両国 旧安田庭園 2013-09-20
*明治37年(1904)
2月15日
・黄興、宗教仁ら、長沙で華興会結成。
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2月16日
・イタリアから回航(アルゼンチンより購入)した新造軍艦「日進」「春日」、横須賀到着。
「日進」回航員の竹内平太郎大佐は同艦艦長、「春日」の鈴木貫太郎中佐は副長に発令。
19日、日比谷公園で東京市主催歓迎会。
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2月17日
・閣議、ロンドン市場で英貨公債募集の方針決定。
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2月17日
・軍事輸送のため、停車場司令部を新橋・品川・沼津・浜松・名古屋などの各駅に設置。
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2月17日
・「読売新聞」2月17日の社説、交戦国間の礼節に注意を喚起。
「敵国とさへ云へば、之に対して心激し気昂(たかぶ)り、知らず識らず常軌を逸して礼節を失ふ」ことになりがちだが、これは戒めるべきで、特に社会の木鐸たる新聞が「極端なる侮蔑の言辞を弄し、或は虚構捏造の嘲弄的事実を羅列して (中略)読者の歓心に媚びんとするもの無しとせざるは、吾人の深く遺憾に堪へざる所なり」
この頃、ロシアを誹謗愚弄する記事が多く載り、また読者がそうした言説を喜んでい。
新聞雑誌の読者投稿欄には過激な意見が溢れていた。
ジャーナリストにも増して、読者は敵国を極端に愚弄し、あるいは虚構捏造の嘲弄的事実を好んだ。
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2月18日
・旅順港閉塞作戦を決定し命令を発す。
作戦目的:
「連合艦隊は敵の損傷の復旧せざるに先だち、旅順港口を閉塞して敵全力を不能ならしめ、且時宜に依り間接射撃を以て敵を威嚇せんとす」
命令は12項にわたり、閉塞船隊(特別運送船隊と呼んだ)および関係部隊の行動を定め、閉塞の決行を出発の日から第四日目(2月24日)と定めた。
2月20日、韓国南西部の牙山に近い八口浦から出撃。
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2月18日
・東京の市街電車、車内禁煙実施。
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2月18日
・プッチーニ(45)、歌劇「蝶々夫人」、ミラノ・スカラ座で初演、失敗。
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2月19日
・義州の日本領事館、ロシア軍「ミシチェンコ支隊」(前進騎兵支隊長ミシチェンコ少将指揮)騎兵300余に包囲。駐在武官東郷辰二郎少佐ら9人を安東に連行。
戦後、明治39年2月14日、俘虜交換により帰国。
この年6月19日より軽謹慎30日の処分。後、少将に累進。
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2月19日
・社会主義大演説会、社会主義協会主催。聴衆300余。YMCA。
野上啓之助「戦争と吾人の覚悟」、西川光二郎「戦争の成功事業」、堺利彦「世の中廻りもち」、斯波貞吉「選挙は一の喜劇なり」、幸徳秋水「普仏戦争史の一節」、木下尚江「戦争の影」(宗教家を批判)、安部磯雄「予が選挙せんとする代議士」。
「当夜は日比谷公園に、日本がアルゼンチン政府から買入れた新造の軍艦日進、春日の歓迎会が東京市主催で開かれて、YMCAの門前に立てた演説会の看板の寒冷紗(かんれいしや)は破られ、主催者は「今夜は定めし聴衆の数が少なくて妨害と反対が多からう」と予期せざるを得なかった。「ところが来る、来る、そして定刻には聴衆三百余名に達した」と、第十六号には記されている。」(荒畑寒村『平民社時代』)
木下尚江「戦争の影」(『平民新聞』16号に再録)
日露戦争に対する宗教家の態度を批判。
ニコライ主教が聖公会の信徒に主神が「日露戦争の開戦を許し給うた」との論告を発したことを非難。
次に、仏教各派が政府の命令に盲従迎合して「義勇奉公」を信者に説教する卑屈な弾劾。
キリスト教新教諸派が征露演説会、戦勝祝賀会の開催や軍隊布教使の許可に狂奔する事を批判し、新教徒が強いて新約聖書の中から主戦論に好都合な文句を探し出すに汲々とし、博愛人道の大義を旨とする宗教家の本分を没却して国家的主権者の利害に阿諛媚附(あゆびふ)するのは、「畢竟わが民心の奥、一点世界大の精神思想鬱勃たるもの無きの明証」であって、開戦わずかに数日にして早くもすでに「日本国民思想の極めて陋劣」なることが証明されたと論断。
『平民新聞』は、「聴衆の多かったのも意外であったが、殊に意外だったのは反対者の一人もなかったことである。弁士の口から熱烈な非戦論の出た時、三百余名の聴衆が一斉に拍手喝采する音は取分け壮快に感ぜられた」と記す。
