2026年3月16日月曜日

大杉栄とその時代年表(780) 1908(明治41)年5月9日~17日 「五月中旬、鏡との間、険悪になる。五月中旬から六月下旬までの「断片」(小宮豊隆校訂)には、殺人や自殺を扱ったものが多い。 これは、次のように分類される。恐らくは同じ日に書き込まれたものである。(推定)」

 

小宮豊隆

大杉栄とその時代年表(779) 1908(明治41)年5月2日~8日 「謹しみて過ぎし夜の御礼申上侯、 海氷る御国のはてまでも流れあるき侯ふ末、いかにしても今一度、是非に今一度、東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験せねばと決しては矢も楯もたまらず、養はねばならぬ家族をも当分函館の友人に頼み置きて、単身緑の都には入り侯。」(啄木の5月7日付け鷗外宛の手紙) より続く

1908(明治41)年

5月9日

この日、植木貞子が、本郷・赤心館の啄木を訪ねるが、啄木は不在。

「五月九日

(略)

帰つて見ると、七時頃京橋のてい子さんが訪ねて来たさうで、鉛筆の走書きの結び文が残してあつた。江東落花の日の芝居から、四年目の今、どんなに変つて居る事かと、留守にしたのが残念な様な心地。あの時はまだ十六の、心に塵一つ翳のない、よく笑ふ人であつたつけが。」


翌10日、再び来訪を受ける。

「五月十日

(略)

朝にてい子さんから、午后に節子から葉書。

五時頃、窓の下をうつむいて通る人がある。あの人だなと思つたら矢張その人であつた。てい子さんが来た。あの時は十六であつたが今はモウ十九、肥つて、背が高くなつて、話のやうすも怎うやら老けて居るが、それでも昔の面影が裕かに残つて居る。話は唯昔の事許りであつたが、金田一君も来合せて、いろいろとアノ芝居の時の人々の噂が初る。少し暗くなつて洋燈をつけたが、七時四十分頃に帰る。三丁目の電車の所まで送つた。」

植木貞子は本名セン、明治23年1月5日東京生まれ。父は日本橋区松島町で印刷屋をしていて、明治34年8月8日京橋区大館町に移転し、明治43年6月8日妻タキと協議離婚。植木貞子はセンの通称で、正式には植木千子と名乗った。母は藤間流舞踊の師匠であったから貞子は藤間流の踊りを良くし、明治38年4月15日、江東の伊勢平楼で開催された新詩社演劇会に伊上凡骨の紹介で出演し、高村砕雨作「青年画家」に半玉玉助の役を好演し巧みな踊りを見せた。啄木は裏方で鶯の笛を吹いている。そんな関係から植木貞子親子を知りその後年賀状を交換し、41年2月には彼女から3年前の新詩社演劇会を懐かしむ長い便りが釧路に届いている。

5月10日の赤心館訪問以降、貞子は毎日のように葉書を寄こし、時には啄木の下宿を訪れている。啄木もまた京橋区大鋸町に踊りの師匠をしている貞子親子を訪問し、日記に「四年前に見覚えの門札には行書で”植木千子”と書いてあった。お母さんなる人が飛び立つ程喜んで迎へてくれた。」と述べ、貞子らと4年前の伊勢平楼の思い出を語ったと誌している。

貞子と啄木はやがて肉体関係を持ったが、啄木はまもなく彼女に厭(あ)いてこの関係は永く続かず、その変心を怒った貞子が赤心館から啄木の日記や小説の原稿を持ち去るという事件を起し、これが原因となって8月に破局を迎える。

しかし啄木は翌42年2月8日北原白秋と浅草に遊び、父の破産で浅草公園5区の芸者置屋分吉野屋に芸者米松と名乗っていた貞子に再会し一夜を共にしている。

その後、この世界から足を洗った彼女は、大正初期、東京赤坂で牧場兼牛乳販売業を営む老舗の息子と結婚して四男一女をもうけ、一家で大連に渡ったが、夫が病弱のため料亭の女中頭を勤めた。このころの貞子は物静かでしとやかな長身の人妻であったという。

終戦の年、夫に死別し、帰国後は家業を継いだ二男の家で幸福な人生を送り、昭和41年1月5日、老衰のためその生涯を終えた。享年76歳。彼女は生前啄木や金田一京助と交遊のあったことを時々子供たちに語ったという。

5月11日

米ノース・ダコタ州に排日暴動。日本人の60日以内州外退去を要求。

5月14日

日清間緑江日清合同材木会社章程、北京にて調印。28日 告示。

5月中旬

大杉栄、東京府豊多摩郡柏木308に堀保子と転居

5月15日

第10回総選挙。

政友会185、進歩党(憲政本党)75、大同派(大同倶楽部)29、猶興会34、無所属56議席獲得。計379名)。

政友会、初の絶対多数。但し、東京市では定員11中5が2に減少、中野武営・蔵原惟郭ら商業会議所・猶興会議員が2から6に増加。都市選挙区全体では政友会は32から27に減少。

