2026年3月22日日曜日

大杉栄とその時代年表(786) 1908(明治41)年6月14日~15日 現実に川上眉山を殺したのは、生活の窮迫であり、将来への悲観であった。そのことは二葉亭の送別会に出席した誰もが知っていた。彼は死に臨んで、武士の末裔であることをしめすかのように、ためらい傷ひとつつくらず、剃刀のただ一閃によってその命を断ち切った。〈関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』より〉

 

川上眉山

大杉栄とその時代年表(785) 1908(明治41)年6月11日~13日 「今の世でも理想家はある。しかし多くの理想家の理想は死(しに)理想で役に立たぬ。実際家は固(もとよ)り多い。しかし実際家は実際にかまけて理想を缺(か)きが故に、其の為(す)る所は動(やや)もすれば小細工に流れケチになる。理想に囚われず、実際に役(えき)せられず、超然として心を物外(ぶつがい)に置きながら、驀地(まつしぐら)に物内に突入して活殺自在の働きを為し得る底(てい)の其人物は存外少ない。否殆ど無いが、僕の見た男爵(後藤新平)は則ち其の人たるに庶幾(ちか)い」 (二葉亭四迷「入露記」) より続く

1908(明治41)年

6月14日

「六月十四日 (日)、野間真綱から久し振りで来信ある。(推定)第七高等学校(鹿児島市)に就職決定したと知らせてくる。小松原隆ニやマードックらが在職しているので、そのことにふれ返事、を出す。「僕は野村に新婚の御祝をやらうと思っていまだに忘れてゐる。」とも添える。


(*小松原隆ニ)明治三十三年東京帝国大学文科大学英文学科卒。後に、第八高等学校校長。」(荒正人、前掲書)


6月14日

「六月十四日

日曜日、九時頃起きた。間もなく金田一君が来て、昼飯も一緒に食つた。

春陽堂へ手紙出した。宮崎君へも。それから、渋民の小供等へ絵葉書を買つて来て六枚出した。

袷と亀甲絣の羽織を典じて、先月入れた紋付の羽織を出して来た。銀台の洋燈を一円で需めた。夜、青磁の花瓶を夜店で買つて来て金田一君へ。

金が少しでもあると、気が落付かなくていけない。今日は三度も四度も外出した。金のある時は何も書けぬ。自分は矢張貧乏の方がよい様だ。

(略)


六月十五日

(略)

金を欲しい日であつた。此間太平洋画会で見た吉田氏の(魔法)、(スフインクスの夜)、(赤帆)などを買ひたい。本も買ひたい。電話附の家にも住んでみたい。そして、吉野君岩崎君を初め、小樽の高田や藤田、渋民の小供等を呼んで勉強さしたい。……

夜は三時打つまで眠れなかつた。」(啄木日記)

6月15日

川上眉山(39)、牛込天神町の借家で自殺

眉山は、6月6日、上野精養軒で催された二葉亭四迷の露行送別会では言葉は少なかった。「風采が気高くて、話が巧くて、誰にでも程が好」(巌谷小波)く、どんな意見を聞いてもも必ず一度は「うん、そうそう」とうなずいてみせる癖のある穏やかな性格の眉山だったから、口数少なく端座していでもあやしむものはいなかった。精養軒での参会者一同の記念写真では最後列に立って写しこまれた。

かつては斗酒を辞さなかったといわれた眉山も近年は酒をひかえがちだった。二葉亭の送別会でもあまり飲まず、家でも酒を口にしなくなっていた。ただ6月10日頃、帝大文科大学の学生小野秀雄を突然訪ねていくらか飲んだ。

独文科の小野秀雄にはいつかドイツ風のレーゼドラマを書きたいという志があり、そのため、近年は自然主義文学と鴎外、漱石らの陰に隠れがちだが、会話文がもっともうまいと定評のある眉山の教えを乞いはじめたばかりだった。小野は本郷の下宿ではあまりに不粋だと思い、本郷三丁目の料亭に案内した。そこで飲みながら眉山は、「ドイツ文学に自殺のおもしろい型はないか」と小野に尋ねた。その様子に不審なところはなく、話題も小説家としてはありがちなものだった。小野は「ウェルテル」の話をしたが、結局は日本式に頸動脈を剃刀で切る単純で確実な方法にまさるものはなかろう、と答えた。

14日夜、鷲子夫人は翌日の引越しにそなえて荷造りをし、午前2時頃眠った。眉山はすでに玄関脇の四畳の書斎で床についていたが、朝早く起き出した気配がした。

なにをしているのだろうと思いながらうつらうつらしているうちに、午前5時半頃、唸り声が聞えた。書斎のふすまを開けると、眉山はうつぶせになったままですでにこときれていた。傷は1ヵ所、右の首にあり、すっぱりと頸動脈を切断していた。出血の量は尋常ではなく、白絣の浴衣、羽二重の兵児帯、木綿の蒲団すべてが血潮で濡れそぼっていた。


「自殺すべき原因なし。水蔭氏(江見水蔭)は(・・・・・)川上君には自殺すべき理由も原因も無し、一通の遺書(かきお)きなき故我等は其原因を知るに苦しみ居れり、書斎の文庫、手帳、机の抽斗(ひきだし)等も悉く取調べたれど遺書は遂に見当らず、家庭や生活上に就て自殺の減員となるべき事も断じて之無き故、先ず夢幻の間に我知らず剃刀を咽喉に当でたるものと云うの外無からんと云えり」(16日付け「国民新聞」)


