千葉 大山千枚田 2016-09-16
*明治39年(1906)
この年
・沖野岩三郎(31)、明治学院神学部を卒業、紀州の新宮教会の代理牧師として赴任。夏期の伝道旅行に行った縁で大石誠之助を知った。
明治43年、試験に合格して正式の牧師となる。
沖野岩三郎:
和歌山県の日高川に近い寒川村生まれ。
極貧の境遇に育ち、13歳~17歳まで土方の労働生活を続ける。
18歳で和歌山の中学予備校に入り、翌年、小学校の雇い教師となり、22歳で小さな小学校の校長になる。
明治37年29歳で明治学院神学部に学ぶ。
日露戦争後の東郷大将の凱旋式の際、学校が学生を参加させようとしたときストライキでそれに反対。
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・パラグアイ、自由党フェレイラ大統領就任。まもなく反人民的政権に変質。
後、チャコ戦争の期間を除いて36年間自由党政権が続く。
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・フィリピン、ブラカン州でフェリペ・サルバドールの反乱。民族独立を綱領とする政党禁止令廃止。
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1月
・韓帝、英「ロンドン・トリビューン」記者ストーリーを通じ国書を列強に送り、共同保護を要望。
中国駐在のストーリーが上海亡命中の韓国高官より依頼され、漢城に潜入。国書を受取り、中国芝罘でイギリス総領事に手渡す。国書がイギリス政府に届いたかは不明。
12月6日、「トリビューン」紙に国書記事。
翌'07年1月16日、「大韓申報」に国書記事。
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・この月より、島村抱月の早稲田大学での講義が始まる。
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・「早稲田文学」復刊。
島村抱月の評論「囚われたる文芸」(「早稲田文学」)。
「去年八月三日の夜は、我れ伊太利ナポリの港に舟がゝりして感慨の事ども多かりし」という、鴎外「即興詩人」か高山樗牛の美文批評を思わせるような書き出しで、イタリアのルネッサンスを論じ、更に中世の哲学、ダンテ、ヴァージルを論じ、ゲーテ、パイロン、シェイクスピアから近年のロシア文学にまで及ぶ一種の文化史的文学概論。
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・「婦人世界」創刊。実業之日本社。村井弦斎が編集顧問就任。3年後の1号当り10万部(最高31万部)となる。
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・『芸苑』創刊。
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・漱石(39)、小説「趣味の遺伝」(「帝国文学」)
旅順で戦死した親友の物語という体裁。
日露戦争開戦の情景を
「陽気の所為(せい)で神も気違になる。『人を屠りて飢えたる犬を救へ』と雲の裡(うち)より叫ぶ声が、逆(さか)しまに日本海を撼(うご)かして満洲の果迄響き渡った時、日人(にちじん)と露人ははっと応えて百里に余る一大屠場を朔北(さくほく)の野に開いた」
と描出す。
以下、野犬の群れが日本兵やロシア兵に襲いかかり、血をすすり、肉を食いちぎり、骨をしゃぶる「一大屠場」の様子が生々しく描き出される。
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・漱石『猫』第8回
「普通の人は戦争とさへ云へば沙河(しやか)とか奉天(ほうてん)とか又は旅順とか其外に戦争はないものゝ如くに考へて居る」が、「臥龍窟主人苦沙弥先生と落雲館裏(り)八百の健児との戦争は、まづ東京市あって以来の大戦争の一として数へても然るべきものだ」という。
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・河上肇、『社会主義評論』創刊。
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・伊藤左千夫、『野菊之墓』発表。
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・啄木(20)一家困窮。父一禎、青森県野辺寺常光寺の葛原対月のもとに身を寄せる。
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・伊藤首相、劇場創立につき話合う、渋沢栄一、福沢捨次郎
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・児玉源太郎大将、満州経営委員会委員長に任命
(委員:外務次官珍田捨己・外務省政務局長山座円次郎・大蔵次官若槻礼次郎・大蔵省主計局長荒井賢太郎・逓信次官仲小路廉・逓信省経理局長関宗喜)。
「満鉄」の基本的性格を規定(6月、設立に関する勅令公布)。
4月、児玉は参謀総長に任命。台湾総督には佐久間左馬太大将、民政長官は後藤新平のまま。
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・大湊海軍修理工場でストライキ。軍隊が鎮圧。
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・救世軍、東京芝の本部で失業者救済のために無料宿泊・職業紹介を開始。
