・・・パレスチナ人はオスロ合意後の経済ブームからは明らかに疎外されていた。最大の障害となったのは、一九九三年に実施されて以来現在(二〇〇七年)に至るまで、一度も解除されずに続いているイスラエルの封鎖政策である。
ハーバード大学の中東研究者サラ・ロイによれば、一九九三年に突如境界線が封鎖されたことによってパレスチナの経済は壊滅的状態に陥ったという。
「和平プロセスの間にもっとも深刻な経済的打撃を与えたのが封鎖であり、もとより弱体だったパレスチナ経済に甚大な打撃を与えることになった」と、彼女はあるインタビューで語っている。
パレスチナ人の労働者は働きに行けず、商人は商品を売ることができず、農民は自分の畑に行くこともできなくなった。占領地における一九九三年の一人当たり国民総生産(GNP)は前年比で三割近くも落ち込み、翌九四年にはパレスチナの貧困率は三三%上昇した。
一九九六年には、「パレスチナ人労働者の六六%は失業するか、きわめて不完全な雇用状態にあった」と、封鎖政策の経済的影響について広範囲に研究するロイは言う。
パレスチナ人にとってオスロ合意がもたらしたのは「山場の平和」どころではなかった。市場は消滅し、仕事は激減し、自由は奪われ、そして何よりユダヤ人の入植地拡人によって土地はどんどん奪われていった。こうした理不尽きわまりない状況が、占領地のパレスチナ人の怒りを一触即発の状態へと追い込んだ。
二〇〇〇年九月、当時の外相でありリクード党首のアリエル・シャロンがエルサレムのイスラム聖地アル・ハラム・アル・シャリーフ(ユダヤ人にとっては「神殿の丘」)に足を踏み入れたことをきっかけにその怒りは爆発し、第二次インティファーダ(アル・アクサー・インティファーダ)へと発展していった。
和平交渉決裂
二〇〇〇年のキャンプ・デービッド会談や翌年一月のタバ協議で、アラファトが提示された条件に満足しなかった・・・。・・・言われてきたほどの好条件が示されたわけでもない・・・。・・・
キャンプ・デービッドとタバの両方でイスラエル政府代表として交渉の席についたベン=アミでさえ、二〇〇六年には政府の公式見解に反してこう述べている。「キャンプ・デービッドでパレスチナ側がみすみす好機を逸したとは思わない。私がもしパレスチナ人だったら、やはり提案を拒否していただろう」
2001年以降、イスラエルが和平交渉に見切りをつけた背後にある経済要因
(和平に依存しない経済の台頭)
・・・九〇年代初め、イスラエルの経済エリートたちは経済発展のために和平の実現を望んでいた。
だがその後、和平プロセスが進む間に彼らが築いた繁栄は、当初考えられていたように和平に依存するものではなかった。
グローバル経済において情報テクノロジーというニッチ市場に活路を見出した結果、イスラエルの経済成長は、それまでのようにベイルートやダマスカスに重い貨物を輸送するのではなく、ロサンゼルスやロンドンへソフトウエアやコンピューター・チップを送ることで達成されるようになった。
その結果、周辺アラブ諸国と友好的関係を保ち、占領地での支配体制に終止符を打つ必要性は大幅に薄れたのだ。もっとも、ハイテク・ブームはイスラエル経済の変革の第一幕にすぎない。
第二幕はITバブルがはじけた二〇〇〇年以降に訪れる。ハイテク・ブームが去ったあと、イスラエルの主要企業はグローバル市場で次のニッチ・ビジネスを見つける必要に迫られた。
ハイテク経済への依存度が高かったイスラエルは、ITバブル崩壊の影響を大きく受けた
・・・イスラエル経済は急降下し、二〇〇一年六月には、およそ三〇〇社のハイテク企業が倒産し、数十万人が解雇されるだろうとアナリストたちは予測した。テルアビブのビジネス紙『グローブ』は、二〇〇二年は「イスラエル経済にとって一九五三年以来最悪の年」だったと見出しで宣言した。
イスラエル国防軍が新ビジネスの起業支援とも呼べる役割を果たした
(ITバブルによる経済成長からセキュリティー・ブームによる成長へ)
同紙によれば、これ以上の景気悪化が食い止められたのはイスラエル政府がただちに介入して、〇・七%という大幅な軍事費増大に踏み切ったからだという(財源の一部は社会福祉予算を削ることで賄われた)。さらに政府はハイテク業界に対し、従来の情報・通信分野からセキュリティーや監視の分野へと手を広げるよう奨励した。・・・
