2026年3月21日土曜日

大杉栄とその時代年表(785) 1908(明治41)年6月11日~13日 「今の世でも理想家はある。しかし多くの理想家の理想は死(しに)理想で役に立たぬ。実際家は固(もとよ)り多い。しかし実際家は実際にかまけて理想を缺(か)きが故に、其の為(す)る所は動(やや)もすれば小細工に流れケチになる。理想に囚われず、実際に役(えき)せられず、超然として心を物外(ぶつがい)に置きながら、驀地(まつしぐら)に物内に突入して活殺自在の働きを為し得る底(てい)の其人物は存外少ない。否殆ど無いが、僕の見た男爵(後藤新平)は則ち其の人たるに庶幾(ちか)い」 (二葉亭四迷「入露記」)

 

後藤新平

大杉栄とその時代年表(784) 1908(明治41)年6月4日~11日 「馬場氏は、自然派の文が感情を軽んじてゐる事を難じ、且つ若いうちは延ばすに可いだけ延ばして書くべしと云つた。藤村の“春”については、真摯でない点があると云つた。 此人は常に一寸捻くれた頭を持つた人で、其いふ事がキビキビしてゐる。学生の堕落といふ事を話した時、今日が昔に比して学生が悪くなつたのでなくて、詰り悪い事をする様な者まで学生になる程、教育の範囲が広くなつた、と評した。」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

6月11日

「六月十一日

(略)

夕方、金田一君と二人話してる所へ、女中が来て、先月分の下宿料の催促。

七時半、森先生を訪ねた。雨がふつてきた。佐々木信綱君が来た。八時半“天鵞絨”の原稿を持つて帰つて来た。

森先生の六才になるまり子さんが、ピヤノを習つてるといふ。

“天鵞絨”の中には、先生の一々誤や訛を正して下すつた一葉の紙が入つてゐた!

九時頃、金田一君が其衣服を典じて十二金を拵へて来て貸してくれた!

二時までかかつて、“二筋の血”三十三枚脱稿した。


六月十二日

十時起きて、“二筋の血”を読直し、“天鵞絨”を訂正した。一時頃出かけて、春陽堂をとひ、後藤氏留守、編輯の人某氏に逢つて原稿料の件相談。アトで返事して貰ふことにして帰る。

昨夜の十二円のうち十円だけ宿へやる。

(略)

七時半、駿河台に長谷川天渓氏を訪ひ、“二筋の血”“天鵞絨”二篇置いて来た。

帰に東明館で、一円六十五銭で単衣一枚買つた。金田一君また五円貸す。

歌を直して一時寝る。


六月十三日

午前、為替を受取り、湯に入り、髪をかり、原稿紙と百合の花と足袋と櫛と香油と郵便切手と買つて来た。

(略)

今日先月分の下宿料皆払ひ、金田一君に一円かへした。

(略)」(啄木日記)


6月12日

二葉亭四迷、東京発。福田英子も見送る。送別会に出席できなかった親友横山源之助が国府津まで同乗。

13日朝、大阪着~敦賀着。

14日、ウラジオストクから帰朝した初代満鉄総裁後藤新平に会い、米原までの車中で満州問題での意見を聞く。

17日午前11時半、神戸発、神戸丸で大連に向う。1等船室で3食とも西洋料理、船賃は42円。食堂のボーイと船室付きのボーイに計4円のチップをはずむ。「乞食が一足飛に華族になったような気持がして」落着かない。

18日朝、宇品にて妻(25)に手紙。眉山の自殺の報に、「これにつけても文士生活はいやなものに候」。池辺三山へは後藤新平との会見記を送る。

18日夜半、門司着。

22日午後3時、大連着。


〈関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』より〉

14日午前、二葉亭は敦賀で初代満鉄総裁後藤新平と会見した。単独インタビューの心づもりだったが、記者たちが合流したので共同記者会見に流れ、話も一般論に傾いてしまった。そこで二葉亭が、ロシアは南満洲鉄道から国際的意味を奪い、一地方鉄道に転落させて日本が経済的に維持できなくなるよう画策しているのではないかと質問すると、後藤は体をぐるりとまわして二葉亭をじっと見つめ、君の問いは大いに肯綮(こうけい)にあたっている、と二度繰り返した。

その後、後藤は列車で敦賀から東京へ向かうが、二葉亭も一等切符を買い、同じ車両にに乗りこんで米原まで同行した。後藤は、二葉亭を記憶していて、自分のそばにすわるようにいった。そして、二葉亭が旬日のうちには満洲を経由してロシアに向かうことを知ると、声をひそめて「そんなら言うて聴かすが決して誰にもいうてはならぬぞ、君の社の者にもいうてはならぬぞ、君一人の胸に秘めて置くのだぞ」と前置いてから、国際急行列車をイルクーツク、寛城子(長春)間に通す交渉をロシアと行なったこと、これに対しロシアは、ハルビン、寛城子間ならその可能性があるとにおわせたことなどを語った。