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・宮城県教育委員会、全国の教育会に凶作下の学童救済を訴える。
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・東京電燈会社、八王子電燈会社を買収。
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・日本興業銀行、北海道炭鉱鉄道株式会社外債100万ポンド募集。
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・法律第1号公布。臨時軍事費支弁のため、公債募集。起債法定額433,000千円。
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・ゲルハルト・ハウプトマンの戯曲『そしてピッパは踊る』、ベルリンで初演。
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・ロシア皇帝ニコライ2世、バルト地方の情勢不安に対処するため、軍隊配備。
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1月1日
・小村寿太郎、清国より帰国。
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1月1日
・3月10日(奉天入場日)を陸軍記念日、5月27日(日本海海戦日)を海軍記念日と決定。
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1月1日
・足尾銅山で日本鉱山労働組合結成。
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1月1日
・英、外国人法発効。
移民希望者は入国許可前に経済状態・心身健康状態に関する厳しい尋問を受ける。露や中欧からの貧しい移民希望者に大きな打撃。
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1月1日
・ヘルムート・フォン・モルトケ、独参謀総長就任。
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1月4日
・福地桜痴(66)、没。
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1月4日
・秋田県院内鉱山内で出火。焼死者101人。
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1月4日
・ベルリン警察、米人舞踊家イサドラ・ダンカンの舞踊を「猥雑」であるとして公演禁止。
ダンカンの舞踊は、古典音楽に合わせた単純で表現力豊かな舞踊。
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1月6日
・オークランドの社会党本部で幸徳秋水歓迎演説会。幸徳演説「社会主義の要領」、聴衆200。
7日夜、平民社小集。
13日夜、サンフランシスコ日本人福音会で講演。
14日、前日と同じ場所で第1回社会主義研究会。来会20。
21日、ロシア「血の革命日」記念会。
22日、サンフランシスコのリリックホールでロシア革命同情会。1200参加。
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1月7日
・第1次西園寺内閣成立
初めて薩長人以外が首相となる。政党総裁が首相となる。但し、政友会員は原・松田のみ。山縣派・薩派・貴族院代表の混成。
首相西園寺公望(56)、外相加藤高明、内相原敬(50)、蔵相阪谷芳郎、陸相寺内正毅、海相齋藤實、法相松田正久、文相西園寺公望(臨時兼任)、農商務相松岡康毅、逓信相山縣伊三郎、内閣書記官長石渡敏一、法制局長官岡野敬次郎(1月13日~)。
蔵相阪谷芳郎(元老伊藤の希望)、文相牧野伸顕(薩摩出身、同郷の元老松方正義への配慮)、農商相松岡康毅(貴族院への配慮、桂の推挙)、逓相山県伊三郎(山県有朋の養嗣子、元老山県への配慮)等、元老や桂に配慮。
組閣過程で、桂は西園寺としばしば面会、新内閣組織の「手伝人」という状態と、桂は自ら述べる(井上馨宛桂太郎書状、1月4日付)。
内相原敬の奮闘:
①内務省(山縣派官僚の拠点)主要ポストを腹心で固める。次官吉原三郎(前地方長官)、警保局長古賀廉造(前検事、司法学校で同窓)、警視総監安達兼道、地方局長床次竹二郎。
②警視庁改革。首相・内相両属を内務省直轄に変更、山縣の腹心大浦兼武の勢力を一掃。大浦の横暴に反感を持つ山縣派筆頭内務官僚芳川顕正の賛同を得て実行(旧勢力の内部矛盾を利用)。
③地方官75人大異動(内、知事6名)。ボス的老朽官僚を一新、新進を起用。
④事務整理委員会設置。時代遅れの法令40余を改定。
⑤山縣派官僚の地方における牙城である郡制に廃止は、明治39~40年の第23議会の貴族院で否決。
⑥社会主義運動に対する弾圧政策をある程度まで自由と合法性を認める方向に修正。
西園寺は2代目お鯉を世話し、桂はお鯉を呼び戻す。4人がお鯉の妾宅で酒をのむこともあったらしい。
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1月7日
・在米日本公使館(ワシントン)・在独日本公使館(ベルリン)を大使館に昇格。
駐米日本大使に青木周蔵、駐独日本大使に井上勝之助を任命。
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1月7日
