、中島は病身で天折。
明治35年、画家の浅井忠が留学より帰り京都に住み、多任と親交が始まる。38年、芸者を廃し、浅井の愛妾となり、40年9月に浅井の協力で陶器と焼物の店「九雲堂」を開店する。九雲堂では栗田の青山、仏セーブル焼、京焼とを合わせて製したような雅味深い陶器に、薄田泣聾の手跡のある薄茶茶碗や、与謝野晶子の徳久利など、他店では手に入らないものが集められていた。
明治40年12月、浅井が死去し、店は長兄に譲り、実家の「大友」に戻る。しかし、生涯二度と芸妓には戻らなかった。
明治45年頃、京都三条の旅館万屋の主人、岡本橘仙の「おもいもの」になる。「好伴侶」で「余所の見る眼も羨しい」、意気投合した愛人となって、その関係は生涯続く。
4月16日
帰京の日、午後、加賀正太郎と多佳来る。京都駅発午後8時58分一等寝台で鏡子と東京に向かう。津田、西川、多佳、きぬ、きみ、塚本ひさ、加賀正太郎、岡本橘仙に見送られる。
4月17日
午前中東京に着く。
4月18日
京都で世話になった人たちを中心に18通の手紙を出す。
多佳宛の手紙。
滞京中は色々御世話になりましたことにあなたの宅で寐てゐたのは甚だ恐縮ですあゝいふ商売をしてゐる所で寐てゐられでは嘸(さぞ)迷惑でしたらう私も愉快に帰りたかつたが是非に及ばなかったのですどうか御母さんや何かによろしくいって下さい帰る時には御見送りをありがたう無事に帰りました昨日はたゞ漫然としてゐましたが今日からは働らき出しました手紙や雑誌が山の如く机の上に積んであります一々返事を出したり用を片付けなくてはなりません此手紙は十四本目です(加賀さんのは十三本目)一中節や河東節は大変面白う御座いました是も木尾町へ偶然宿をとった御蔭かも知れません色々御世話になった御礼をする積ですがまだそんな所へは手が届きませんあなたは浮世絵がすきらしいが浮世絵の写真版になった本はいやですか色彩は無論ありませんからどうかと思ひますが一寸伺ひます、ぬめの額は右の次第ですぐは書けません、東京の生活はあなたのと違って随分猛烈に色々な事が押し寄せて来ますから当分待って下さい右迄御機嫌よう妻よりもよろしく申します 以上
四月十八日 夏目金之助
磯田多佳様
岡本さんに礼状を出さうと思ひますが名前がよく解らないからあなたからよろしく願ひます
次の多倍への手紙は、5月3日付。『硝子戸の中』を送ってもらったのに届かない、といってきた手紙への返信と思われる。
御多佳さん「硝子戸の中」が届かないでおこっていたそうだが、本はちゃんと小包で送ったのですよ。さっき本屋へ問合せたら本屋の帳面にも磯田たかという名前が載っているといって来たのです。私はあの時三、四十冊の本を取寄せてそれに一々署名してそれを本屋からみんなに送らせたのだから間違はありません。もしそれが届いていないとするなら天罰に違ない。御前は僕を北野の天神様へ連れて行くといってその日断りなしに宇治へ遊びに行ってしまったじゃないか。ああいう無責任な事をすると決していいむくいは来ないものと思って御出で。本がこないといっておこるより僕の方がおこっていると思うのが順序ですよ。それはとにかく本はたしかに送ったのです。しかし先年北海道の人に本をやったら届かないというのでその人に郵便局をしらべさせたら隅の方にまざれ込んでいた例もあるから、ことによると郵便局に転がっているかも知れない。もう一冊送る位は何でもないけれども届かない訳がないのに届かないのだから郵便局にひそんでいやしないかと思うのですが、それを問い合せる勇気がありますか。もし面倒なら端書をもう一遍およこし。そうしたらすぐ送ります。
君の字はよみにくくて困る。それに候文でいやに堅苦しくて変てこだ。御君さんや金ちゃんのは言文一致だから大変心持よくよめます。御多佳さんも是からソウドスエで手紙を御書きなさい。
芋はうまいが今送ってもらいたくない。その外これといって至急入用なものもない。
うそをつかないようになさい。天神様の時のようなうそを吐くと今度京都へ行った時もうつきあわないよ。以上。
五月二日夜 夏目金之助
磯田多佳様
漱石はこの時期に至っても、天神様の梅見をすっぽかされたことを怒っている。
さらに5月16日付の手紙でも、執念深くこの件について書いているのである。多佳の手紙の内容はよくわからないが、「約束した覚えはない」と書き送ったものと思われる。
今日小包と手紙が届きました、小包の中には玉子素麺と清水焼のおもちゃと女持の紙入がありました(それは妻にすぐやりました)。いい紙入です。あいつのような不粋なものには勿体ない位です。どうもありがとう。この間の茶碗と昆布もたしかに頂きました。両方ともあつく御礼を申ます。