5月15日

高畠素之・遠藤友四郎ら、「東北評論」を創刊(~10月=3号)。群馬県高崎市。新村忠雄参加。時事問題に触れているが保証金を納めていないとして出版法違反で発行停止命令うける。

8月1日、保証金を払って復刊。

5月15日

(漱石)

「五月十五日(金)、筆、小宮豊隆に連れられて、大学病院に行く。瘰癧(るいれき)と診断される。弥生亭(西洋料理店 本郷区砂町十番地、現・文京区本郷一、二、四丁目)で食事し、夜遅く人力車で帰る。

筆は、人力車で小宮豊隆に抱かれたまま眠る。

五月十七日(日)、ヤング(不詳)に、『吾輩は猫である』を贈る。上巻の見返しに、”herein, a Cat can speaks in the first personplural, we, whether royal or editorial, it is beyond the hem of the author to see” (ここでは、猫が一人称複数で語ります。君主の「私たち」であるか、論説文の「私たち」であるか、作者の理解を越えたものです)と書いている。(『吾輩は猫である』上・中・下篇を贈ったものであろう)夜、小宮豊隆宛手紙に、「サランボーと云ふものを讀み居候」と書く。

五月十八日(月)、午後、神田神保町で人力車に乗った小宮豊隆に会う。小宮豊隆は人力車から直ちに降り、一緒に散歩して帰る。

五月中旬、鏡との間、険悪になる。(荒正人、前掲書)

5月中旬

(漱石)

五月中旬から六月下旬までの「断片」(小宮豊隆校訂)には、殺人や自殺を扱ったものが多い。

これは、次のように分類される。恐らくは同じ日に書き込まれたものである。(推定)

(1)(六月八日(月)以後)出歯亀。田子浦入水親子三人脊髄病。本所小女二人同時入水。

中尉。副官を斬ル (戀ノ恨)

建部博士離縁。

大久保臀肉斬取押件。(次一行略す)

姙婦震死(真鍮ノカンザシ)

四十二卜三十九ノ夫婦情死。美貌ノ妻強姦セラル。其事評判トナル。夫ノ嫌疑。妻ノ慰撫。情死。

(2)六月十三日故法學士滝谷慥爾(二十八年没)未亡人三人ノ遺子卜共ニ横須賀ニテ入水ス。長男次男共ニ多病ナル故ナリ。死スルヲ得ズ。

(3)六月十六日川上眉山自刃ス。頚動脈切断。(実際には十五日(月)午前二時頃)

(4)十九日靜岡縣ノ田舎親子三人古池に飛込溺死。妻卜養父卜折合はぬ為め離縁を遮られたる結果といふ。

二十日腰越デ巌顕より入水シタル佝僂アリ。

〇一昨年より今年四月に至る迄嬰児十五人を貰ひ(育料十五圓乃至二十圓附)悉く之を遺棄せるものあり。

(5)六月二十二日

秀英舎ノ職工鑿(のみ)を揮つて女二人ニ重傷ヲ負ハス。二人ハ母卜子ナリ。職工此子ヲ嫁ニスルノ約アリ。性不良ノ為メ破談トナリ、愛想づかしを云はれたるを憤りてなり。

向島寺島村第六天堺内に女ノ裸體ノ死體アリ。

(6)六月二十四日

妻と計つて病気の姉に毒饅頭を食はす。江州のもの

千駄木のもの離別を悲しんで長崎諌早の夫の庭前に忍び入り毒を仰いで死す。

(7)二十六日

浦和中學校長陰茎を切り自殺ス

(8)二十七日

夫肺結核、貧、妻子二人を連れて自殺セントテ諸所を漂泊ス」(荒正人、前掲書)

5月16日

逓信省、海岸局無線電信局(銚子無線電信局、東洋汽船(株)所属天洋丸無線電信局)を設置(火花発信方式)。

5月17日

この日の鉄幹の歌会には、訣別した弟子吉井勇・北原白秋らが参加。不振の「明星」派・鉄幹を慰めるためか。


「千駄ヶ谷の歌会であつた。平出君川上君茅野君は昔に変つて居ない。松原君中嶋君、恒川君田口君大貫君東条君其他、主人夫婦を合せて十七人。・・・・・

(略)

この会に、吉井北原二君は正月の脱会以後初めて新詩社に来たのだ。平出君は七年目で歌を作つたと云つて居た。」(啄木日記5月17日)


5月17日

山道愛山、『現代金権史』。


つづく

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