北の丸公園 2014-07-30 ムクゲ
*承暦2年(1078)
この年
・ロゲリウス1世、シチリア島東海岸(北部)タオルミーナ(タオルミナ)征服。
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・東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカス、廃位(位1071~1078)。
皇帝ニケフォルス3世(簒奪者)、即位(位1078~1081)。
ミカエル7世妻(ロベール・ギスカール娘)、女子修道院に入れられ、ロベール・ギスカールの東ローマ攻撃の理由となる。
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・サラゴーサ王国バヌー・フード朝ムクタディル王(位1046~1082)、スペイン・アラブ人支配のレリダを併合。
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・フランス、聖アンセルムス(45、1033~1109)、ベック修道院長就任(任1078~1093)。
のち、カンタベリ大司教(1093(60才)~1109)。
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・イングランドのウィリアム征服王、テームズ川北岸にロンドン塔ホワイト・タワーを築く。
後、周囲に多くの建物や城壁が築かれ、現在のロンドン塔になる。トマス・モア、ヘンリー6世、エドワード5世と弟のヨーク公、アン・ブーリン、エリザベス1世などが、ここに幽閉される。
ウィリアム征服王・長男ロベール父子、ジェルブロアで激突、父は息子に敗れてルーアンに落ち延びるが、息子は父を追撃せずフランドルに退く。
この争乱に乗じてスコットランド王マーコームはノーザンバラ地方を略奪。
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・ウェールズ、リース・アプ・テウドル、デハイバース支配(1078~1093)。
ウィリアム2世の支持を得て強大な王国の再建企図。
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1月20日
・従四位上右中弁藤原通俊に越前権守を兼任させる。
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2月
・ローマ四旬節公会議。
皇帝ハインリヒ4世と対立皇帝ルドルフ、教皇グレゴリウス7世の仲裁を希望。
グレゴリウス7世の勝利(両者がローマの調停を受け入れ、教皇の判決に服することを誓う)。
一般教令発布
(聖職者は皇帝・国王を含む俗人の手から教会を受領してはならない。俗人による司教叙任の禁止令。皇帝・国王への「叙任権闘争の宣告」を意味する「教会法の制定」)。
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3月2日
・ローマ公会議。教皇グレゴリウス7世、教皇領を攻撃したロベール・ギスカールを破門。
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4月5日
・カープア候リカルドゥス1世、没。
息子ヨルダヌス(ロベールの姉フレッセンダの子、ロベールの甥)、即位(位1078~1090)。
ヨルダヌス、ナポリ包囲を解き、ローマに急行、教皇グレゴリウス7世に忠誠誓約(叔父ライヌルフス伯と共に破門解除)。
グレゴリウス7世指示で大規模なロベール・ギスカール征討軍組織(1078~1080)。
征討軍進軍に呼応してアプーリア、カラーブリア、ルカーニアの各地で反乱勃発。
ロベール・ギスカールはこの逆境に耐え切る。
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4月28日
・越前守藤原家道、内裏歌合せで歌を詠む。
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8月20日
・宋商、太宰府に到着。
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10月25日
・宋国の貢物の事が評議。
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承暦3年(1079)
この年
・この年~翌80年頃、平正衡、藤原師実の家人となる。
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・この頃、セビーリャ王国ムータミド(位1069~1091)、ムルシアを併合。
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・トレードの反アルフォンソ6世派、バダホース王ムタワッキルをトレードに呼び入れ、トレード王カーディル、追放(トレード王1075~1079、1080~1085、バレンシア王1085~1092)。
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・ムラービト朝、トレムセン陥落。
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・年末~1080、エル・シッド、セビーリャ王ムータミドの貢納受領のためにセビーリャ滞在。
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・ハインリヒ4世、ホーエンシュタウフェン家フリードリヒ(29)をシュヴァーベン大公に任命し娘アグネス(5)と婚約させる(1089年結婚)。
ホーエンシュタウフェン家:
シュトゥットガルトとエスリンゲン東方(シュヴァーベン地方)ホーエンシュタウフェン北西山麓ビューレン村。
フリードリヒ:
創始者フリードリヒ・フォン・ビューレン長男。頭脳明晰・覇気・実行力優れハインリヒ4世の不屈の弁護者。ハインリヒ4世、高く評価し娘アグネスと婚約させる
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・ベルトルト・フォン・ラインフェルデン(対立国王ルドルフ息子)、シュヴァーベン大公を要求。