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2月19日
・日本赤十字(代表松方公爵)、ロシア戦艦「ワリヤーク」重傷者を松山救護所収容決定。
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2月20日
・ソ連の政治家・首相コスイギン、誕生。
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2月21日
・「特別任務班」第1班、北京発、北上。
2月9日、北京の日本公使館で「第1期特別任務班」(第1~4班)編成。
第1班:伊藤柳太郎大尉(3)、横川省三(39、元「東京朝日新聞」記者、内田公使私設秘書)、沖禎介(29、北京・文明学堂教習)ら12名。
ハイラル、チチハル方面の鉄橋・トンネル爆破が任務。
「特別任務班」は清国駐在武官青木宣純大佐が組織、内田康哉公使、清国政府顧問・警務学堂監督川島浪速らが参画。
この日、北京を出発した第1班は、承徳を経て28日「蒙古カラチン王府」に到着。"
「特別任務班」
①第1班:伊藤柳太郎大尉ほか11人。鉄橋・トンネルなどの爆破を担任。途中で、ハイラル、チチハル2組に分かれる。
②第2班:井戸川辰三大尉ほか9人。馬賊団の組織を担任。
③第3班:津久居平吉大尉ほか4人。牡丹江の鉄橋爆破を担任。
④第4班:橋口勇馬少佐ほか10人。馬賊団の組織を担任。
■第1班12人。
▽伊藤柳太郎大尉(33歳):元「蒙古カラチン王府」練軍教官。
▽横川省三(39歳):元『東京朝日新聞』記者、米国留学、クリスチャン、内田公使私設顧問。
▽大島与吉(32歳):法学院(のちの中央大学)卒、内田公使私設顧問。
▽沖禎介(29歳):東京専門学校(のちの早稲田大学)英語経済科中退、北京・文明学堂教習。
▽松崎保一(30歳):歩兵少尉、直隷省保定・定武中学堂教習。
▽田村一三(22歳):宮崎県宮崎中学校卒、宮崎高等小学校教員、北京・文明学堂教習。
▽吉原四郎(32歳):歩兵曹長、東京専門学校法律科卒、青木大佐雇員。
▽中山直熊(23歳):熊本県済々学中学校卒、北京・振華学堂教習、『北支那毎日新聞』記者。
▽脇光三(23歳):日本中学校卒、台湾協会専門学校清語科中退、北京・東文学堂教習、『北支那毎日新聞』記者、号・華堂、父は華族女学校幹事浅岡一。
▽若林龍雄(27歳):済々学中学校卒、砲兵軍曹、浙江・潯渓公学堂教習。
▽前田豊三郎:不評。
▽森田兼蔵:不評。
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2月21日
・週刊『平民新聞』第15号発行
幸徳秋水「何ぞ言はざる」(週刊『平民新聞』15号、2月21日付)。
資本家よ、何ぞ国家の為めと言はずして、金利の為めと言はざる。将校よ、何ぞ国家の為めと言はずして、金鵄(きんし)勲章の為めと言はざる。新聞持主よ、何ぞ国家の為めと言はずして、売高の為めと言はざる。
英文欄「戦争ついに起る」(週刊『平民新聞』15号)。2月8日小村外相が新聞記者を招いて日露交渉を説明した記事。
「一九〇三年(明治三十六年)八月十二日、日本の駐露公使はロシア政府に次の提案をおこなった。
一 日露両国政府は支那と朝鮮の独立および両国の領土保全を約束する。
二 日露両国政府はあらゆる国に対して、支那および朝鮮における商業および産業をおこなぅ機会均等の原則を守ることを約束する。
三 ロシア政府は朝鮮における日本の最高権益を認め、日本政府は満洲における鉄道に関してロシアの特殊権益を認める。両国政府はおのおの第一項の原則に反せざる限り、上述の如きその権益を保護する適宜の手段をとり得ることを認める。
四 ロシア政府は朝鮮の改革と円満な施政に関して、助言または援助を与える日本政府の独占的権利を認める。
五 ロシア政府は朝鮮鉄道が東清鉄道と連絡するように、満洲南部に延長することに反対せざることを約束する。
この提案に対してロシア政府は十月三日、初めの二項目に示された提案の承認を拒み、且つ満洲とその沿岸線が日本の権益の範囲外なることを認めるように要求した。朝鮮に関しては、ロシア政府は日本政府が必要ある場合は朝鮮に出兵し得るも、しかし軍事目的のために領土のいかなる部分をも用いてはならぬと主張した。その上ロシア政府は朝鮮に、北緯三九度以北の一地域を包括する中立地帯の設置を提案した。
その後の交渉の結果、ロシア政府はその戦争準備継続のために、問題を平和的に解決する意図なきことが明白となった。こうして、両国間の開戦は不可避となったのである。」
日本の開戦理由は支那の領土保全、朝鮮の独立維持にあるのではなく、ロシアとの間に、支那と朝鮮とを分割支配しようとする帝国主義的野心の相剋、資本主義的利害の衝突に他ならない。
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2月21日
・参謀本部、臨時軍用鉄道監部を編成。京城・新義州間鉄道建設にあたる。
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