1908(明治41)年
6月23日
内相原敬、参内するも時間外とのことで拝謁かなわず。
この日付の原敬日記、「先日、徳大寺侍従長より、社会党取締りに関し、たずねこしたるにつき、・・・」。この頃、元老山県が密奏し、西園寺内閣の社会主義取締りの手ぬるさを訴える。(山県は)、「陛下に社会党取締の不完全なる事を上奏せしに因り、陛下に於せられても御心配あり、何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召もありたり」という上奏行動に出る。
西園寺内閣は39年2月、幸徳秋水・堺利彦・大杉栄らによる日本社会党結党届を許可し、山県は取締りの手ぬるさは国家の存立を危くする、と中傷的奏聞をして天皇の心事を揺さぶる。原は徳大寺侍従長にこのことを内密に聞いていた。
この月の元老の動き。
山県は、元老井上を度々訪れ、このままでは外交・財政が不安、西園寺内閣が辞任するなら1909年度予算編成入りの前が良いと述べる(「原敬日記」6月1日~29日)。政党嫌いの山県は、5月総選挙でお政友会躍進したのを見て危険を感じ、様々な理由を持ち出して倒閣策動を始める。また、6月末迄に財政通の元老井上・松方も、財政について不満を持っており、松方は財政上の忠告も無駄であるとして、井上との会合すら断るまでになる(「同」6月29日)。
6月23日
国木田独歩(38)、茅ヶ崎の診療所で没。7月に『新潮』、8月に『趣味』が独歩特集号を編む。
6月23日
石川啄木、この日夜~25日、合計246首の歌を作る。うち111首は「明星」7月号に「石破集」として掲載。「頬につたふ涙のごはす一握の砂を示しし人を忘れず」(23日夜)、「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹と戯る」(24日午前)。
6月23日
神田署で深夜から赤旗事件の取り調べ。大杉栄は、靴で左腹を蹴飛ばされ、両足を持って床上を引き摺られ、長い髪を引っ張られるなどの暴行を受け負傷。警視庁に護送され、検事による尋問の後、市ヶ谷未決監(東京監獄)に移される。
6月23日
国際無線電信条約公布
6月23日
ペルシャ国王モハンマド・アリー・ミールザー、露コサック兵の援助で反革命クーデター成功。国会解散。1906年の自由憲法廃棄。多数の自由主義派指導者、処刑。タブリーズでは民衆が反乱を起こして街を占拠。武装蜂起し国王軍と交戦(タブリーズ革命、~1909年5月)。
6月23日
アメリカがベネズエラと国交断絶.
6月24日
「六月二十四
昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。
そのうち百許り与謝野氏に送つた。
一時頃から三時半まで午睡。起きて宿の人に手伝つて障子を張かへた。夕飯。
貞子さんが来た。来て先づ泣いた。明日伊豆の伊東へ行くとか行かぬとか云ふ。父な人の家は破産しさうだと云ふ。九時少し前にかへつた。
一人散歩に赤門の前を歩いてると亀田氏に逢つて、国木田独歩氏、わがなつかしき病文人が遂に茅ケ崎で肺に斃れた(昨夜六時)と聞いた。驚いてその儘真直に帰つた。
独歩氏と聞いてすぐ思出すのは“独歩集”である。ああ、この薄倖なる真の詩人は、十年の間人に認められなかつた。認められて僅かに三年、そして死んだ。明治の創作家中の真の作家――あらゆる意味に於て真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!
此日、吉野君から、上京以来初めての手紙。ああ、酒と女! 君の書く事は真実だ。然り、飲んで歌ふことと、若い女!!!)」(啄木日記)
6月24日
大杉栄、4月13日から在籍していた早稲田大学高等予科を退学。
6月24日
インドのティラク、扇動罪に問われ逮捕(ビルマのマンダレーに流刑)。不当逮捕への抗議運動高まる。
6月25日
内相原敬、上奏。社会党取締の現状、教育、社会状況改善、取締の三者必要と説く。「ご了解ありたるがごとく拝察せり」(日記)。山縣の倒閣工作阻止と思い込んだが、・・・。
6月25日
東京帝国大学法科大学、商業学科新設。1919年、経済学部となる。
6月25日
(漱石)
「六月二十五日(木)、木曜会。松根東洋城・鈴木三重吉・小宮豊隆来る。三人とも泊る。
六月二十六日(金)、松根東洋城・鈴木三重吉帰る。夜、牛込亭で小宮豊隆と共に柳家小さんの「うどんや」を聞く。小宮豊隆泊る。
六月二十七日(土)、夕方、小宮豊隆帰る。」(荒正人、前掲書)
6月26日
劉師培らが大杉栄の面会に東京監獄を訪れ、大杉栄とエスペラント夏期講習会の相談をする。
6月26日
全仏領中央アフリカ植民地から成る仏領赤道アフリカ(AEF)樹立。
6月27日
西園寺首相、大磯の坐漁荘で原敬・松田正久に病気を理由に辞意表明。原、次期議会終了前の辞職に反対。
原は、「今日病気にて辞職するも誰も病気の為めと思う者」はいない、来春の議会が終わるまで、せめて秋に予算編成が終わるまで政権を維持することを主張(「原敬日記」27日)。
6月27日
元老山縣、参内、密奏。
6月27日
「六月二十七日
(略)
噫、死なうか、田舎にかくれようか、はたまたモツト苦闘をつづけようか、? この夜の思ひはこれであつた。何日になつたら自分は、心安く其日一日を送ることが出来るであらう。安き一日!?
