横浜 山下公園 2016-10-14
*大治5年(1130)
この年
・平清盛、「兵衛の労」により従五位上に叙任。
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・この前後、鳥羽院は、院宣により側近の園城寺覚宗を検校に任じ越前の平泉寺(白山信仰の越前での中心)の社務を執行させる。
ほぼ同時期、加賀馬場の白山宮でも、神主職の上に検校職を設置して側近の信縁を補任。
白山信仰は原始的山岳信仰に由来するが、平安初期の密教展開の中でそれと習合していく。
「白山之記」(長寛3年(1165)頃成立)によれば、天長9年(832)白山に登拝する加賀・越前・美濃の3馬場が開けており、この頃、宗叡(809~84)が越前白山で苦行を行なう(「三代実録」元慶8年3月26日条)。
9世紀初に越前馬場が成立。
「法華験記」(11世紀中頃成立)には、立山・白山などの霊所で祈願した越中の海運法師の説話や泰澄伝承が登場し、天喜年間(1053~58)日泰上人が越前白山の竜池の水を汲む。
こうした密教験者の活動の中で、白山の山岳信仰は仏教と習合し、やがて本地垂迹説により教理的に体系化されていく。
白山での験者の修行の場は殆どが「越前白山」と記され、白山信仰の仏教化は3馬場の中でも越前馬場によって主導される。
白山の構成(「白山之記」):
最高峰の御前峰に白山妙理大菩薩を、その北の大汝峰に高祖太男知大明神、南の別山に別山大行事を祀り、夫々の本地は十一面観音・阿弥陀・聖観音とされる。夫々の山上には宝殿が設けられ、末代上人の勧進により、鳥羽院や越前国足羽の住人の願となる鰐口や錫杖が安置される。末代は富士上人とも号し、富士山に数百回登山して山上に大日寺を構えた験者で、鳥羽院の信任厚い人物(「本朝世紀」久安5年4月16日条)で、白山信仰の仏教化に積極的に関わり、鳥羽院と白山とを結びつける。
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・グラナーダのムラービト朝イスラム・スペイン支配者ターシュフィーン・イブン・アリー、アセーカ(トレードとオレーハ間のキリスト教徒前哨基地)攻撃。城代テーリョ・フェルナンデス伯、マラケシュ(アフリカ)に送られ没。ターシュフィーン、アセーカ城を占有せず、キリスト教徒ガウセルモ・デ・リーバスがイスラム教徒襲撃の根拠地として利用。
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・ムワッヒド創始者イブン・トゥーマルト(48)、没(1082頃~1130)。ムワッヒド朝弟子アブド・アル・ムーミンが後継(位1130~1163)。
ムワッヒド朝1130~1248。1133年アブド・アル・ムーミンがカリフと宣言。1145年迄、ムワッヒドは山岳地帯に閉じこもり、ゲリラ活動がムラービト朝を衰退させる。
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・ミラノのコンスル23人。住民中の諸階層から一定の割合でコンスルを任命。
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・ランスとクレルモンの教区会議、「騎馬試合」を禁止。騎士の無駄殺しは避ける。
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・イングランド、財務府文書(財務府行政手続きの成文化)。
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・この年、テンプル騎士団。
最初の「会則」制定。1128年ベルナールが制定に協力。「2種類の戦士」で構成、服装・武器・地位で区別。
総長ユーグ・ド・バイヤン、東方帰還に先立ちフランス中部に「フランス管区」を設置、同僚パイヤン・ド・モンディディエを管区長に任命。
ユーグ・リゴー、南仏~バルセロナに移り活動。プロヴァンス伯(バルセロナ領)レーモン3世を修道騎士に迎える。
ベルナール「新しい騎士たちを称えてーーテンプル騎士修道会について」。ユーグ・ド・バイヤンと騎士修道会への賞賛。
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・教皇インノチェンツォ2世、聖ヨハネ騎士団に軍旗を与える。
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1月
・シュパイエル落城。
降伏に際してシュヴァーベン大公フリードリヒ妻アグネスはドイツ王ロタール3世により釈放。直後、反ロタール3世のニュルンベルク、ドイツ王ロタール3世に降伏。
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1月3日
・藤原頼長(11)、関白忠通に伴われてその昇殿の儀を遂げる。
忠実が宇治より出京して実際の指図をとる。まず名字を選定し、三所に皇する名簿(みようぶ)を清書。名字は式部大輔藤原敦光の選申(せんしん)した隆平・師長・頼長の三つのうちから選ばれた。
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1月7日
・平忠盛、院の御給(ごきゆう)により正四位下に叙さる。「人々耳目を驚かす」。