・これまでの生活を清算し伊香保に山籠りを始める決心をした徳富蘆花夫妻は、年末から1月6日までを逗子の父母の家に泊まり、6日は青山の兄、蘇峰の家に泊まって、この日、伊香保に出発した。
大晦日には、蘇峰夫妻とその子供たち、蘆花夫妻が逗子の家に集まったので、老父母は満足していた。
蘆花は家財を整理し、家を畳んだとき、三菱銀行に1,000円の貯金があった。1年間は心配なしに暮らせるだけの金であった。
伊香保で、蘆花は、石川三四郎に長い手紙を書き、その手紙の末尾に蘆花は、この頃堺利彦が長く使っていた枯川という号をやめたのにならって、蘆花という号をやめた旨を宣言して次のように書いた。
「小生は堺兄に倣ふて『蘆花生』の号を廃めたり、今後は徳富健次郎を以てすべての場合に御呼び被下度候」
この手紙が「新紀元」に発表されると、同人の安部磯雄が、世間多事の今日山に引籠るのは賛成できない、と書いて来た。それに対して徳富健次郎は「小生は大兄の健美を羨む、小生の傷は重い」と返信をした。
徳富の伊香保温泉での日常生活は、第一が四福音書を読むこと、第二にトルストイの著作を読むことであった。彼は9年前30歳のとき、民友社発行の十二文豪叢書の一巻として「トルストイ」を書いて出版したこともあり、昔からトルストイは愛読していた。その小説類はたいてい読みつくしていた。いま彼は英訳の”What to do?”を読んでいた。
伊香保へ来てから、彼はトルストイあての英文の手紙を書き、それに英訳の「不如帰」と民友社版の自著「トルストイ」を添えて送った。
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1月10日
・英仏、軍事協議開始(海軍も含む)。仏が独から攻撃を受けた場合、英に対仏協力義務を課す。
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1月11日
・[露暦1905年12月29日]社会革命党(エスエル)党、第1回大会(~17日)。綱領採択。
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1月11日
・幸徳秋水「日米関係の将来」(邦字新聞「日米」)。将来起こるべき日米戦争未然防止の訴え。
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1月12日
・第2軍司令官奥大将凱旋。
14日、第3軍司令官乃木希典大将凱旋。
17日、第4軍司令官野津道貫大将凱旋。
20日、鴨緑江軍司令官川村景明大将凱旋。
後、部隊の復員も進み、4月22日、陸軍は「全ク平時ノ姿勢」に復帰。
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1月12日
・英総選挙。自由党が過半数。キャンベル・バナマン、首相留任(~1908)。労働代表委員会から29名当選。
2月16日労働代表委員会、「労働党」と改称。
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1月14日
・日本平民党結成。西川光二郎・樋口伝ら。普通選挙期成目的とする。
樋口伝は同志社を中退後、さまざまな職業を経て1904年頃から社会主義を唱え始め、西川らと行動を共にする。
日本平民党は、結党の目的として「普通選挙の期成を計るを目的とす」を掲げるにとどめ、社会主義を前面に出さなかったので、西園寺内閣はこれを受理した。
1月28日、堺利彦・西川光二郎・深尾韶ら、(綱領第1条)「国法の範囲内で社会主義を主張する」日本社会党結成。1901年の社会民主党から6年ぶりに、社会主義を掲げた政党が日本に成立することになった。
1880年生まれの深尾は教員をしていたが、平民社を訪ねて堺と会ったのがきっかけで、社会主義者となった。1905年夏には堺の由分社に入社して『家庭雑誌』の編集に従事している。
2月24日、両党合同し「日本社会党」結成。
1907(大正14)年2年22日、結社禁止命令。
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1月15日
・坂本竜馬の妻だったお竜(66)、横須賀の観念寺の裏長屋で没。
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1月15日
・添田壽一、ハリマンに南満州鉄道に関する覚書(桂・ハリマン覚書)の無効を通告。
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1月16日
・アルヘシラス会議開催(~4月7日)。
モロッコ独立と領土保全を再確認。仏の特別な立場を容認。モロッコの支配権は仏とスペインで2分。仏優位の管理下に国立銀行創設。モロッコは仏・スペインの勢力範囲となり、独は国際的孤立。
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1月19日
・北京に巡警総庁設置。
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1月20日
・ベルリンで社会民主党デモ。
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1月21日
・オークランド、「露国レッド・サンデー記念会」。参加400(うち、在米日本人社会主義者40余)。幸徳秋水演説。他に、IWW代表アンソニー、リオソーブ・ジョンソン夫人、社会党マウスチン・ルイス。
