千葉 大山千枚田 2016-09-16
*天正3年(1575)4月
・北条氏の小山氏攻め開始(前年11月の下総関宿城攻略に続いて)。
北条氏政、祇園城(小山秀綱、栃木県小山市)西方の支城榎本城(下都賀郡大平町)を攻撃。やがて落城。小山氏は常陸太田の佐竹義重などを頼るが、祇園城も陥落。
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4月1日
・京都所司代村井貞勝、丹羽長秀と共に徳政として公家の本領を還付することを命じられる(「信長公記」)。
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4月1日
・信長、公家の失った旧所領還付命令(「主上・公家・武家ともに御再興」)。(「信長公記」巻8)
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4月3日
・相国寺にて鞠会。村井貞勝、配膳役を命じられる (宣教卿記)。
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4月4日
・明智光秀2千余、河内へ出陣(「兼見卿記」1)。
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4月5日
・武田勝頼2万7千、甲府出陣。
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4月5日
・家康、武田勝頼に内通した近臣大賀弥四郎を岡崎で処刑。
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4月6日
・信長1万余、京都進発、本願寺攻めに向かう。八幡(京都府八幡町)に布陣。
7日、本願寺に協力する河内・和泉の勢力を潰すため河内の若江に布陣。
8日、三好康長・遊佐信教の高屋城(羽曳野市)攻撃。信長自身は駒ヶ谷山(羽曳野市)より戦況を見物。
12日、高屋城攻めは部将に任せ、信長は摂津住吉へ。
13日、摂津天王寺着。畿内のほぼ全信長軍10万余が天王寺・住吉・遠里小野周辺に布陣。根来衆も信長方につく。
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4月6日
・村井貞勝、吉田兼和の訪問を受ける(兼見卿記)。
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4月7日
・本願寺顕如、北陸道(越前・加賀)門徒中へ、信長の「破却宗旨之企」により石山に籠城したので兵粮米の遅滞無き搬送を命令し、「仏法擁護再興」の機会であると通達(「浄光寺文書」)。
越前を支配する門徒衆にとり、信長の侵攻にそなえるため、この要請には応じられる状況にはない。
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4月8日
・村井貞勝、中山孝親・甘露寺経元より、債務の破棄を示した「寄破(きは)文書目録」を提出される。
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4月11日
・仏、ラ・ロシェル市長ら9人のユグノー教徒代表、和平交渉のためアンリ3世と接見。
王妃、カトリーヌ、ダランソン公、ナヴァール王同席。
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4月14日
・信長、石山本願寺に迫り、農作物を荒らす。
16日、摂津遠里小野(住吉区)に移り農作物を荒らす。
17日、堺近くの三好党の十河因幡守・香西越後守(元亀3年4月より信長に敵対)の和泉新堀城(堺市新堀町)攻撃。
19日、新堀城、落城。十河因幡守以下170が討死。香西越後守処刑。蓮如が開いた堺の信証院も焼亡。松井友閑を通じて高屋城の三好康長降伏(長慶の叔父、信長はこれを赦免、後、河内南半国を与える)。塙直政に命じて河内国内の城を破却。河内一帯の三好党全滅(本願寺の孤立化)。
21日、信長、京都へ引上げ。
27日、京都発。
28日、岐阜帰還。
「高屋に楯籠る三好笑岩(康長)、友閑(村井)を以て御侘(詫)言、御赦免候なり。塙九郎左衛門(直政)仰せ付けられ河内国中、高屋の城初めとして悉く破却、大坂一城の落去幾程あるべからず。」(「信長公記」巻8)。
しかし、①大坂石山城の本願寺、②丹波八上城(兵庫県多紀郡篠山町八上新高城山)の波多野秀治は頑強に織田軍団の進路を阻む。
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4月16日
・村井貞勝、徳政令に応じない者に対し、明日出頭することを命じる(宣教卿記)
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4月17日
・村井貞勝、徳政令に応じない者を出頭させ、応じるように厳重に申し渡す。
設永の徳政令を受けて、前権大納言中山孝親、蔵人頭左中弁中御門宣教らは、それぞれ借状を回収していった。
さらに4月7日、権大納言勧修寺晴右の屋敷に中山たちが集まり、「寄破文書目録」なるものを作成、翌日貞勝に提出した。
11日には、勧修寺邸での会合に信長の奉行として朝山日乗が加わり、借状を渡さない者に対する対策について相談があった。
貞勝に加えて、丹羽長秀が担当とされたようで、16日、2人の下代の者たちが、借状を渡さない者に対し、翌日に貞勝のもとに出頭するよう命令を出した。
そして、この日(17日)の申し渡しとなった。
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4月18日
・村井貞勝、中御門宣教ら公家衆の訪問を受け、酒宴を催す(宣教姻記)。
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4月21日
・武田勝頼、三河足助に出て奥三河各所で行動。