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2月
・プレ・ド・バイユの戦い。
カッパドキアのエミール、ガジ、アンティオキア候ボエモン2世に勝利。ボエモン2世、戦死。
ボエモン2世:22才前後、在位4年間、ボエモン1世(ロベール・ギスカール長男)息子。
アンティオキア候国アリックス(ボエモン2世妻、エルサレム王ボードワン2世次女)、ボエモン2世との娘コンスタンスが相続するのが我慢ならず、アレッポのイマード・アッディーン・ザンギー(47)にアンティオキアの領土保全依頼。
ザンギーへの使者、途中で捕縛され、エルサレム王ボードワン2世の許で処刑。
ボードワン2世、アンティオキアを襲い、アリックスをタラキア港に流す。
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2月13日
・教皇ホノリウス2世、没(位1124~1130、イモラ出身)。
14日、教皇イノセント(イノケンティウス)2世、即位(位1130~1143、ローマ出身、フランジパニ派、少数派)。
教会分裂発生(1130~1138)。
ピエレオーニ派、ローマ占領に成功。
教皇イノセント2世、フランスに逃亡(即位後8年間(1139年迄)ローマに入れず)。
対立教皇アナクレトゥス2世(位1130~1138)。
アナクレトゥス2世没により最終決着。
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2月21日
・女御藤原聖子(9)に中宮宣下。
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2月26日
・正五位下行諸陵頭兼算博士三善為康に越前権介を兼任させる旨の、越前国司宛ての官符出る。
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3月13日
・東大寺諸荘文書并絵図等目録が作られる。
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春
・春、ロゲリウス2世、サレルノ攻撃、町の城全部を管理下に置く。
後、アマルフィの城の管理権を入手。トロイアとメルフィに新しい城を再建。
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4月19日
・頼長(11)、元服・叙爵(五位下に叙せられる)。
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6月11日
・千葉常重、「正六位上行下総権介平朝臣経繁」の署名で、所領の相馬郡布施郷を伊勢皇太神宮に寄進(相馬御厨)、その下司職への就任が認められる(伊勢内宮の権威によって国衙権力の介入を防ぐ)。
常重とその子孫は得分として「加地子」を取る権利を得、伊勢内宮禰宜・荒木田元親とその子孫と口入神主の権禰宜・荒木田延明への上納が義務づけられる。
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6月23日
・頼長、この日の小除目(こじもく、臨時の小規模な任官式)においてが侍従に任ぜられ初めて官を得る。
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7月10日
・上皇御所大炊殿など、焼失。
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8月以前
・エルサレム王国、フルク5世とメリザンドの長男ボードワン3世、誕生(~1163、位1143~1163)。
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8月4日
・頼長(11)、この日に故白河院一周忌後初めての上皇・女院の御幸(ごこう)に供奉し、同月23日には早くも右近衛権少将(うこのえごんのしようしよう)に転じる。
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9月
・この月、遠江守が、押領使の兼任と随兵の設置を諸国条事で申請し「恒例」として許可される。
坂東の国司が押領使の兼帯と随兵の設置を諸国条事で申請し、先例に基づいて許可されることが恒例化していた
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・対立教皇アナクレトゥス2世とロゲリウス2世、ベネヴェントで会見、ミニャーノ条約締結。
対立教皇アナクレトゥス2世、シチリア、カラーブリア、アプーリアの王位を承認(王国へ格上げ)。
カープア候領、ナポリの所領を承認。ベネヴェントの守護者の地位を与える。ロゲリウス2世とその後継者が王国の大司教により戴冠されることを承認。
ロゲリウス2世、対立教皇アナクレトゥス2世に臣従礼、忠誠誓約、軍事援助約束、年貢600スキファティ支払い。
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秋
・ルイ6世、エタンプ教会会議。
クレルヴォーのベルナール、教皇イノケンティウス2世支持を表明。
教会会議後、ヘンリ1世を訪問、イノケンティウス2世の支持を求める。
