サルスベリ 2014-07-22 東京・竹橋
*1782年(天明2年)
2月
・アイルランド、義勇軍指導者グラタン、議会にアイルランド人の権利宣言提出。引き延ばしにされ採択されず
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・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲ロンド楽章ニ長調(K.382)作曲。 カノン「彼女は死んだ」(K.229(382a))、「幸いなるかな、幸いなるかな」(K.230(382b))、「俺の尻をなめろ」(K.231(382c))、「俺の尻をなめろ、きれいにね」(K.233(382d))、「夏の暑さに俺は食う」(K.234(382e))、「泡立つ酒がグラスに光るところ」 (K.347(382f))、「心やさしく君を愛す」(K.348(382g))、「すばらしい愛の気持ちは」(K.119(382h))作曲。
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・フランス、ラファイエット侯爵、アメリカより帰国、勲章を授けられ少将に昇進。
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2月5日
・スペイン、メノルカ島を攻略
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2月13日
・フランス、イギリス領セント・クリストファー占領。
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2月15日
・アイルランド、アルスターのダンガノン、アイルランド義勇軍大会。
ダンガノン決議。アイルランド自治の要求。
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2月22日
・イギリス、ノース政権、元国務大臣コンウェー提案の米独立戦争継続非難動議を一票差で否決。
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2月27日
・イギリス、議会、対米和平動議を僅かの差で可決。
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3月
・この頃、モーツアルト、次のカノンを作曲(?)。
K.382a (229) 「彼女は死んだ」ハ短調、K.382b (230) 「ものみな幸なり」ハ短調、K.382c (231) 「俺の尻をなめろ」変ロ長調、K.382d (233) 「俺の尻をなめろ」変ロ長調、K.382e (234) 「夏のさなかに私は食べる」ト長調、K.382f (347) 「泡立つ酒がグラスに光るところ」ニ長調、K.382g (348) 「心優しく君を愛す」 ニ長調、K.382h (119) アリア「すばらしい愛の気持ちは」。
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3月1日
・フィリピン、植民地政庁によるタバコの強制栽培・専売制度始まる(~1882)。
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3月3日
・モーツアルト、ウィーン(ブルク劇場と推測できる)で最初の四旬節演奏会を開催。
K.382 ピアノ独奏曲ロンド(ニ長調)演奏(1773年のピアノ協奏曲K.175のフィナーレをウィーン趣味に合わせて書き換え)。
またモーツァルト得意の即興演奏があった。
この旧作の協奏曲にニ長調のロンド楽章(K382)をつけての演奏は、「当地で大喝采を博した)(3月23日付)と報告されている。
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3月15日
・イギリス、ノース政権の不信任案が僅差で否決。
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3月17日
・スイス、物理学者ベルヌーイ(82)、没。
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3月19日
・イギリス、ノース首相辞任。
27日、チャールズ・ロッキンガム(52)、首相に就任。第2次ロッキンガム内閣。
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3月29日
・[清・乾隆47年2月16日]乾隆帝の命で編纂の7万9千余巻「四庫全書」完成。
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4月
・ジュネーヴ、政治権力から遠ざけられた市民が形成した「保安委員会」が、政治機関を掌握し、それまで全権の保持者であった貴族指導者たちを逮捕。
貴族層で自由な者は、自分たちの伝統的同盟者(ベルンとチューリッヒ両州、ピエモンテ・サルデーニヤ王国、フランス)に支援を求める。
これら諸国の送った部隊は革命勢力を逮捕し、追放し、貴族層を権力の座に復帰させる。
