より続く
大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;江東区/亀戸〉
関憲祐
〔3日、亀戸駅で〕駅構内は乗車する避難民で大混雑、乗車もままならない。憲祐〔父〕は警備の憲兵に頼みこんで、やっと乗車することができた。
その時に目撃したのは憲兵が、朝鮮人を射殺する光景だった。紺色の服を着た男が、機関車の下に隠れていたが発見された。男はエイ〔母〕のそばを走り抜け逃げたが、銃声と同時に倒れた。網膜に焼きついた男の姿は忘れることがない。
(関幸造『描かれた絆 - 昭和の女の一生』光陽出版社、1992年)
藤沼栄四郎〔社会運動家、南葛労働会創設者〕
3日の朝、私は自宅からの使が来たので家に帰ろうとすると亀戸五の橋の交番前で憑兵が馬上で「今晩7時ごろ小松川方面から朝鮮人の襲撃がある」と報道していた。
(『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年号」、労働運動社)
司法省「鮮人を殺傷したる事犯」
①2日午後10時、吾嬬町亀戸275番地で、田中金義外1名が、朝鮮人1名を棍棒又は割木で乱打し殺害した。
②3日午後2時、亀戸町大字柳島405で、小川勝太郎外1名が、曹昌純(チョジャンスン)外l名に日本刀で斬り付け重傷を負わせた。
③3日午後3時、亀戸町神町巡査派出所付近で河野市太郎が閔春容(ミンチュニョン)を棍棒で頭部その他に乱打し殺害した。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
9月3日午後4時頃、亀戸駅構内で騎十三機上等兵が朝鮮人1名を刺殺した。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)
『国民新聞』(1923年10月21日)
「亀戸を中心に殺害犯人の逮捕」
9月2日午後10時府下亀戸町276番地にて不逞鮮人なりと称し年齢30歳姓不詳の鮮人を殺害した犯人同町亀戸276土工河合金太郎(26)同田中金蔵(37)の所為と判明殺人罪として令状を発し共犯者として米本熊吉外1名は起訴猶予となった。
9月3日午後3時南葛飾郡亀戸遊園地3700地先路地内にて放火をしたという疑いから同所の青年団貝の為めに閔春容(30)は殺害され同曹昌純(21)は重傷を負った。犯人は府下隅田村隅田1325土工清水三四郎(28)亀戸町字柳島新地1161職工小川勝太郎(31)同無職後野兵吉(22)同河野市太郎(25)寺島町61人夫請負業鈴木眞貫(31)の5名と判明いずれも収監さる。
〈1100の証言;江東区/亀戸警察署〉
島上善五郎〔労働運動家。当時19歳。深川森下で桜災〕
〔3日〕どこからともなく社会主義者と朝鮮人が山の手方面で暴動を起こしている、との無気味な流言が流れてきました。ほどなく亀戸署の特高刑事がやって来て、石毛〔留吉〕君を連行していきました。石毛君は亀戸警察に3晩ほどとめられ、顔の相が変わるほど殴られて帰されてきました。純労働者組合の平沢計七、南葛労働会の川合義虎ら9人の青年は、夕闇をつんざく悲鳴を残して殺されました。両手の掌を銃剣で突き刺され、危ないところを少年であったために助けられた若い労働者もいたそうです。
労技会〔向島・隅田にあった日本車輔の労働組合〕幹部の塚本君は、自警団に追い回され、白鬚橋上で槍で刺され、苦しまぎれに隅田川に飛び込んだところを、船に乗って迫ってきた自警団の一員に刺殺されました。
(関東大震災を記録する全編、清水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)
崔承萬(チェスンマン)〔独立運動家、教育家、済州島知事(1951~53)。当時東京朝鮮基督教青年会館総務〕
