2016年10月26日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(110)「アトリエにて」(3) ; 民衆の飢えと苦しみがいやましにまして行き、マドリードがゲリラとフランス軍の海に溺れかけているとき、一八一二年に入って四万のウェリントン軍が再びポルトガルから侵入を開始した

ゴヤ『戦争の惨禍』55
「物乞いをしなければならぬとは最悪だ」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』62
「死者の床」1808-14

しかしここでもゴヤが描いているものは、当然のことながら、結果であって原因ではない。ただでさえ収穫量の少いスペインにあって、戦争は農民を流民とし盗賊兼ゲリラにしてしまった。しかもナポレオンは「戦争は戦争を養う」(軍隊の現地自活)という方針であり、英国の代理人は穀物の値段を釣り上げてあらゆるところで買い占めをやった。

そうして最悪なのは、カディスの中央評議会が、収穫を燃やせ、という命令を下したことであった。燃やしたものには褒賞金が出た。ゲリラはマドリードへと送られる食料輸送隊を襲い、護衛のフランス兵を殺した。

これでは首都が飢えるのも当然である。首都そのものが「物乞いをしなければならぬとは最悪だ」(五五番)ということになる。「死者の床」(六二番) - 集中もっとも迫力があり、かつもっとも凄惨なものである - それがマドリードを象徴していた。一八一一年一〇月から翌一二年二月までに、二万人の市民が飢えと病いで死なねはならなかった。

この惨憺たる時に、王であるホセ一世は何をしていたか。
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・・・彼は自分の内幣金(ないだきん)をさいて麦を買い集めさせ、王宮に製パン工場を作らせた。かくてこのパンを巷で食を乞うている人々に分配させたのである。しかもそのパンがどこから来たものであるかを人々に告げることを禁じた。また彼自身もがその黒くて粗末なパンを王宮の食事に使わせた。一八一一年の一二月と明けての一月には、自ら巷へ出掛けて行って人々の苦情と嘆きに耳をかたむけた。・・・
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・・・彼は皇帝から派過されて来ている副官の一人に、一八一一年の暮頃に次のように告げている。
「私がここ(スペイン)にいても何の役にも立たない。はっきり言って、それは不可能なんだ。だから、もう長くつづいているこの国民の悲惨な光景と、それが不可避的にもたらすにきまっている結果が、私をして暴力的に追い出すことになる以前に、私はマドリードとスペインから立ち去りたいと思う」
正直な告白である。
またこのあと数カ月して彼は弟に明白なことばで桂冠したい旨を書き送ったが、返事がなかった。当のナポレオンもスペインどころではなかったのである。

この不幸な時期に、・・・ゴヤは何をしているか。
一八一一年、ゴヤはすでに六五歳である。・・・
ゴヤは妻のホセーファとともに公証人事務所へ出頭して遺言を作成した。これによれば、二人の遺骸はフランシスコ会の修道服で包んで欲しいこと、夫婦一人一人のために二〇回のミサをあげて欲しいこと、教会、罪人の救済、病院に寄付をすること、両者のうち、後に残った者及び息子ハピエールを遺言執行人とすること等である。
彼ら夫婦は、要するにブルジョアであって、世間に如何に飢えと病いで死んで行く人が多くても、彼ら自身はとにもかくにもしのいで行くことが出来る。けれども彼らをとり囲んでいる飢えと死は、彼らに老い先の短さを思わせたに違いない。・・・
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・・・ひそやかに生きた女性が、一八一二年の六月二〇日に、ひっそりと息を引きとって行った。・・・
二人で共同の遺言を作成してから、ちょうど一年後であった。
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民衆の飢えと苦しみがいやましにまして行き、マドリードがゲリラとフランス軍の海に溺れかけているとき、一八一二年に入って四万のウェリントン軍が再びポルトガルから侵入を開始した。・・・このときはまだ、ただのアーサー・ウェルズレイであるにすぎない。アイルランドはダブリンの貴族階級出身で、インドの植民地軍できたえて来た将軍である。

まず国境に接したシュウダード・ロドリーゴ地方の首都を包囲し一月二〇日、陥落。この戦果によって将軍は、カディス摂政会議 - と中央評議会は改称していた - によって、スペイン大貴族シュウダード・ロドリーゴ公爵に叙せられ、英国側もこれに応じウェリントン卿(Lord)として上院議員に任じた。・・・
軍はポルトガルとの国境沿いに南下して三月にはエストレマドゥラ地方のバダホスを包囲、例によって掠奪。
この軍は進撃する毎にその数を増して行った。・・・

その頃、ナポレオンはと言えば、大軍を率い、自信に満ちてロシア戦線にあった。スモーレンスク前方のヴィテブスクを攻めたてていた。来るべき一大破局へ、まさに突入しようとしていたわけである。
そうして兄のジョセフは、これも相当な軍を率いてサラマンカ付近のロス・アラビレス高原に進出し、英軍を迎え討とうとしていた。これも一大破局への突入であった。数週間の血戦の後に、ここでフランス軍は九〇〇〇の死傷者を出した。祖国の運命は外国人同士の戦いに依存していた。英軍の損害は五〇〇〇。

ジョセフはあわててマドリードに戻り、またまた逃げ出さなければならぬ。総計二万のフランス軍が今度はアランホエースめがけて南下した。撤退作戦の指揮者は、ユーゴー将軍、ヴィクトル・ユーゴーの父である。”フランス派”の”協力者”たちもまた逃げ出さなければならぬ。ゴヤの友人のモラティンはバレンシアからパルセローナへと、半殺しの目に通わされながら彷徨をしなければならなかった・・・

ウェリントンの軍と、これに付随していたゲリラの集合部隊が、八月一二日、炎熱のマドリードに、文字通り熱狂的な歓迎をうけて入城した。祖国の恒久的解放である。
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・・・この頃に、母とともに父に会いにスペインへ来ていた幼いヴィクトル・ユーゴーは、後に次のように回想をしている。

生れの土地を征服者から奪いかえそうとして戦い、ついに成功をしたゲリラの剛勇なる首領たちのなかに、一人として広く知られた名の人はいないのだ。名前などはどうでもよかったのだ。なぜかといえば、彼らは栄誉のために戦ったわけでもなければ、まして名を知られようなどとは考えたこともなかったのだ。一番有名な連中も、みな綽名だけだ。松ヤニ屋、山羊番、司祭、親分、医者、片手、チョッキ、半ズボン等々。

英軍は現在はプラド美術館となっている、未完成の宮殿を兵舎とした。もっとも、補給の乏しかったフランス軍は、この宮殿の銅葺きの屋根板をひっペがして銃弾にしていたのであり、半ば廃墟となっていたものであった。長くこの宮殿の外壁に、”Royal British Artilley, 1 Sept. 1812 A. Ramsey” という落書がのこっていたということであるが、この落書は、この首都の蒙った甚しい運命を物語るものであった(ついでに言えば、先の市民戦争のときには、プラド美術館の主要作品は共和国政府の手でジュネーヴヘ疎開されたものであった)。
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