2016年10月5日水曜日

大治4年(1129)6月~12月 白河法皇(77)没 「威は四海に満ち、天下帰服す・・・聖明の君、長久の主・・・理非決断、賞罰分明、愛憎掲焉、貧富顕然なり、男女の殊寵多きによつて、すでに天下の品秩を破るなり。」(『中右記』) 院近臣藤原家成、「挙げて天下の事一向家成に帰す」といわれる 平忠盛、鳥羽殿の御厩預の地位をそのまま元のごとく命じられる

皇居東御苑 2016-10-04
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大治4年(1129)
6月2日
・アンジュー伯フルク5世(34、フルク・ダンジュー)とエルサレム王ボードワン2世娘メリザンド、結婚。ボードワン2世、フルク5世にアッカとティルスを与える。

フルク5世:1095~1143。アンジュー伯在位1109~1128。エルサレム王在位1131~1143。初婚エランブール・デュ・メーヌ。息子ジョフロワ・ル・ベル(美男、18、1113~1151、ヘンリ2世父)。娘マチルダ(ヘンリ1世息子ウィリアム妻)。再婚エルサレムのメリザンド(位1131~1152)。息子エルサレム王ボードワン3世(位1143~1163)。息子エルサレム王アモーリ1世(位1163~1174)。

エルサレム王ボードワン2世、フルク5世とダマスカス遠征、大洪水のため失敗。
暗殺教団イスマイル派とキリスト教徒が同盟して遠征。
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6月26日
・以前より殺生を禁止してきた白河法皇、角殿西門外に魚網を集め、焼却させる。
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7月
・ドイツ王ロタール、シュパイエル(マインツ南75km、1127年シュヴァーベン大公フリードリヒが占領)の2度目の攻囲開始。
フリードリヒ妻アグネスが市民を奮起させて籠城指揮、奮戦。
1130年1月バイエルン大公ハインリヒ尊大公、救援に駆けつけたフリードリヒを撃退。
シュパイエル、兵糧の底がつきあらゆる権利と自由の保障を条件に降伏。
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7月7日
・白河法皇(77)、没(誕生:天喜1(1053)/06/20)。鳥羽院政が始る。  

白河法皇は生前、「わが崩後、茶毘礼(だびれい)を行ふべからず。早く鳥羽の塔中石間に納め置くべきなり」(『長秋記』)と命じていた。遺骸を火葬にはせず、鳥羽の三重塔のもとに葬れという。その三重塔は、天仁2年(1109)に自らの墓所にするようにと建立させてあった。

しかし、死の半年前、茶毘に付すなとの命令は撤回された。
法皇が亡くなったのは、京中の院御所、三条烏丸第であったが、遺骸は葬儀の日、京都の北西郊外にある香隆寺(こうりゆうじ)近く、現在の衣笠山東麓に運ばれ、茶毘に付された。
そして、遺骨は一時香隆寺に納められ、2年後の天承元年(1131)、法皇の遺言どおりに鳥羽の三重塔に納められた。

「後三条院の崩後、天下の政をとること五十七年<在世十四年、位を避るののち三十三年>、意に任せ、法に拘はらず、除目・叙位を行なはせ給ふ、古今いまだあらず。・・・威は四海に満ち、天下帰服す・・・聖明(せいめい)の君、長久(ちようきゆう)の主・・・理非決断、賞罰分明、愛憎掲焉(けちえん)、貧富顕然なり、男女の殊寵(しゆちよう)多きによつて、すでに天下の品秩(ひんちつ)を破るなり。」(宗忠『中右記』)。
「律令」に象徴される古代的政治秩序からの決別。「専制性」。

「すでに天下の品秩を破るなり(天下の秩序を崩した)」とは;
この院政による新儀として、①受領功、万石万疋進上の事、②十余歳入、受領に成す事、③三十余国定任(じようにん)の事、④我が身より始めて子三、四人を同時に受領に成すの事、⑤神社仏事封家(ふけ)の納、諸国の吏(り)全く弁済すべからざるの事、⑥天下の過差、日を逐って倍増、金銀錦繍(きんしゆう)下女の装束に成るの事、⑦御出家の後、御受戒無きの事、の七つをあげている。
①は、受領功として米万石・絹万疋を納めることで受領に任じられる傾向が定着したことを意味し、②のように十余歳で受領に任じられたり、④のように自身の他に子が3、4人も同時に受領になる貴族があらわれ、③のごとく、三十余国が院から知行国に配分されるようになって、受領の地位が完全に利権化するようになったという。
受領から納められた①の万石・万疋は、院に関わる御願寺(ごがんじ)や殿舎の造営費用にあてられ、院の周辺のセレモニーに費やされた結果、⑤のように、諸国の受領が神社や仏事の費用に必要な封戸(ふこ)の納入を全くしなくなっていた。そのため⑥の天下の過差(贅沢)は、日を追って倍増し、金銀錦繍の装束で飾られた風俗が広がった。
6月14日の祇園御霊会(ごりようえ)には院・新院・天皇・女院の殿上人から華麗な馬長(うまおさ)が寄せられており、それを「金銀錦繍風流の美麗」「天下の過差、勝計すべからず」と『中右記』は記している。

