北の丸公園 もみじ紅葉はじまる 2013-11-18
*永承6年(1051)
3月
・鬼切部の戦い(前九年の役)。
陸奥玉造郡鬼切部(宮城県玉造郡鳴子町鬼首)、陸奥国司藤原登任・出羽国秋田城介平重成の国府軍、奥六郡俘囚長の安倍頼良と激突、安倍軍が圧勝。
【概観】
「奥六郡」(胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手)の先住民(蝦夷)は胆沢鎮守府の統治下、定住蝦夷(俘囚)として生活(俘囚の代表・俘囚長が安倍氏)。
安倍氏は、「自ら酋長を称し、威権甚だしくして村落をして皆服せしめ、六郡に横行して庶子を囚俘にし、驕暴慈蔓(ひろくはびこる)にして漸く衣川(胆沢郡・磐井郡の境界)の外に出ず、賦貢を輸さず、徭役を勤むることなし…」(「陸奥話記」)。
陸奥国司藤原登任、任期満了となるこの年、安倍氏追討軍を興し、出羽国秋田城介(出羽国司の次席役職)平重成に援軍を要請(伊具郡の平永衛・亘理郡の藤原経清の加勢も期待するが、両名は安倍氏に与力)。
出羽の兵は陸奥国司の兵と合流、数千となり鬼切部で迎撃の安倍軍と合戦、追討軍は大敗。
平重成は秋田へ撤退、藤原登任は不名誉な帰京。
以後、安倍頼良の領域は拡大・強化。
この年(永承6年)、中央政府は源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じて安倍頼良を討伐させ、平定。安倍頼良は大赦により罪を免れ、名を頼時とする。
戦乱は永承6年(1051)~康平5年(1062)の12年に及ぶが、数回の間歇的な合戦が行われたのみ。
戦いは安倍氏優勢のうちに進展、最終段階で安倍一族に対して激烈な壊滅戦で終結。
陸奥支配をほぼ手中に収めた源頼義は、形は上位官位である伊予守に任じられ陸奥から転任、奥六郡支配は清原氏に任され、源氏の陸奥支配は幻となる。
亘理権大夫藤原経清:
もと下総を本拠地とする。父頼遠の代から、亘理郡に移り郡司を務める。経清は安倍頼良の娘を妻としている。
【ここまでの奥州情勢】
大化改新後、道奥国(陸奥国)は成立したとされるが、常陸がその北辺。
大化改新後、658年越(越後)国守の阿倍引田臣比羅夫が水軍を率い日本海を北上、形式上の越国奥地の飽田(秋田)・能代・津軽に到達、更に渡島(北海道)までを把握。
この遠征で比羅夫が日本海側の蝦夷を討伐・平定したとされるが、軍事行動があったか不明、伝承では、軍船の一部を置いて和睦成立、一帯に住む一族の長に阿倍の姓を与え帰国したと伝えられる。
和銅3年(710)奈良遷都後、712年陸奥国・出羽国が成立、両国を奥羽と称し東北経営開始。
東国から1千戸を陸奥に移住させその拠点の柵戸を構築し、膨大な移民を送り込み、神亀元年(724)その中心たる多賀城が構築、出羽方面では天平5年(733)秋田城が構築、陸奥・出羽両国の国府的機能の中心的な役割を担う拠点となる(開拓移民保護、地域の蝦夷への威圧)。
これらの圧力・懐柔により朝廷へ貢物を贈る服従的な蝦夷も出現。
後に労役・軍役に組み込まれる俘囚・夷俘と呼ばれる人々は朝廷により編戸民化(戸籍を与えられた人民へ組み込み)されるが、多賀城碑文に記録される現在の岩手県南部地方は胆沢の賊と呼ばれる蝦夷が暮らし、中央による東北経営に同化しない人々の天地であったと伝えられる。
宝亀11年(780)、伊冶呰麻呂の乱(アザマロの乱)勃発。
アザマロ(俘囚、中央政権による開拓・征服事業に協力、伊冶城造営に協力した功績により官位を与えられる)が、移民系豪族との軋轢により反乱(中央政権による過酷な現地人への圧政があったと推測される)。
陸奥国軍令(政治の最高責任者)の大伴駿河麻呂と紀広純は、伊冶城を拠点に前線基地を築くべき軍を率い多賀国府を出発。
しかし、伊冶郡大領・伊冶呰麻呂の蝦夷軍の攻撃を受け、駿河麻呂・広純、随従の牡鹿郡大領、道嶋大楯が討ち取られ、蝦夷軍は南下して多賀城を攻略・放火(不明点あり)。
朝廷は中納言藤原継縄を征東大使に、参議藤原小墨麻呂を持節征東大使に任じるが、蝦夷征討は失敗。
多賀城以北の蝦夷が中央に対し反抗を興す起因となる。
延暦7年(788)、朝廷は大掛りな軍事作戦(征夷)を敢行、参議左大弁正四位下兼春宮太夫中衛中将紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とし、大軍5万4千余を動員し沢地方(岩手県水沢地方)へ進軍。
