千葉 マザー牧場 2016-09-16
*昭和19年1月7日、インパール作戦(ウ号作戦)が認可(大陸指1776号)される。
インド東北部インパール攻略。英印軍の反攻阻止・自由インド仮政府の拠点確保。
「南方軍総司令官ハ『ビルマ』防衛ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ『イムパール』附近東北部印度ノ要域ヲ占領確県スルコトヲ得」。
ここで、昭和17年からインパール作戦認可までの経緯を概観しておく。
昭和18年5月18日
第15軍参謀長小畑信良少将、関東軍情報支部長に転出。着任後3ヶ月。
小畑信良少将は、インパール進攻のための作戦計画の研究を命ぜられると、後方補給が困難だという理由で、牟田口軍司令官に反対の意見を述べた。小畑参謀長は輜重出身であり、後方補給に詳しく、自分の立案と要求を示し、それが実現されない限り、インパール進攻は困難、というよりむしろ不可能だと主張。
牟田口軍司令官は、そんな大げさな準備がなくては戦争ができんようでどうするか、日本軍はいかなる困苦欠乏にも耐えられる、と一蹴。口実を設けて、ビルマ方面軍に参謀長の更迭を要求した。
その結果、小畑参謀長は満州奉天の関東軍情報部支部長に左遷された。
後任は、牟田口軍司令官が特に指名した陸軍士官学校幹事久野村桃代(くのむらとうだい)少将であった。久野村少将は教育総監部が長く実戦経験に乏しい見るからに温和な人であった。部下の幕僚からは”無能村”と呼ばれた事もあったという。
牟田口構想は着々と地固めをしていった。
報道班員として第15軍についていた読売新聞社長谷川隆英記者は、次のように記している。
《小畑参謀長がインド作戦に真先きに反対した。後方主任の薄井誠三郎少佐、高橋巌大尉両参謀も小畑説を支持した。お気に入りの参謀として、牟田口中将が十八師団から連れてきた腹心の橋本洋中佐参謀までが反対した。
牟田口構想に賛成したのは、インド工作に経験のある情報主任の藤原岩市少佐参謀一人だけだった。高級参謀の木下秀明大佐と作戦参謀の平井文中佐は、賛否をお預けとしたが、幕僚の大勢としては牟田口案を支持せず、という意外な結論が飛び出したのである。
「ビルマとインドの交通路は、すべて南北にのびている。こんな場所で作戦を開始するには、海洋補給か航空補給をあおぐ以外方法はない。万一陸上部隊だけで、作戦を発起する場合は、まず道路の建設作戦からはじめなければならない」
小畑参謀長は輜重出身で、補給兵站作戦にかけては一方の権威であった。それだけに、自分の立案と要求を示して、これが実現ざれない限り、インド作戦は困難というより、むしろ不可能だと主張した。
この轍告を聞いて、牟田口中将は烈火のごとく怒った。すぐ全幕僚を集めて、
「軍司令官の命令がわからんか。幕僚が反対するとは何事か。軍司令官は出ようといっているではないか。こんな大けさな計算が何になるか。日本軍はどんな困苦欠乏にも平気だ」
「閣下のご意見ではございますが、補給の成算が立ちませぬ」と諌めると、牟田口中将は、
「糧は敵に求めよ。これでも戦争が出来んか」
こうたたみ込まれて一同は唖然として引きあげた。・・・》
6月17日
第15師団(祭、南京駐留)が、第15軍(在ビルマ)の戦闘序列加入を命ぜられる。
第15師団の岡田参謀長は、第15軍に装備・携行品についての希望を問合わせた。
第15軍からの返事によると、中に駄鞍(だあん、駄馬用の鞍)を用意せよというのがあった。これは、自動車の走れるような交通路がない、交通困難な山中に行くことが予想された。
他に、夏の被服、冬の被服、冬の外套、毛布を各自5枚ずつ用意せよというのもあった。熱帯地のビルマであるのに、冬の服装を必要とするのは、高山地帯に押しこまれるに違いないと思われた。
祭師団を上海からサイゴンに輸送する船にも、困難な問題があった。
兵員だけを輸送する船はなく、祭師団を輸送する船は、仏領インドシナの米を内地に運んでいた。内地で米を陸揚げし、そのあとの船内に兵員の寝棚や馬をつなぐ場所を作って、若干の軍用品をつむだけで上海に回航した。そこで祭師団の兵員を乗せてサイゴンに輸送すると、今度は寝棚などの設備をはずして、米を積んだ。
こうして船は三角形の航路を辿るから、祭師団の輸送には長い時間がかかることになった。
6月24日~27日
ラングーンのビルマ方面軍司令部でインパール作戦研究のための兵棋演習。総軍がビルマ防衛線の推進に関心を持ち、研究を要望したため。
演習目的は、ビルマの防衛線の位置を決めることにあった。
兵棋演習の方法は、各部隊を表す隊標を、担当の演習員が地図の上に動かして、実戦の状況を作りだして検討をするという方法。
これを見学するために、大本営から第二課(作戦)の竹田少佐の宮と南方主任参謀の近藤少佐が派遣されてきた。
総軍からも、稲田総参謀副長以下各主任参謀が参加。シンガポールの第三航空軍からは高級参謀佐藤直大佐が出席。
演習員は第15軍の久野村参謀長以下各主任参謀と、隷下の各師団の参謀長と作戦主任参謀。
第15軍の計画は、インド東北部のインパールを攻略して、その付近にビルマ防衛線を進める目的で、3個師団を3方面から分進させる。
第33師団(弓)は南から突進。
第15師団(祭)は東北から策応して包囲の形で攻撃。
第31師団(烈)は北のコヒマを占拠して、アッサムへの道を断って、インパール地区を孤立させる。