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9月15日
・ [南宋の建炎4年8月11日]朱子学の租、儒者の朱子(朱熹)、誕生。
この年、金に捕われている秦檜、南宋に送り返される。
1127年、金は北宋を滅ぼし華北を支配下に入れ、更に南下して南宋を圧迫するが、間もなく兵を引く。
金国内には、中国全土の征服を主張する強硬派と、黄河以北を確保し南宋との関係改善を主張する和平派が対立。
和平派は和平工作として秦檜を送り返す。
秦檜は、翌1131年、高宗の信任を得て宰相となり(1131)、金と和平を結び現状維持を主張、和平交渉を進める。
以後、南宋国内でも岳飛ら主戦派と秦檜ら和平派の対立が激化。
岳飛(1103~41)は、河南省の農民の子に生まれ、北宋末、金が南下すると義勇軍に応募、金との戦いに軍功をたて一兵卒から将軍にまで昇進(余りに早い昇進、武将としては珍しく学問があったことから諸将の反感をかう)。
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9月20日
・エルサレム王ボードワン2世、アンティオキア候国摂政就任。ボードワン2世、アンティオキア包囲。町の有力者、ボードワン2世・娘アリックス間を取持つ。ボードワン2世、娘アリックスのアンティオキアの全権利を剥奪、孫娘コンスタンスの摂政に就任。
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9月28日
・中宮大夫藤原宗忠、大原吉次を若狭・能登などの目代に推薦(「長秋記」)。
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10月
・ヴュルツブルクの宮廷会議。ドイツ王ロタール3世、教皇イノセント2世支持決定。
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・頼長(11)、近衛将として初めて崇徳天皇朝覲(ちようきん)行幸(天皇が父皇・母皇に謁するための行幸)に供奉。
同月5日、五位のまま右近衛権中将に昇進。五位中将は、藤原師通以来摂関家の嫡流を象徴する地位。
13日、関自邸から参内して初めて著陣(ちやくじん)の儀を行う。その次第は大略寛治2年(1088)に行われた父忠実の著陣の儀に倣った。
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10月5日
・藤原長実(56)、参議就任後1年で権中納言に昇進。異例の昇進で、且つ長実は「非才智、非英華、非年労、非戚里」(「中右記」同日条)で、「世間頗有傾気歟」となる。
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11月
・ルイ6世、16年間かかってマルル城主トマを鎮圧、王領地平定。
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11月9日
・頼長(11)、この月の春日祭に、近衛府使を勤任して奈良に赴く。
8日、東三条邸において出立(でたち)の儀を行い、つづいて土御門皇居に参入して春日社参向の由を奏し、畢(おわ)って関白の近衛室町邸に退いて装束を改めた上出発し、その夜は淀の宿所に泊る。
翌9日未明、宿所を出て舟に乗り、木津において舟をすて、陸行して夕刻梨原に着き、それより社頭に参向し、祭儀を終えて同夜は梨原に泊る。
翌日辰の初め(午前7時コロ)、宿所を発って往路を引きかえし、夜に入ってから東三条邸に帰着して還立(かえりだち)の儀を行い、初めての春日祭使の勤仕を無事にすませる(「中右記」)。
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11月27日
・鳥羽院、熊野に向かい院政を行うことを神に告げその納受(のうじゆ)を祈る。
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12月
・源義清(義光の子)、初めて甲斐に入部。子の清光の次男信義が武田氏の始祖。
既に入部の嫡男清光が常陸那珂郡武田郷(勝田市)で乱暴を働き、常陸を追われ甲斐八代郡市河荘(山梨県市川三郷町)に配流という。
但し、市河荘の役人として一族郎党引き連れての大移動。
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12月25日
・ノルマン・シチリア王国建国。
ノルマンディー公ロジェール2世(37)、自らシチリア王と宣言(位1130~1154)、パレルモ大司教が戴冠。
長い戦いの始まり:
10年戦争と呼ばれる諸侯の反乱、教皇インノケンティウス2世との対立。皇帝軍の南下。
ロジェール2世。
ルッジェーロ、ロゲリウス、35、1195~1154。カラーブリア・シチリア伯位1105~1127。アプーリア公位1127~1130。ノルマン・シチリア王位1130~1154。1130~1140、南イタリアで苦しい戦い、1140年、南イタリアの「唯一の支配者」となる。支配地域(シチリア、カラーブリア、アプーリア公国、ナポリ公国、ナポリ公国、ターラント候国)。
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