紀古佐美には直属の兵員は皆無に等しく、奥州への途中に東海・東山・坂東(関東)から募兵し多賀城入城。
多賀城から蝦夷が集結中と伝えられる胆沢方面へ2万3千余が進発、衣川(平泉)を渡り北上川渡河中、胆沢地方の蝦夷を糾合した阿弖流為(アテルイ)を首将とする蝦夷軍に大敗。
蝦夷の首89に対し、征討軍は戦死1千数百、負傷・逃亡者合わせて2,500以上。
延暦10年(791)、新たな征夷を準備。
延暦13年正月、征夷大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂を任じ、弟麻呂は大軍10万を率い陸奥へ出発、斬首457、捕虜150、獲馬85、焼き討ち拠点75の戦果をあげ、遷都後の京へ帰還と伝えられる。
副使坂上田村麻呂は現地に残り、延暦15年按察使、翌16年征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守府将軍(東北重要4職兼帯)となる。
坂上田村麻呂は、胆沢城(かつて蝦夷が集結し征討軍へ反抗を示した地)を築き、鎮守府を多賀城から移し、駿河・甲斐・相模・下総・常陸・下野・信濃の浮浪者4千を集め開拓に従事させ、延暦20年(801)軍4万で蝦夷征討戦を行う(詳細は不明、「夷賊を討伏せり」との征夷大将軍奏が出される)。
延暦21年阿弖流為・母禮(もれ)などぼ首領率いる蝦夷が降伏、田村麻呂は阿弖流為・母禮など首領を伴い京都へ帰還
(蝦夷との協調により東北経営を目指す田村麻呂と、それに賛同し新たな和平関係構築を懇願をするためであるが、理解されず田村麻呂の助命嘆願も叶わず阿弖流為・母禮は河内で処刑)。
延暦22年田村麻呂は再び陸奥へ下向、更に北方の志波城(盛岡市)を構築、但し、阿弖流為の処刑もあり、蝦夷の人々の不信感から新たな争乱が始まる。
弘仁元年(810)、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ、延暦20年出羽権守に任命)が参議正四位上大蔵卿陸奥出羽按察使となり、坂上田村麻呂は将軍を辞して都へ帰還。
翌弘仁2年2月~10月、綿麻呂は2万6千で奥地の爾薩体(二戸)・幣伊(閉伊)地方の蝦夷征討戦を展開。
この征討軍には俘囚軍数百が配置され、戦いの主軍と位置づけられ戦果をあげる
(「夷を持って夷を制する」、本質的には蝦夷の戦闘力は減退していない)。
宝亀5年以来38年にわたる征討戦(東北大戦争)は終結。暫くは蝦夷勢力と均衡を保つ。
元慶2年(879)、出羽秋田で俘囚が北出羽の独立を唱え反乱。前左近将監小野春風を鎮守府将軍に任じ2年がかりで鎮圧。
以降、大がかりな蝦夷の反乱はなくなり、11世紀迄は比較的平穏な時代。
奥六郡司安倍氏の登場
寛仁(かんにん)2年(1018)8月、陸奥守藤原貞仲(さだなか)と鎮守府将軍平維良との間で合戦。
将軍維良は奥六郡で略奪的な徴税と交易を行ったあげく、任終年を迎えて累積未進の処理などを巡って国守貞仲と対立した。
この合戦によって維良は解任された。
その後も平永盛(ながもり、天慶勲功者の平群清幹へぐりのきよもと子孫)・藤原頼行(秀郷子孫。兼光の子)と武士系将軍が続いたが、万寿4年(1027)に在任した頼行を最後に、天喜元年(1053)に源頼義が鎮守府将軍に任命されるまでの26年間、将軍補任はみえない。
将軍維良の略奪的な奥六郡支配に手を焼いた陸奥国司は、頼行の任期切れとともに将軍の停止を政府に求め、有力俘囚首長の一人、安倍忠良(ただよし)を奥六郡司に起用して奥六郡支配を委ね、福島城での夷狄交易も委託したものと推測される。
前九年の役の主役、安倍氏の登場である。
9世紀、俘囚首長の多くは、丈部(はせつかべ)などの俘囚の姓から阿倍陸奥臣(あべのむつおみ)・阿倍会津臣(あいづおみ)などに改姓された。忠良の祖も、奥郡を本拠とする俘囚首長が改姓して安倍氏を称したもの。
長元9年(1036)、忠良は陸奥権守に補任された(『範国記』)。
このことから彼が京から派遣されてきた国司だとする見解があるが、諸国の有力在庁官人らが肩書きだけの権守や権介に補任されることは普通に行われており、忠良は陸奥国司から五位に斡旋され権守に推挙された在庁官人だった。