この演習では、最大の問題とされていた後方補給についての詳しい研究が行われなかった。演習の初めに、輸送機関、渡河作業部隊、弾薬その他軍需品の集積についての基本事項を示しただけであった。
牟田口軍司令官は、念願実現のための絶好の機会がきたと考えていた。
現在の状態では、ウィンゲート挺進隊にかきまわされるくらいだから、ビルマ防衛はできない。英軍の戦力は大きく、制空権を奪われているから、このままでは自滅のほかはない。それよりも先に、英軍の反攻拠点を押えるべきである。牟田口軍司令官は、なんとしてもビルマ方面軍・南方軍に計画を承認させ、大本営の認可を得なければならないと決心していた。
牟田口軍司令官は、竹田宮に直接に訴えて、竹田宮を通じて大本営を動かすべきだと決意した。
26日夜、牟田口軍司令官は竹田宮に拝謁して、インパール作戦の必要なことを説明したうえで、大本営の認可を願った。
当時、竹田宮は明敏なことで知られていた。陸大卒業時は、恩賜の新刀をもらう6名の優等生と同等の実力を持っていた。
竹田宮は牟田口軍司令官の説明を聞いたあと、はっきりと、現在の15軍の案ではインパール作戦は不可能だと答えた。今のような不完全な後方補給では大規模な進攻は困難だという理由だった。
翌27日、兵棋演習は終り、ビルマ方面軍の中参謀長が講評した。
大きな難点としたのは、軍の主力をインパール以北に向ける使い方であった。ことに北のコヒマに烈の一個師団全部を使うのは適当でないとした。烈は、一部をコヒマにまわすだけにして、その主力は軍の予備隊として残しておくべきである、と指摘した。
稲田副長は、もともと、インパール攻撃の主力は南から持って行く考えであった。補給の面では、第15軍の計画を根本から否定し、研究修正しなければ許可をしがたいと結論した。
更に、ビルマ方面軍の高級参謀の片倉衷(ただし)大佐が、牟田口計画に真っ向から反対していた。片倉高級参謀は相手かまわず大声で叱りつけ、ロをきわめて罵るので有名であった。牟田口軍司令官がインド進攻の実施を要求してくると「牟田口のばか野郎が」と罵って、反対意見を参謀に伝えさせた。参謀は牟田口軍司令官のところに行って叱り飛ばされ、帰ってきて今度は片倉高級参謀から怒鳴りつけられた。
このため、幕僚は片倉高級参謀を避けるし、部内の将兵の気持ちは萎縮して、軍司令部の空気は陰惨であると言われた。激しい性行で、嫌われていて、また、政治的に動きすぎて方面軍の純正な作戦指導を妨げていると非難された。
片倉衷の名は、早くから有名であった。満州事変を画策し、実現させ、関東軍を暴走させた首謀者の一人であった。
満州事変当時、奉天総領事代理だった森島守人の著書『陰謀・暗殺・軍刀』(岩波新書)で、つぎのように書いている。
《板垣征四郎大佐を筆頭に、石原莞爾中佐、花谷正少佐、片倉衷大尉のコンビが関東軍を支配していたので、本庄司令官や三宅光治参謀長は全く一介のロボットにすぎず、本庄司令官の与えた確約が取り消されることがあっても、一大尉片倉の一言は、関東軍の確定的意志として必ず実行されたのが、当時における関東軍の其の姿であった》
河辺軍司令官はこうした状態を打開しなければならず、総軍の稲田総参謀副長に助力を求めた。
当時、稲田副長は総軍の作戦を、一人できりまわしていた。寺内総軍司令官も黒田総参謀長も、稲田副長に任せきっていた。頭も明敏で、遠慮なく痛烈な異見をはく反骨の人であった。
河辺軍司令官は、近く兵棋演習を行って15軍の考えを質すから、その時に牟田口軍司令官の暴走を押えてもらいたいと稲田副長に依頼した。
稲田副長は、このために大本営に連絡して参謀の派遣をたのんだ。竹田宮と近藤参謀には、シンガポールで会談して、稲田副長の考えを伝えた。牟田口軍司令官の性格から見て、宮殿下にぴしゃりと押えてもらうのが、一番効果があると思われた。
竹田宮も、稲田副長の考えに同意した。
竹田宮がラングーンで、牟田口軍司令官の懇願を退けたのもこうした事情からであった。
兵棋演習が終ったあと、河辺軍司令官は稲田副長に感謝して、丁寧に礼をのべた。
兵棋演習の結論としても、牟田口計画は不備不確実であり、方面軍や総軍の意図にも反するとされた。
しかし、インパール作戦そのものが否定されたのではなかった。牟田口軍司令官の計画は拙速として否定され、実行可能の改案を要求された。インパール作戦が必要であるということは、結論でも認められた。
総軍では、こうした事情を大本営に伝えて、準備を促すことになり、稲田副長が東京に派遣された。
7月12日~1週間
南方軍稲田参謀副長、東京にてインパール作戦に必要な部隊増加配備を要請し承認を得る。
この頃には、大本営もインパール作戦に期待をかけるようになっていた。
稲田副長は東条英機大将に会見した。東条大将は、インドに行くのは大丈夫かと心配した。稲田副長は、
「チャンドラ・ボースをインドにいれてやれば、いいのですよ。それには、できるだけ損害をすくなくする方法を考えることです」
と、作戦の狙いを示すと、東条大将は喜んだ。
インド国民軍を率いるポースには東条大将は期待をかけていた。
別れ際に、東条大将は、
「まあ、よく用心してやってくれ」
と、繰り返した。
「いや、心配せんでください。むちゃはさせませんから」
稲田副長は牟田口計画をあくまで押える積りだった。
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