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・アイルランド、新任総督ポートランド公、義勇軍指導者グラタンに入閣要請、拒否。
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・モーツアルト<ピアノのためのプレリュードとフーガ ハ長調> (K394(383a))作曲。帝室図書館長、教育・出版閲覧庁長官ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(1731~1803)と知り合う。音楽家のパトロン、バッハ・ヘンデルの精髄を紹介。
行進曲ハ長調(K.408No.1(383e))、ハ長調(K.408No.3(383F))、交響曲用メヌエットハ長調(K.409(383f))作曲。
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵との交際とバロック音楽、コンスタンツェのフーガ趣味
「ぼくは毎日曜日の十二時にヴァン・スヴィーテン男爵のところに行きますが、ここではヘンデルとバッハしか演奏されません。ぼくはバッハのフーガを集めましたが、ゼバスティアンのもの、またエマーヌエルやフリーデマン・バッハのものです。 - それにまたヘンデルのものもですが、まだこれだけが不足しています。それに男爵にはエーベルリーンのも聴かせたいと思っています。」(4月10日付手紙)
「毎日曜日に行っているヴァン・スヴィーテン男爵は、ヘンデルとセバスティアン・バッハの曲を全部、ぼくがそれらを通して弾いたあと、家に持って帰らせてくれます。コンスタンツェがフーガを聴いたところ、とても気に入ってしまいました。彼女はフーガしか聴こうとしませんが、なかでも(この分野では)ヘンデルとバッハのものだけです。」(4月20日付け姉ナンネルル宛て)
婚約中のたコンスタンツェはモーツァルトが暗譜でフーガを弾くのを聴いていて、なぜフーガを一つも書かないのかと尋ねたという。彼が書かないというと、彼女は音楽の中でとりわけ技巧的で美しいものをどうして作曲しないのだと文句を言い、モーツァルトが彼女のためにフーガを書くまで諦めなかった。
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵は、マリア・テレジア女帝の侍医へーラルト・ヴァン・スヴィーテンの息子で、外交官。1770年~1777年、ベルリンに赴任していた頃、バッハ父子をはじめとする北ドイツ・バロックを知り、これに心酔した。その前に滞在したロンドンではヘンデルの作品を知ったと思われる。
ウィーンに落ち着いた男爵は宮廷図書館長や教育ならびに出版検閲庁の長官などを務め、ヨーゼフ2世の統治を補佐した。音楽愛好家として、作曲もよくした彼は、貴族仲間を集めて、「音楽協会」(ウィーン楽友協会の前身)を設立し、帝都の音楽活動に大きな寄与を成した。さらに1770年代から「音楽芸術家協会」などを中心に、定期的な演奏会を催す。この協会はウィーンの最初の定期的演奏機関であったが、
四旬節やクリスマスなどの聖週間に、合唱と管弦楽を伴う大規模な演奏会を開き、ヘンデルのオラトリオ作品やハッセ、エマーヌエル・バッハなどの作品をレパートリーとした。
彼はモーツァルトの晩年にも重要な役割を果たし、ハイドンの晩年、ベートーヴェンのウィーンでの初期の活動にも影響を及ぼした。
このバロック音楽との触れ合いと奇妙な関係をもっているのは、コンスタンツェのフーガ趣味である。コンスタンツェはフーガに執着して、モーツァルトが曲を書くまでは承知しなかったという。そして、実際にも、この時期にモーツァルトはかなりの数のフーガの断片を作曲したと思われる。
『クラヴィーアのためのフーガ ホ短調』(K deest)をはじめ、『クラヴィーアのためのフーガ 変ホ長調』(K153=K375f)、ヘ長調(K375h)など。
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4月10日
・モーツアルト、アリア「我が感謝を受けたまえ、やさしき保護者よ!」(K.383)作曲。
毎年4月に行なわれる「音楽家の未亡人と孤児のための慈善演奏会」に合わせて、アロイジア・ランゲ夫人のために。
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4月12日
・セインツの海戦。英ロドニー提督、ドミニカ沖の戦いでフランス艦隊破る。
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4月19日
・アイルランド、義勇軍指導者グラタン、制服義勇軍を率い議会に行進、空砲発射。アイルランド人権利宣言ようやく採択。
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4月20日
・フランス、ピエール・ラクロ、小説 「危険な関係」を発表。
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4月20日
・モーツアルトから姉ナンネルルへの手紙。コンスタンツェが初めて添え書きする。
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