その子で父同様五位の肩書きを持ち通称を「安大夫(あんたゆう)」と称した頼良は、受領郎等として入国しそのまま土着して伊具(いぐ)郡司・亘理郡司になっていた伊具十郎(平永衡)・亘理権大夫(藤原経清つねきよ)を婿に迎え、陸奥国内での地位向上・勢力拡大に努めた。
こうして安倍氏は、「部落みな服従し、六郡を横行し、人民を劫略し、子孫滋蔓(じまん)す」(『陸奥話記」)、「都県を領して胡地とし、人民を駆使して蛮虜とし、数十年の間、六簡郡の中、国務に従わず」(源頼義奏状)といわれるように、奥六郡に君臨することになった。
頼良の子弟は六郡内各地に館(たて、柵さく)を築き、館を拠点に地域支配を行い、六郡内の俘囚たちを臣従させ、国衙に官物を納めず雑役を負担しなかった。
頼長はさらに奥六郡以南の公領にも進出し、検田や官物納入を拒否していた。
奥六郡司安倍氏の支配は、受領や鎮守府将軍の略奪的支配を排除した点で、俘囚による「自治」権の獲得であった。
奥六郡内の防御性集落が北方夷狄に対していたのに対し、安倍氏の柵は受領の強制執行部隊に対して築かれた。
安倍氏に関する二つの見方。
①俘囚説をふまえ、蝦夷に出自を持つ在地土豪という理解。
この理解の背景には、安倍氏を抑圧された陸奥民衆の利益代表者とする立場がある。
蝦夷=俘囚の族長的存在とするこの考え方は、中央の辺境支配への反乱という位置付けがなされ、教科書その他で通説的位置を占める考え方である。
②蝦夷の蜂起を鎮圧すべく王朝国家の要請で、その統轄を委任された存在と解する立場。
王朝国家における請負・委任原理からすれば、安倍氏を「兵」的存在と解し、その役割を王朝国家側からの付託を受けた立場と解することができる。
しかし、東国にあるような、群党蜂起の治安維持を任務とした王胤の下向という状況ではなく、坂東と奥羽の地域的特性に根ざした問題がある。
安倍氏は、中央下向の勢力ではなく、蝦夷戦争後の俘囚問題勃発のなかで、自治路線の容認政策から「夷ヲ以テ夷ヲ制ス」方針が採用され、安倍氏に期待されたものは「夷ヲ以テ」の立場だった。
現地の俘囚勢力のなかの与党勢力に官職権を付与し、支配的地位を容認した。
公権付与により軍事貴族の地位にふさわしい位階を与え、「兵」としての立場を国家が認定した。
『今昔物語集』(巻31-11)にある安倍頼時の胡国行きの説話。
「奥ノ夷(えびす)」と同心したとの疑いをかけられた頼時は、中央から派遣された陸奥守源頼義の追討を逃れるために、「此ノ奥ノ方ヨリ海ノ北ニ、幽(はるか)ニ被見渡ル地有ナリ」として、貞任・宗任や郎等たち50人程と船出した。
だが、そこは断崖絶壁で、胡人と遭遇したものの上陸を断念し、30日程で引き返したというもの。
これが実話かどうかは不明。
この胡国は北海道を想定したものかと思われる。胡国逃亡の理由は、「奥ノ夷」が反抗し、頼時が彼らに同心したことにあったという。
ここでは安倍氏の抵抗が、『陸奥話記』とは異なる見方で語られている。
説話の信憑性という大きな問題はあるが、部分的には偽りはないと判断される箇所もある。
冒頭、「今ハ昔、陸奥ノ国ニ安倍ノ頼時卜云フ兵有ケリ」の描写。
頼時はまさに「兵」として登場し、つまり頼時は王朝国家により容認された存在として扱われている。
おそらく安倍氏は「奥ノ夷」の統轄権を中央政府より委任された立場だったのだろう。
この点は、『陸奥話記』では頼時を「六箇郡の司」と表現していることとも関連する。
『陸奥話記』では、頼時を「安大夫」と呼称している。大夫が五位の通称であったことからすれば、安倍氏を中央政府に抗する辺境の豪族とのみ解することは、問題が残り、むしろ辺境軍事貴族に近い立場である。
陸奥という地域性からすれば、豪族化した俘囚に王朝政府が支配権を委任し、軍事貴族と遇したとするほうが妥当である。
それ故に頼時の胡国説話にさいし、「奥ノ夷」とも同心を疑われる素地もあったわけで、政府の「夷ヲ以テ夷ヲ制ス」との方針の流れを前提とすれば、この説話も理解できる。
『陸奥話記』にある安倍頼時の国守源頼義への饗応ぶりは、彼ら「兵」たちが、国内支配権の容認を国司より引き出す方策と考えられ、王朝国家期の国司と地方軍事貴族との一般的関係と想定できる。
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