こうした晩年の白河院の傾向を鳥羽院はそのまま継承した。
当初は白河への反発から、白河に仕えて自分に冷たくあたっていた藤原顕盛(あきもり)などを退けたり、白河に退けられて宇治に隠居していた摂関家の忠実を復帰させるなどしたが、それは白河の路線を否定したわけではない。白河に仕えていた院北面などはそのまま鳥羽院の北面に任じられており、院庁の別当もほとんど継承されている。

「よろづの御政、御心のままなる」という専制的な性格も変わらなかった(『今鏡』)。
『愚管抄』は鳥羽が幼い時に遊び相手の滝口を弓で射たと述べてお。、祖父に似て武を好む素質は十分に備わっていた。ただ甘やかされて育った影響もあったためか、祖父のような凡帳面な性格ではなかったようである。
『今鏡』は鳥羽との比較において、白河院が「おはします所、きらきらと掃き拭ひ」、文を御厨子(みずし)の中に整理して置くなど、極めて凡帳面な性格でたったことを語っているのに、これに対応する鳥羽の性格に触れていない。
その文脈からして大雑把な性格だったらしく、白河の「理非決断」とは対照的であったと考えられる。

白河院~後白河院の院の専制性の共通点:
①院の仏事・法要への執心。「顕密体制」を外護する権力としての王権の位置を明確化する結果となる。
②叙任・除目における院の専権が、律令制的位階制・官職秩序を相対化・解体。
③律令法の形骸化。律令制に拘束された天皇では果せぬ機能。

平忠盛、白河院の仏事では院庁(いんのちよう)の「判官代(ほうがんだい)」の筆頭としてその名が見える(『中右記』)。
鳥羽上皇は、前政権の近臣の多くを退けるが、忠盛は御厩預を命じられ、待賢門院や祇園女御への成功により鳥羽院政最初の叙位で正四位下に叙せられ、引き続き院近臣として重用され続ける。鳥羽上皇領の肥前神崎荘を根拠地に日宋貿易を経営する。
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8月2日
・平忠盛、鳥羽殿の御厩預(みまやあずかり)の地位をそのまま元のごとく命じられ、さらに北面の輩が結番(けちばん)して院に伺候することについても、検非違使の藤原実行とともに協議して決めるように命じられる(『長秋記』)。院中を警備し、牛馬の管理を行ぅことを引き続き命じられた。
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8月3日
・白河に三重塔が造られ、九体の仏像が安置されることになった。
仏像造立は平忠盛が請負い、12月28日の白河の塔供養では待賢門院の祈りによって塔十基を造進した。
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8月4日
・「挙げて天下の事一向家成に帰す」といわれた院近臣藤原家成は、鳥羽殿預(あずかり)という地位を与えられ(『長秋記』大治4年8月4日条)、家成に対する鳥羽院の信任は厚かった。
その職能は鳥羽殿の納殿や御倉町を管理する「納殿並御蔵沙汰人」の上に立つ存在で、白河法皇死直後まで得子の父藤原長実が同様の地位にあり、それを家成が引き継いだと考えられている。

保安3年(1123)正月に六位の蔵人として鳥羽天皇に奉仕したのを手始めに、若狭守、加賀守と続けて鳥羽院分で受領に任じられ、大治元年の従五位上から同四年の従四位上までの叙位もすべて鳥羽の院分によるもの。
鳥羽院政が始まると、大治4年10月に正四位下に叙せられ、左馬頭になって左馬寮も知行し、さらに讃岐・播磨守になって、長承元年(1132)に白河に九体新阿弥陀堂(くたいしんあみだどう)を造進して重任の宣旨が下されている。
また、9月には嫡子・隆季を但馬守に任じて但馬を知行し、同3年には左馬頭から左京大夫(だいぶ)に移って、保延2年(1136)には娘婿・藤原忠雅を美濃守に任じて美濃を知行し、計3ヶ国と1官司を知行するに至る。
そして保延3年に播磨守を辞して子の家明を越後守になすとともに、自らは公卿となった。受領は5ヶ国の歴任で公卿となるのが通例で、家成は4ヶカ国と1ヶカ国の重任なので、その適用を受けた。『二中暦(にちゆうれき)』の「一能暦(いちのうれき)」は「徳人(とくにん)」として家成をあげており、広く知られた富裕者であった。
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9月
・メルフィの大集会。
ロゲリウス2世、全伯・司教・大修道院長を召集(カラーブリア、アプーリア、サレルノ、アブルッツィ、ルカーニア、カンパーニア)。
ロゲリウス2世、アプーリア・カラーブリアの全ての伯に主君であると認めさせる(全伯にアプーリア公公位継承を承認させる)。
家臣より「戦う権利」を奪う。
公国内に平和宣言、平和侵害者に対する裁判権を独占。
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・暗殺教団の保護者・ダマスカス宰相アル・マズダガーニ、ブーリ・イブン・トゥグティギンの命令によりダマスカス城内で殺害。暗殺教団がエルサレム王ボードワン2世にダマスカスを開城する陰謀露見し、直ちに暗殺教団狩りが始まる。
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9月1日
・日蝕符合し、陰陽頭に給録。
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11月11日
・源為義らを派遣して興福寺僧徒の騒擾を鎮圧させる。
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12月
・末、対立王コンラート3世、ドイツに帰国(イタリア遠征1128~1129)。
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12月28日
・藤原頼長、内裏および鳥羽院・待賢門院三所の昇殿を許され、翌大治5年正月3日、関白忠通に伴われその昇殿の儀を遂げた。
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