フリードリヒのシュヴァーベン大公任命により、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家、ツェーリンゲン家との抗争開始。
(経緯)
1057年、摂政アグネス(ハインリヒ4世母)、シュヴァーベン大公にルドルフ・フォン・ラインフェルデン(ハインリヒ4世姉の夫)を任命。
1061年、摂政アグネス、バイエルン大公にオットー・フォン・ノルトハイムを、ケルンテン大公にベルトルト・フォン・ツェーリンゲンを任命(1078年没)。
1070年ハインリヒ4世、バイエルン大公オットー・フォン・ノルトハイムを罷免、ヴェルフ4世を任命(オットー娘と離婚)。
1077年1月カノッサの屈辱。
1077年2月ドイツ諸侯、ハインリヒ4世を廃位し、シュヴァーベン大公ルドルフをドイツ国王に選出(対立国王)。
1079年ハインリヒ4世、シュヴァーベン大公にホーエンシュタウフェン家フリードリヒ任命。
1080年エルスターの戦い、対立国王ルドルフ戦死。
1097年ハインリヒ4世、次の処置をして南ドイツの平穏を取り戻す。
①ベルトルトのシュヴァーベンの財産について大公権を承認、ベルトルトをトゥルガウとチューリヒの帝国守護官に任命。
②ヴェルフ4世に個人財産及び世襲財産としてバイエルン大公領を封じる。
③シュヴァーベンとエルザス(アルザス)の残りの全ての領土はフリードリヒの大公領のままにとどめ置く。
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・フランス、ピエール・アベラール、ル ・パレ(ナント付近)に誕生(1079~1142)。
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・ルッカ司教バッジョのアンセルムス、枢機卿に就任(1086年没)。
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1月5日
・従四位上右中弁兼越前権守藤原通俊を正四位下に昇叙。
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2月2日
・京都大火。
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2月18日
・大神宮の外院が焼失。
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3月
・ロゲリウス1世庶子ヨルダヌス(1092年没)、タオルミーナ遠征軍を指揮。
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4月16日
・いろは歌全文が載った最古の文献「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうおんぎ)」が書かれる。
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6月2日
・祗園別当職を法眼懐空に譲り補したことを不満として、延暦寺山僧1千余が、叡山を下り祗園感神院に参集。
山僧のうち200余は甲冑弓矢で武装しており、緊迫の度が高まったため、前下総守源頼綱・甲斐守源仲宗・検非違使大夫尉平季衡・尉平季国・右衛門尉平正衡・同宗盛らが鴨川の堤下に派遣され、防衛線がはられた。
祗園社頭で大般若経を転読し気勢をあげていた山僧たちは、夜に入ってようやく帰山しはじめる。
この時山上から別の1千が炬火をかざして下山、一乗寺下り松辺において、先の山僧たちを迎えたという(『為房卿記』『百錬抄』『扶桑略記』)
この頃、寺院大衆の強訴の備えに用いられたのは、源氏・平氏のほか諸衛官人や検非違使らであった。
平季衡・正衡ら伊勢平氏一族は、同様の事態のたび毎に緊急出動を命ぜられたと思われる。
但し、彼らは有事の際の朝廷の警衛部隊長としてのみ存在していたわけではない。
正衡は、承暦強訴の2ヶ月余り前、関白師実が賀茂社に参詣した時、左衛門尉平盛方・右衛門尉平兼衡・同平宗盛・左兵衛尉平兼季ら同族とともに、舞人として参加している(『為房卿記』『参軍要略抄』)。
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7月9日
・白河天皇・藤原賢子の第2子善仁(のち堀河天皇)、誕生。
乳母、藤原公実の妻光子、藤原基隆母。乳母子、修理大夫藤原基隆。
11月3日、善仁、親王宣下。
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8月17日
・源義家、美濃で合戦を始めた右兵衛源重宗を、勅命を受け追討。
9月19日、源重宗、源義家に降伏。
義家は、源国房と闘乱を惹起した清和源氏満政流の武将源重宗の追討使として派遣される。
受領ではない義家が起用されたことは、美濃での河内源氏の勢力が朝廷で評価された結果といる。
ただ、重宗は逃亡しており、追討は失敗に終わったらしく、義家は恩賞を与えられていない。
重宗の孫重遠が義家の婿に迎えられるなど、彼の一族は河内源氏と密接な関係を有していたから、結果的に重宗は義家に屈伏したとみられる。
なお、この重宗の子孫は美濃・近江・尾張諸国に蟠踞しなから、京で検非違使などとして活躍する軍事貴族として発展する。子の重実は鳥羽院北面となり、院の四天王の一人と称される有力武士となった。
重実の息子たちは保元・平治の乱で活躍する。
重貞は保元の乱で藤原頼長に矢を命中させて戦傷死に追い込み、乱後には豪カで知られる源為朝を捕らえている。
重貞の兄・重成は平治の乱に際し、源義朝の身代わりとなって自殺したとの逸話がある。
さらに、承久の乱京方の中心の一人、山田重忠も重宗から五代の後裔にあたる。
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8月30日
・相模国住人権大夫三浦為季と押領使大場景平とが合戦し、為季が景平を殺害したため、景平一族は「数千軍兵」をもって為季を攻撃(『水左記(源俊房の日記)』同年8月30日条)。
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