この頃、寛城子以北ハルビンまでの満洲鉄道北部と、イルクーツク東方チタでシベリア鉄道本線と分岐し、満洲里、ハルビン、牡丹江、ボグラニチナヤ、ニコリスクを経てウラジオストクに至る東清鉄道はともにロシアの管理下にあった。ロシア鉄道は5フィート軌間であり、寛城子以南大連までの南満洲鉄道と奉天、安東から京城、釜山に至る朝鮮鉄道は4フィート8インチの標準軌間で敷設、または敷設中だった。

日露戦争以前は南満洲鉄道もロシア軌だったのだが、開戦後日本軍が大連を占領し北上作戦を展開するとき、日本から搬送した3フィート6インチの日本軌間用の軍需列車を走らせ、かつロシア軍が遺棄した貨車をも利用するため、広いロシア軌を生かしながら、その軌間に第三線を敷きつつ順次北上するという、世界鉄道史上画期的な工事を行なった。

日露戦争後日本は満洲鉄道会社を設立、3フィート6インチ軌と5フィート軌を再度4フィート8インチの標準軌にあらためた。これは中国各地に列強が敷いていた鉄道との将来の連絡乗入れをもくろんだためでもあるが、一朝事あるときロシア軍の直接進出を阻害するという、もうひとつのより重要な目的があった。

後藤は日露両鉄道共存をめざし、将来の相互乗入れにそなえてロシア鉄道とドイツ=オーストリア鉄道の連絡点を調査させていると二葉亭に語った。その調査員の一人が、のちにべテルブルグで病床に臥した二葉亭を世話する夏秋亀一である。

ロシアと融和的でありながら満洲における日本の権益を守ろうとした日露同盟主義の後藤の態度に二葉亭は感銘を受けた。二葉亭もまた、日露戦争では日本はロシアに辛勝したにすぎず、その広大な国土と膨大な人口を背景にした国力を思うとき、日露が再び対するなら日本は必敗だと考えていた。

「今の世でも理想家はある。しかし多くの理想家の理想は死(しに)理想で役に立たぬ。実際家は固(もとよ)り多い。しかし実際家は実際にかまけて理想を缺(か)きが故に、其の為(す)る所は動(やや)もすれば小細工に流れケチになる。理想に囚われず、実際に役(えき)せられず、超然として心を物外(ぶつがい)に置きながら、驀地(まつしぐら)に物内に突入して活殺自在の働きを為し得る底(てい)の其人物は存外少ない。否殆ど無いが、僕の見た男爵(後藤新平)は則ち其の人たるに庶幾(ちか)い」 (「入露記」)

二葉亭は後藤の人品骨柄に感銘を受けた。初対面の自分をたちまち見込んで国家的機密を打ち明けて同憂の士として扱い、ロシアでの見聞を内報して欲しい、そのためには金銭の援助もすると告げた豪快さに、自分がかつて志した経論家の理想像を見た。

後藤にしてみれば、車中の無聊を慰める相手にしただけというのが実情に近いかも知れない。しかし、ペテルブルグにおける満鉄社員夏秋亀一の献身ぶりや、帰国にあたっては金のかさむヨーロッパ回りのルートをしぶる二葉亭を説得し資金の面倒を見たのは、べテルブルグに滞在する満鉄理事田中清次郎だったから、その背景には後藤の好意があったとも思われる

後藤が二葉亭に漏らした情報は、いま読む限りはさしたる機密とも思えないが、対露協調を強くいうことをはばかられる空気が当時の日本にはあったのだろう。二葉亭の手紙を受け取った池辺三山は、二葉亭との約束を守ってその内容を語らず、記事にすることもなかった。

6月12日

独の細菌学者コッホ来日。睡眠病に関する講演を行う。

8月 フレンケルなど、この前後、外国の医学者の来日数人。

6月13日

横浜正金銀行、漢冶萍鉄廠鉱 有限公司借款150万円成立。

6月13日

漱石「文鳥」(「大阪朝日新聞」連載、~21日)後に10月「ホトトギス」に一括転載)

夏目漱石「文鳥」(青空文庫)

松根東洋城の勧めで飼うことになった文鳥に餌をやるのを忘れたために死なせてしまったエピソードに基づく。

「美しいものの死」という主題から、「漱石の養父、塩原昌之助の後妻の連れ子で、漱石と家族として暮らした日根野れんが病没した10日後に『文鳥』の連載が始められた。『文鳥』は、れんの追悼の小説ともされる。漱石が18歳の時に嫁いだ日根野れんは『道草』の御縫さんのモデルでもある。」(Wikipedia)とも。

6月13日

宮城控訴院で電車賃値上反対騒擾事件の控訴審判決。

第一審は取り消し、凶徒聚集罪で、西川光二郎は重禁錮2年、大杉栄、岡千代彦、山口孤剣、吉川守圀、樋口伝、松永敏太郎は重禁錮1年6ヵ月、鈴木高次は重禁錮6ヵ月(執行猶予2年)、半田一郎、竹内余所次郎、増山伝吉、斎藤兼治郎は罰金10円。

16日、これを不服として大審院に告訴。


つづく

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