死んだ独歩氏は幸福である。自ら殺した眉山氏も、死せむとして死しえざる者よりは幸福である。
作物と飢餓、その二つの一つ!
誰か知らぬまに殺してくれぬであらうか! 寝てる間に!」(啄木日記)
6月27日
ハノイ、仏兵営で投毒事件。
6月28日
米大使、紳士協定による移民制限の実績、不満足の旨通知。
6月28日
「六月二十八日
金田一君から二十銭借りて千駄ヶ谷に行つた。過日の歌の話。与謝野氏は驚いてゐる、晶子さんも予の心をよんでから歌を作つたと云つた。
“石川君は食ふ心配をさせずにおけばいい人だ”と与謝野氏が言つた。食ふ事の心配! それをした為に与謝野氏は老いた。それをする為に予も亦日一日に老いてゆく。
峻烈面もむけがたき人生の活機と面相接してゐて、心の底の底でさめざめと泣いてみたい様な、見知らぬ国にあくがれる様な心地がする。
文芸の二方面といふ事を考へた。人間は、現実の苦痛にゐて、時として其苦痛を友人なり何なりに話してそして慰む事があり、時として、全く現実と離れた事を想ひ、言ひ、読んで慰む事がある。今の文壇の論争は、各々此二つの場合の一つ宛を取つて争つてゐる様なものだ。
予は両方に各々の理を認める。そして予自身も両様の心地を持つてゐる。然し与謝野氏は予の歌を半分しか解らない。」
「六月二十九日
目をさますと、凄まじい雨、うつらうつらと枕の上で考へて、死にたくなつた。死といふ外に安けさを求める工夫はない様に思へる。生活の苦痛! それも自分一人ならまだしも、老いたる父は野辺地の居候、老いたる母と妻と子と妹は函館で友人の厄介! ああ、自分は何とすればよいのか。今月もまた下宿料が払へぬではないか?
To be,or not to be ?
死にたい。けれども自ら死なうとはしない! 悲しい事だ、自分で自分を自由にしえないとは!
起きたが、煙草がなかつた。一時間許りも耐へたが、兎ても耐へきれなくなつて、下宿から傘をかりて古本屋に行つた。三十五銭えて煙草を買つて来た。
(略)
死といふ事が執念く頭に絡んで来る。此間作つた
大木の枝ことごとくきりすてし後の姿のさびしきかなや
といふ歌が辞世の歌に可いなどと考へた。しまひには死ぬ時の事がいろいろと想像されて、それが何となく快い様な気になつた。
所へ、与謝野氏から“本日振替貯金で少し送り候、二三日中にお手許に届くべく候”といふ葉書が来た。ああ、と云つて後ろに寝て、何といふこともなく手を合せた。
せつ子へ、今月金を送れぬ申訳の手紙をかいた。」(啄木の日記)
6月29日
千家法相、赤旗事件拘留書の「一刀両断天主首」につき原内相に報告。原内相、厳重処罰方針。
6月29日
トロツキー、「ジンプリチシムス」に関する論文で「キエフスカヤ・ムイスリ(キエフ思潮)」デビュー。
6月30日
預備立憲公会の鄭孝胥ら、2年後の国会の早期開設を要求。
6月30日
赤旗事件拘留書の「一刀両断天主首」につき原内相・千家法相・田中宮相三者協議。厳重処罰方針決定。
6月30日
海軍軍司令部編『明治三十七・八年海戦史』2巻。
つづく

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