医王寺山に本陣を置き家康に属する長篠城500(山家三方衆奥平信昌(21)、元作手城主奥平貞能の子)包囲。更に南方のニ連木城(豊橋市)・牛久保城(豊川市)をも攻撃。
山家三方衆:奥三河山間の三所の土豪の総称。
奥平:天正1年8月武田から家康に寝返る。人質は処刑される。
奥平信昌:のち美濃加納藩10万石、京都所司代。
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4月27日
・信長、大和国十市郷を3分割し塙直政・松永久通・十市遠長と十市後室が支配することを命令した「朱印」を発給。
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4月29日
・村井貞勝、吉田兼和の訪問を受ける(兼見卿記)。
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4月30日
・村井貞勝、堀某より、代官職を懇望される(宣教卿記)。
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■長篠合戦までの経緯
永禄11年(1568)、家康と信玄は連絡をとって、東西から今川氏真の領国(遠江と駿河)に侵入。
翌12年、氏真が家康に降伏し、旧今川領は家康と信玄が折半するが、駿河から遠江へ領国拡張を狙う信玄と、遠江経営を目指して、三河の岡崎から遠江の浜松へ居城を移した家康との関係は急速に悪化、翌元亀元年(1570)には敵対するにいたる。
翌2年(1571)、信玄は徳川領に侵入開始。まず遠江の高天神城を攻め、ついで三河の足助城(現、愛知県東加茂郡足助町)を落とした。
翌3年には遠江の二俣城(現、静岡県天竜市二俣町)を落とし、12月22日、浜松城の北にある三方ケ原で徳川・織田軍と戦う。
三方ケ原合戦について、『信長公記』巻5には、「十一月下旬に二俣城が包囲されたとの情報で、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を派遣したが、間に合わなかった。信玄は二俣城を落とした勢いに乗じて、堀江城(現、静岡県浜松市舘山寺町)に攻め寄せた。そこで家康も浜松城から出撃した」とある。
三方ケ原合戦は徳川・織田軍の大敗北となり、織田軍では平手汎秀が討死した。このことはのちに佐久間信盛の断罪状にあげられることになる。水野信元は、三河刈谷城(現、愛知県刈谷市)城主で家康の叔父、当時は信盛の与力(より有力な武将に配属された武士)であった。
翌天正元年(1573)、信玄は野田城(現、愛知県新城市)を落としたが、ここで病状が悪化し、帰国の途中死去した。跡を継いだ勝頼は、遠江と三河に軍を派遣して威勢を示した。
家康は8月、それまで武田氏に属していた奥三河の作手(つくで)城(亀山城。現、愛知県南設楽郡作手村)の城主、奥平貞能・信昌(当時は貞昌)父子を調略で味方につけた。家康は山間の一土豪にすぎぬ奥平氏に所領の安堵(現有利権の確認)、新恩の加増(新利権の追加)ばかりか、長女を貞昌に嫁がせる約束までした(長篠合戦の翌年に実行)。
この頃、武田氏の勢いになびく土豪が多い中で、奥平氏が家康のもとに走ったのは、この破格の待遇ゆえのことと推測できる。
さらに家康は、武田氏の土豪菅沼正貞の居城、長篠城を攻めて開城させた。
家康が打ったこれらの布石が、結果的に、長篠合戦の勝利につながることになる。
翌天正2年(1574)正月、勝頼は美濃の明智城(現、岐阜県恵那郡明智町)を攻めた。信長は尾張・美濃の兵を派遣し、自身も出動したが間に合わなかった。
二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其日はみたけ(現、岐阜県可児郡御嵩町)に御陣取。次日高野に至って御居陣。翌日馳向はるべきの処、山中の事に候の間、嶮難節所の地にて互に懸合ならず候。山々へ移り御手遣ひ(手勢を率いて直接戦闘を指揮すること)なさるべき御諚(ごじよう)半(なかば)の処、城中にていゝばさま右衛門(美濃の土豪、飯羽間氏)謀叛候て、既に落居是非に及ばず。(『信長公記』巻7)
さらに勝頼は、6月、徳川方の小笠原氏の守る高天神城を落とした。信長は援軍を率いて出動するが、またも間に合わなかった。
六月十九日、信長公御父子、今切(いまき)れの渡り(浜名湖の南端)御渡海あるべきの処、小笠原与八郎(長忠)逆心を企て、総領の小笠原を追出し、武田四郎(勝頼)を引入れたるの由、申し来り候。御了簡(りようけん)なく、路次より吉田城(現、愛知県豊橋市。家康の重臣、酒井忠次の居城)迄引帰へさせられ候。(『信長公記』巻7)
ここには小笠原長忠が総領を追い出したとあるが、実際には長忠自身が当主で、家康の援軍が来ないため開城した。開城後、城兵の一部は浜松へ退去し、一部は長忠とともに勝頼に仕えた。勝頼滅亡後、長忠は北条氏のもとに走ったが、信長の命で殺される。
家康の家臣、大須賀氏の家譜『大須賀記』には高天神城は5月12日に包囲され、6月17日に開城したとあり、また、興福寺多聞院院主の日記『多聞院日記』には京都で急報を受けた信長が5月16日に岐阜へ向かったとあり、時間的に救援が間に合ったと推測できる。
家康は高天神城から30kmの浜松城に留まって、救援に出動しなかった。単独で出動して武田軍と戦う自信がなかった。逆に、明智城と高天神城を奪ったことで、勝頼は自信をつけたと思われる。
これが、翌年(1575)5月の長篠合戦の伏線になる。
天正3年(1575)2月、家康は、奥平信昌を長篠城城主とし、一族の松平景忠らを加勢として守りを固めた。
3月には信長が家康へ兵粮を送り、家康はその一部を長篠城に入れた。同時に信長は、佐久間信盛を諸城の視察に派遣した。信盛は、長篠城および周辺の地理を検分したと思われる。長篠合戦の下準備は着々と整えられた。
3月下旬、勝頼は大軍を率いて足助に進出、作手をへて、家康に奪回された野田城を攻め、さらに吉田方面に出た。
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