あなたをうそつきといった事についてはどうも取消す気になりません。あなたがあやまってくれたのは嬉しいが、そんな約束をした寛がないというに至ってはどうも空とぼけてごま化しているようで心持が好くありません。あなたは親切な人でした。それから話をして大変面白い人でした。私はそれをよく承知しているのです。しかしあの事以来私はあなたもやっぱり黒人(くろうと)だという感じが胸のうちに出て来ました。私はいやがらせにこんな事を書くのではありません。愚痴でもありません。ただ一度つき合い出したあなた - 美くしい好い所を持っているあなたに対して冷淡になりたくないからこんな事をいつまでもいうのです。中途で交際が途切れたりしたら残念だからいうのです。私はあなたと一カ月の交際中にあなたの面白い所親切な所を沢山見ました。しかし倫理上の人格といったような点については双方ともに別段の感化を受けずに別れてしまったように思うのです。そこでこんな疑問が自然胸のうちに湧いてくるのです。手短かにいうと、私があなたをそらとぼけているというのが事実でないとすると私は悪人になるのです。それからもしそれが事実であるとすると、反対にあなたの方が悪人に変化するのです。そこが際どい所で、そこを互に打ち明けて悪人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかえてあやまるのが人格の感化というのです。しかし今私はあなたが忘れたといってもそう思えない。やっぱりごま化しているとしか考えられないのだから、あなたは私をまだ感化するほどの徳を私に及ぼしていないし、私もまたあなたを感化するだけの力を持っていないのです。私は自分の親愛する人に対してこの重大な点において交渉のないのを大変残念に思います。これは黒人たる大友の女将の御多佳さんにいうのではありません。普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私がいう事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとかいえばそれまでですが、私は折角つき合い出したあなたに対してそうした黒人向の軽薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。私はあなたの先生でもなし教育者でもないから冷淡にいい加減な挨拶をしていれば手数が省けるだけで自分の方は楽なのですが、私はなぜだかあなたに対してそうしたくないのです。私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでいるとしか考えられないのです。それでこれだけの事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい。また真面目に聞いて下さい。
東京もあたたかになりました。絵の展覧会を見たり、露西亜の音楽会をききに行ったりして、のらくらしています。今日は早稲田へ、ベースボールを見に行きました。弥次馬の応援の騒々しいことは、大友の六畳に寝ているよりも百倍がたこっちのほうが盛です。また宅へ帰って湯に入って、塵埃を払った所です。こんなことをしていますが、心の中は大変忙がしいのです。そうしてこれからがいよいよ忙がしくなるのです。
白川の蛙の声はいいでしょう。私は昨日の朝の真中へ椅子を持ち出して、日光を浴びながら本をよみました。私にはこの頃の温度が丁度適当のようです。
本は売り切れてもう一冊もありませんから、小売屋から取寄せてそれを送ることにしましょう。京都の郵便局になければこっちでさがしたって判る筈がありません。書留郵便でないから、調べてくれるにしても出ては来ません。こんなことは滅多にないことです。この間、芝川さんが来てくれました。もうこの位にしてやめにします。以上
五月十六日夜 夏目金之助
御多佳さん
病気はもういいのですか。御大事になさい。(大正4年 磯田多佳宛書簡)
漱石は、北野天満宮の約束が果たされなかったことにこだわりました。そして、多佳との約束を花柳界での軽ごとの約束だとみなしています。そして、無粋であることを承知しながらも、素人ととしての付き合いがしたかったと綴っている。
しみじみと、
春の川を隔てて
男女哉
と詠んだ、どうしようもない隔たりを感じているようだ。
つづき
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