中日新聞【社説】
ベアテさんの思い、心に 憲法を考える
2014年5月1日
日本国憲法は施行から六十七年を迎えます。その草案づくりに関わった米国人女性を忘れるわけにはいきません。ベアテ・シロタ・ゴードンさんです。
ベアテさんにお会いしたのは、二〇〇四年四月、ニューヨーク・マンハッタンにあるベアテさんのアパートメントです。夫のジョセフ・ゴードンさんとともに、温かく迎えてもらいました。
そのときすでに、一九四七年五月の新憲法施行から六十年近く。連合国軍総司令部(GHQ)で憲法草案起草に関わった人の多くはこの世を去り、当時を知る数少ない「証人」の一人でした。
日本女性の状況、肌で
ウィーン生まれのベアテさんは五歳になる二九年、世界的ピアニストの父レオ・シロタさんが東京音楽学校(現東京芸大)の教授に招かれたのを機に一家で来日しました。米サンフランシスコ近郊の大学に留学する三九年までの十年間、東京・乃木坂で暮らします。
日本の文化に触れ、社会に溶け込むのが、母オーギュスティーヌさんの教育方針でした。ベアテさんはすぐ、日本の子どもたちと遊びはじめ、三カ月で日本語を話せるようになったといいます。
ときには、炭屋の店先にあった「たどん」を道にぶちまけるいたずらも。でも、多感な少女時代、肌で感じたのは、権利もなく、社会的立場も弱い、日本の女性たちが置かれた厳しい状況でした。
日本を離れた二年後、太平洋戦争が勃発、両親は強制疎開先の軽井沢で、憲兵の厳しい監視下に置かれます。両親と娘は太平洋の両岸に引き裂かれ、お互い安否すら分からない音信不通です。
大学卒業後、米タイム誌のリサーチャー(調査員)をしていたベアテさんは戦争が終わると、GHQの民間人要員に応募、採用されました。両親に会うためです。
男女平等を書き込む
親子がようやく再会を果たしたのは終戦の年の十二月末。その約一カ月後、ベアテさんは新たな任務を与えられました。日本の新しい憲法の草案をつくることです。
人権に関する条項の担当を割り振られたベアテさん。「女性にもいろいろな権利を与えたいという気持ちで始めました」と、当時の心境を語ってくれました。
かつて日本で見聞きした、女性の立場を何とか改善したい、という強い思いがあったのです。
焼け残っていた都内の図書館で集めた世界各国の憲法条文を参考に、草案づくりを始めました。婚外子差別の禁止なども含め、幅広く書き込みたかったそうですが、憲法にそぐわないとして草案段階で削除されたそうです。
しかし、女性にも権利を、とのベアテさんの思いは、日本国憲法第二四条に結実します。男女平等条項といわれるものです。
<婚姻は、両性の合意のみに基(もとづ)いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
二 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。>
ベアテさんは憲法施行の四七年五月、米国に戻りました。起草に関わったことは長い間伏せ、文化交流の仕事に没頭します。二十二歳の若い女性が憲法に関わったことが分かれば、改正論を勢いづかせかねないと危惧したのです。
憲法は、他国に与えられるものではなく、自分たちで決めるものです。時代の変化や必要性に応じて改正することまで、否定されるべきではありません。
しかし、ベアテさんは日本国民が自分たちの意思で長い間、改正しなかったことの重要性を指摘します。憲法施行六十年に当たる〇七年、本紙に寄せたメッセージでは「日本によく合う憲法でなければ、ずっと前に改正されていたはずです」と語っています。
特に、経済発展の基礎を築いた戦争放棄の九条は、世界の「モデル」であり、「ほかの国々がこの憲法のまねをして、自分の国の憲法を変えて、世界に平和をもたらすことを期待しています」と。
9条は世界のモデル
新憲法への関わりが知られるようになった晩年は頻繁に来日し、憲法制定の歴史を語り、女性の権利や人権、平和の条項を守る大切さを訴えました。一二年十二月、八十九歳の生涯を閉じます。
その功績をたたえる声は、今もやみません。ベアテさんの思いは、憲法と、わたしたちの心の中に生き続けています。
ベアテさんも見守った戦後日本の歩み。憲法改正や解釈改憲が声高に叫ばれる今こそ、平和憲法下で復興、経済発展を遂げた先人の労苦を思い起こしたいのです。
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