江戸城(皇居)東御苑 2013-08-28
*長暦2年(1038)
この年
・ノルウェー・ヴァイキングのハラルド・ハードラダ、トルコのビザンチン水軍の客将として活躍
*
・初代ハンガリー王聖イシュトヴァーン1世(68?、位1000~1038)、没。
1000年マジャール支配者アールパード朝ゲーザ(アールパードの孫)の息子ヴァイク。ローマ教皇から王冠を授かり聖イシュトヴァーンとして初代ハンガリー国王となる。マジャールのキリスト教化を進める。アールパード家内部で王位争い。
他方、伝統的信仰の復活を求める民衆が反乱。甥ペーター、即位(位1038~1041)。
*
・李元昊が西夏を建国。
1032年、唐から李姓を与えられたチベット系タングート(党項)族の李元昊(りげんこう、1003~48、位1038~48)、父の後を継いで平西王となり、タングート諸部族を統合して青海の東部や甘粛西部の敦煌まで領土を拡大。宋にならって官制・兵制など諸制度を整え、宋・遼に対抗して皇帝を称し、国号を大夏と称する。中国ではこの国を西夏(1038~1227)と呼ぶ。
*
・アプーリア、東ローマの重税で極めて不安定な状態。多くの騒乱が発生、帝国役人が暗殺される。
*
・皇帝コンラート2世、息子ハインリヒ3世をシュヴァーベン大公とブルグンド国王に任命。
*
・フランス、ブールジュ大司教エモン、「神の平和」の団体を設立。
伝統の枠を踏み出す新しい型の同盟(司教区の15才以上の全ての信徒に宣誓を要求。司祭達が教区徴募兵の先頭に立ち、ベリー地方の民衆軍を創設)。
*
・セルジューク、ニシャプールを獲得。
*
2月
・中納言兼大宰権帥藤原実成は、先年、大宰天満宮の神宮寺である安楽寺と乱闘し、寺から訴えが出されていた。
この月、彼はその職を停めら、正二位中納言の位階官職まで奪われる除名処分を受けた。
2年後、位階だけは元に複したが、再び政界に復することはなかった。
実成は、故太政大臣公季の長男であり、道長とは従兄弟にあたる名流であったが、このような厳重な処分を受けた。
*
5月
・皇帝コンラート2世、教皇ベネディクトゥス9世の要請で南イタリアに遠征。
5月、カープアに到着。
親ドイツ派サレルノ候グアイマリウス5世にカープア候を兼務させる。
親ドイツ派ライヌルフスをアヴェルサ伯に叙任。
反ドイツ派カープア候パンドゥルフス4世に、モンテカッシーノ大修道院の領地回復、囚人解放を命令。パンドゥルフス4世は、息子・娘を人質に出し、金300ポンド支払うことで和平を獲得(金150ポンドを即座に支払う)。人質の息子が逃亡、カープア候はサン・ターガタ・デ・ゴーティ城に篭る。
皇帝コンラート2世、疫病によりミラノ攻略を断念、ドイツに帰国。
教皇ベネディクトゥス9世、ミラノ大司教アリベルトを破門。アリベルト、市民の支持とシャンパーニュ伯との同盟を頼りに皇帝軍に抵抗。
皇帝軍、酷暑と疫病により大打撃。
ハインリヒ3世妃グンヒルト(シュヴァーベン大公ヘルマン)、病没。
*
・アヴェルサ伯ライヌルフス、サングロ川流域の秩序を回復
(サングロ川流域はパンドゥルフス4世一派のボレルスの息子達により荒廃)。
*
・カープア候パンドゥルフス4世(位1026~1038、1047~1049)、コンスタンティノープルに逃亡。サレルノ候グアイマリウス5世の要請により、皇帝によって投獄。グアイマリウス5世がサレルノ候とカプア候を兼ねる。
*
8月25日
・伊勢斎王の大神宮参入に備え、諸国に祓清を命じる北陸道諸国司宛の太政官符は従五位下大中臣為輔を使者として派遣。
*
9月
・東ローマ将軍ゲオルギオス・マニアコス、メッシーナを包囲攻撃(レッジョよりメッシーナ海峡をシチリア島に渡る)、アブド・アラー軍に大勝、陥落。
故地で東西に分かれたノルマンがシチリアでドッキング。
①ノルマン人傭兵(鉄腕ギョーム他)。
②東ローマ皇帝親衛隊長ハロルド・アドラーダ(ハラルド苛烈王、23、1015~1066、ノルウェー王在位1047~1066)。1066年イングランド・ハロルド2世を攻めヨーク近郊スタンフォード・ブリッジの戦いで戦死。
ビザンツ帝国のシチリア遠征。
アプーリア、カラブリア支配を回復した勢いに乗り、イスラム勢力からシチリア奪還を企図。
ビザンツ帝国から援助要請を受けたグアイマリウス5世はアヴェルサ伯ライヌルフスに兵を出すように命令、ライヌルフスは配下のノルマン人300を派遣。
その中にタンクレードの息子3人(ギョーム、ドゥローゴ、オンフロワ)がいる。長兄ギョームの活躍は際立ち「鉄腕」と呼ばれる。
遠征はビザンツ帝国軍内部分裂により頓挫。
*
10月27日
・延暦寺僧徒、頼通により大僧上正明尊が天台座主に任命される事を不満として入京、奏状を差し出す。
*
12月14日
・平維衡は、『春記』長暦2年12月14日条を最後として、諸記録類より姿を消す。
既に相当の高齢に達していたはずで、この年よりあまり時をおかず死を迎えたと思われる。『尊卑分脈』によれば、彼は85歳で罪深い生涯を終えたという。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