イスラエルは国民皆兵制だが、徴兵期間中、若い兵士たちはネットワーク・システムや監視装置などのハイテク技術を身につける。彼らは兵役が終わると、軍隊で得た知識を生かしたビジネスに乗り出したのだ。
こうしてピンポイントのデータ・マイニングから監視カメラ、テロリスト・プロファイリングまで、さまざまな分野に特化したおびただしい数の新規事業がスタートした。
9・11以降、こうしたサービスや装置に対する需要が爆発的に拡大したことを受け、イスラエルは新たな国家経済構想を打ち出す。・・・
リクード党の強硬路線とシカゴ学派の経済理論とがまさに完壁な形で合体し、それをシャロン政権のベンヤミン・ネタニヤフ財務相と、イスラエル中央銀行総裁に就任したスタンレー・フィッシャー(かつてIMF幹部としてロシアとアジアでショック療法を実施した立役者)が具現化したというわけだ。
バブル崩壊後の世界で、イスラエル経済はほとんどの欧米諸国よりも好調に推移していた
イスラエル経済は二〇〇三年には驚異的回復を遂げ、翌二〇〇四年には奇跡的とも言うべき成長を見せる。・・・
その成長のカギは、多種多様なセキュリティー・テクノロジーを取りそろえるデパートのような立ち位置にあった。タイミングも申し分なかった。世界各国の政府がいっせいにテロリスト狩りのための装置や、アラブ世界における諜報活動のノウハウを求めるようになったからだ。
リクード党主導のもと、イスラエルは過去何十年間もアラブやイスラムの脅威と戦ってきた経験と知識をセールスポイントに、最先端のセキュリティー国家のショールームとしての自らを欧米諸国にこう売り込んだ - あなた方はテロとの戦いに乗り出したばかりだが、われわれは建国以来テロと戦ってきた実績がある。わが国のハイテク企業や民間スパイ会社の手法をぜひ採用されてはいかがですか、と。
大規模な国土安全保障会議(トレードショー)を主催
イスラエルは一夜にして「テロ対策技術の”頼れる”国」(『フォーブス』誌)へと転身、二〇〇二年以降少なくとも六回にわたって世界中の政治家や警察幹部、企業CEOが参加する大規模な国土安全保障会議を主催し、その規模や内容は年々拡大している。・・・
二〇〇六年二月に開催された会議では、期間中に「テロとの戦いの舞台裏を訪ねる」と銘打ったツアーが企画され、FBI、マイクロソフト、シンガポールのマス・トランジット・システムなどの代表がクネセット(国会議事堂)や神殿の丘、嘆きの壁といった観光スポットを見て回った。彼らはまるで要塞のような警備システムを見学して感嘆の声を上げ、自国での応用の参考にした。
二〇〇七年五月にはアメリカの大手空港数カ所から管理責任者を迎え、テルアビブ近郊のベン・グリオン国際空港で採用されている搭乗者プロファイリングおよびスクリーニングの方法を学ぶワークショップを実施。カリフォルニア州のオークランド国際空港航空部門の責任者スティーヴン・グロスマンは、このワークショップに参加した理由を「セキュリティー分野ではイスラエルの右に出るものはいないから」と説明した。・・・
これらの会議は政策会議ではなく、イスラエルのセキュリティー関連企業の手腕を見せつけて大きな利益に結びつけることを目的にしたトレードショーだった。
その結果、二〇〇六年にはイスラエルの対テロ関連の製品やサービスの輸出は一五%増加し、二〇〇七年にはさらに二〇%増の年間一二億ドルに達すると見込まれている。
また、一九九二年に一六億ドルだった武器輸出高は二〇〇六年には過去最高の三四億ドルに達し、イギリスを抜いて世界第四位の武器輸出国になった。ナスダック市場上場のテクノロジー株はイスラエルが世界最多であり(その多くはセキュリティー関連)、アメリカに登録しているテクノロジー関連特許の数も中国とインドの合計を上回る。今やイスラエルの輸出高の六割がテクノロジー分野で占められ、その多くはセキュリティー関連である。
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