国民新聞は眉山の生いたちから業績までを記して約一面をそのために費やしたが、東京朝日新聞は、通信社からまわってきた10行ほどの記事を載せただけだった。

「元来氏は非常なる神経質にて従来も時々常軌を逸したる行動を為し警察署の注意を受けたることをありたりと言えば、今回の死因も恐らくは酒毒にて精神に異常を呈したる結果ならんと言う」

眉山には神経過敏なところがあり、漆黒の闇の中にクモの巣を見たり、ときおり不思議な放心状態に陥ることがあった。

明治29年頃、彼は小石川富坂上にひとりで住んでいた。しとしと雨の降るある晩、眉山の雇っていた老婢が石橋思案の家を血相を変えて訪ねてきて、「旦那さまのご様子が変ですから、すぐに来てくださいまし」と叫んだ。平素眉山の振舞いに不安を感じていた思案は、裸足のままで富坂上の眉山宅まで走った。家は雨戸を閉めきってまっ暗だった。ただならぬ気配に「遅かったか」と案じながら雨戸を破るようにして書斎に入った。マッチを擦ってランプに火を点じると、すぐそばに眉山が正座していた。「ああ、石橋か。ぼくは誤っていた」と、まるで悪夢から醒めた人の口調で言った。

父が若い後添を貰い、明治26年秋、眉山はが本郷の実家を出て富坂上に独居した。

その翌年、厭世的な批評家として知られる高瀬文淵と交友を深め、やがて一時文淵を同居させるようになった頃から、眉山の性格が暗くなったといわれた。

眉山の奇行が昂進したのは、明治29年5月、父が亡くなって若い義母と異母弟妹たちを養う義務が生じ、とり急いで廃嫡届を提出しても父の残した借財に対する責任を逃れられないとはっきりした頃からだった。

国民新聞は原因を不明としたが、近年きわめて寡作になり「眉山はいったいどうやって暮らしているのだろう」と周辺の文人たちをいぶからしがらせた生活の窮迫が主因であることをほのめかしていた。


眉山は、未熟な近代と封建的人間関係の摩擦がもたらした悲劇を「書記官」、「うらおもて」などの作品で描いた。それらは写実小説に対して、「概ね一定の観念若しくは傾向の上に立ち、人物の性格心理の発展、主として之に出ず」(岩城準太郎) る「観念小説」と呼ばれた。

しかし、眉山はそれを磨きあげて長塚節の「土」のような小説にも社会主義にも展開させることができず、持前の潔癖さはやがて沈痛な厭世観へと変質していった。そして元禄町人文学のルネッサンスともいうべき硯友社の没落と、自然主義文芸の隆盛の谷間に落ちこんで、少しずつ忘れられていった。

眉山は普段高雅ともいえる人格なのに、おりおり異様な我の強さを発揮して周囲を驚かせた。硯友社では尾崎紅葉に並ぶという自他ともに認める位置をしめながら、とるにたらぬことにこだわって紅葉と衝突し、紅葉の死の床まで和解はならなかった。

明治28年5月には樋口一葉に執着してほとんど3日おきに丸山福山町の一葉宅を訪ね、そのたびに長時間話しこんだ。そのうち自分と一葉の結婚が文壇の噂になっていると眉山は語りはじめ、気をひこうとした。

眉山はその「我の強さ」を客観的に眺め、「近代的自我」として自己分析に入る方向を見出せず、ついに作品化できなかった。


6月15日午前、知らせを受けて麻布区霞町の家から眉山宅に駆けつけた広津柳浪は、麻布中学4年生の次男和郎に「みごとな死にかただったよ」と告げた。和郎はそのとき、早稲田鶴巻町に住んでいた5年ほど前の仲秋の名月の晩、縁側で月を見ながら父柳浪と酒を飲んでいた眉山を思い出した。月あかりに半身を白く浮かびあがらせたふたりの男の姿は、まだ30歳半ばだというのに時代にとり残された寂寥感を濃く漂わせていた。

翌16日、眉山自殺を軽視して出遅れた東京朝日新聞社会部長渋川玄耳は、失敗を挽回しようと、部員の西村酔夢に眉山の周辺を調査させた。

西村酔夢は眉山宅の近辺を調査し、6月17日の紙面に、その自殺の原因を生活苦である、と断じた記事を載せた。酔夢は、眉山の収入と家賃、それから米屋、酒屋、八百屋、魚屋などの支払いを細かく計算して、眉山の生活は毎月35円程度の赤字だったことを証明した。

しかし、この記事は予想外の世間の反発を買った。犯罪者でもないものの懐具合を覗き見るとは不道徳だという。その圧力に抗しかねた東朝は1週間後の6月23日、国木田独歩の死亡記事に関連させつつ独歩の友人の言を借りる形式で、眉山の死は生活苦によらず「新思潮の圧迫と芸術的良心の鋭敏なるとによるもの」と、事実上訂正記事を出した。

しかし、現実に川上眉山を殺したのは、生活の窮迫であり、将来への悲観であった。そのことは二葉亭の送別会に出席した誰もが知っていた。そして彼は死に臨んで、武士の末裔であることをしめすかのように、ためらい傷ひとつつくらず、剃刀のただ一閃によってその命を断ち切った

〈関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』より〉


つづく

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