幸徳が、ロシアの同胞の革命は世界的革命の先駆であり、我等はこれを助けんがため全力を尽すべきであると述べて話し終えた時、十数名の亡命革命家たちが演壇に集まり幸徳の握手を求めた。その日会場では、ロシアの同志に送るために寄金58ドル余りが集められた。
翌日は、サンフランシスコのリリックホールで同じ会が開かれ、オークランドの3倍の人々が集まった。
当時のアメリカの労働運動の主流は、産業の平和を守りながら労働者の地位の向上を目的とするAFLであったが、それから除名されたIWWが、西部の坑夫や農業労働者や森林労働者の支持を得て、革命的な労働運動を続けていた。そのIWWに属するものは、17団体3万6200余の労働者であった。このIWWの中には革命的政治運動の必然性を認めるという意味の社会主義者と、個人的テロや経済的テロのような直接行動を説くアナーキストやサンジカリストがいて、両派の間に争いが起こり、後者のアナルコ・サンデカリズム系が勢力を得ていた。
既に獄中にある時からクロボトキンの影響を受けていた秋水は、この地に来てからアナーキストのジョンソンその他の人々に逢って、もっとその傾向を強めるようになった。ロシア系のアナーキストであるフリッチ夫人から、普通選挙無用論や治者暗殺論を聞かされた。またIWWの同志たちからはアナルコ・サンジカリズムの理論の影響を受けた。即ち、議会主義的政治行動を排して、産業別労働組合の組織力による経済的直接行動として大規模なストライキその他の行動を重視する傾向である。そのようなものとして、ロシア革命の労働者の武装蜂起は、彼に強い印象を与えた。そして幸徳秋水は、次第に暴力を是認するアナーキズム系の思想を抱くようになっていた。
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1月22日
・独、社会主義的改革を求める政治集会(赤い月曜日)。選挙制度改革も要求。25万人参加。
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1月22日
・墺・ハンガリー、セルビアとの国境封鎖。
7月7日、関税戦争「豚戦争」開始。
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1月25日
・東京朝日新聞記者・杉村楚人冠「雪の凶作地」(1月25日~2月20日)。
困窮する農民の姿を16回にわたって報告。戦勝の陰に泣く出征軍人家族などの惨状を、正義感とヒューマニズムに充ちた気魄あふれる文章によって描き出す。
このルポルタージュがはじまると、全国から新聞社に義捐金が寄せられ、各地に救援組織が作られ、政府もおそまきながら特別措置を急がざるを得なかった。
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1月26日
・駐露公使に本野一郎任命。
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1月29日
・在仏日本公使館(パリ)を大使館に昇格。駐仏日本大使に栗野慎一郎任命。
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1月31日
・岡山県山陽女学校、人生論に傾倒した生徒の自殺事件が起こったため、哲学書の読書禁止。
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1月31日
・日本とカナダ、修好通商航海条約調印。正式の貿易関係成立。7.12 公布。
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1月末
・1月末、島崎藤村の『破戒』浄書が370枚に達した。
1月に入って、「読売新聞」「新小説」「文芸倶楽部」「芸苑」などに『破戒』の新刊予告が出された。
印刷は、改めて田山花袋の紹介で銀座数寄屋橋の秀美合へ依頼することになり、浄書済みの分から組みにかかった。藤村は、真冬の寒さの中をその印刷所や、その近くの石版屋の泰錦堂へしばしば出かけて細かい相談をし、帰っては浄書を続けるという多忙を生活を送った。田山花袋などはそれを見て、「よく君はそんなことをやるね」と言ってあきれ顔をしたが、藤村は、印刷屋の職工や女工たちの働きぶり、そこの仕事場の仕組みなどにも興味を覚え、自分の仕事がそこで組まれ、校正されて行くのを見るのに生き甲斐を感じた。
この頃、藤村の旧師木村熊二がアメリカ風の実践的農業教育を理想として苦心経営していた小諸義塾は遂に閉鎖廃校になった、という噂を藤村は聞いた。
木村熊二は長いアメリカでの勉学生活から帰って、明治18年、東京に明治女学校を創設し、妻鐙子をその校長とし、自分は高輪の台町教会の牧師をしていた。この学校は鐙子の死後、巌本善治に経営をゆだねられた。
藤村は、少年時代神田の共立学校に通っていた頃から、そこの講師であった木村に英語を習い、明治20年、ジェイムズ・ヘボンの創立した明治学院に入ってからも木村の家に寄寓し、木村の手で洗礼を受けた。
木村は明治26年、信州の小諸を選に農業学校としての小諸義塾を創設した。藤村は旧師のその理想に賛成し、そこの教師になったが、官立学校が出世の近道となる傾向が濃くなった明治中葉の日本では、このような田舎の学校に学ぼうとする生徒は数少く、経営困難になった。
藤村がそこに勤めた明治32年頃、木村の手では経営困難になり、塾は町営に移され、その後、教師の俸給を減俸したりして苦境を切り抜けようとしたが、遂に明治38年末、塾は廃され、木村は塾頭を免せられ、小諸商工学校という別の学校になった。
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