亀井戸署で働いていた羅丸山(ナファンサン)氏の目撃談を紹介する。
「私は86名の朝鮮人を銃と刀で射殺したり斬殺したりするのをまのあたりにみた。9月2日の夜から3日の朝にかけて、亀井戸警察署の練武場に収容されていた朝鮮人は三百余名にのぼっていたが、この日午後1時には騎兵一個中隊が来て同警察を監視しはじめた。そのときから田村という男が指揮をとるようになったのだが、軍人たちは練武場へ入って来たかと思うと3名を呼び出し、練武場入口でかれらを銃殺してしまった。このとき指揮者は、銃声がきこえると附近の人に恐怖感を与えるから、銃の代りに刀で殺せと命令した。そこで軍人たちはいっせいに刀を抜いて83名を一時に殺したが、そのなかには妊娠中の婦人もいて、腹を斬ったところ胎児が出て来たが、その泣き声に、胎児まで刺し殺してしまった。殺された屍体は翌暁2時にトラックでどこかへ運ばれて行ったがその他の人もどうなったか知る由もない」といっている。殺害された者の原籍と姓名は数名を除いてはわかっていない。
朴庚得(24)京畿道開城郡長瑞面九下里
金在根(44)全南順昌郡豊山面年昇里
趙妙城(妊娠中の女性)済州島大静面仁城里
趙正洙 右同
趙正夏 右岡
(「関東大震災の思い出」崔承萬著・極熊崔承萬文集出版同志曾編『極熊筆耕』寶晋齋、1970年→『コリア評論』1970年4月~7月号、コリア評論社)
〈1100の証言;江東区/深川〉
川村貞四郎〔実業家。当時内務省保安課勤務〕
〔3日、深川視察中〕しばらくすると群衆は鮮人を捕えて「比の奴が毒薬を飲料水に流した」といって、将(まさ)に危害を加えんとしておるから、一先ず鮮人を預かることとし、警察講習所生徒をして西平野警察署に護送せしめた。
(川村貞四郎『官界の表裏』私家版、1933年)
染川藍泉〔当時十五銀行本店庶務課長〕
〔3日、十五銀行〕深川支店の前には鮮人が3人殺されておった。電柱に括り付けられて日本刀で切られておった。それは山下支店長が実際を見て来ての話であった。
(染川藍泉『震災日誌』日本評論社、1981年)
〈1100の証言;江東区/丸八橋・新開橋〉
内田良平〔政治活動家〕
3日午後4時頃大島町新開橋に於て3名の鮮人軍隊より殺されたる〔略〕。
2日大島町より行徳に通ずる道に当る中川橋に於て、鮮人30~40名と青年団と衝突し、鮮人多数の為め青年団側にも死傷少なからざりしが、扇町35番地に居住せる竹本柔道々場の弟子等抜刀にて応援しつつある中、軍隊の応援を得て鮮人を皆殺したり。
3日夜小名木川自警団等6名の鮮人を追跡し〔略〕兵士により銃殺せられたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
浦辺政雄〔当時16歳〕
9月3日は朝8時ころから、父とともに〔大島6丁目から〕まず浜町へ兄を捜しにいきました。丸八橋までほんの1分か2分というところまで来ましたら、パパパパバーンと、ダダダーシという音がしたわけです。何かしらと思って行くと、橋のむこう側でちょうど軍隊が20人ぐらい、「気をつけー」「右向け-右」って、整列して鉄砲を担いで行進して移動するところでした。
のぞいて見ると橋の右側に10人、左側にも10人ぐらいずつ電線で縛られて。あれは銅線だから、軟らかくて縛れるんです。後ろ手に縛って、川のなかに蹴落とされて、それへ向けて銃撃したあとです。〔略〕左側のはまだ撃たれたばっかりだから、皆のたうって。血が出ているさかりなんです。まっ赤。血が溶けずに漂っているわけです。右側のは先にやったんでしょう、血も薄れていました。
「なんだか知らぬが、むごいこと」と、息をのみました。〔略〕岸の北側につき落として、南側から撃ったんです。
小名木川ぞいに西へ行くと次は進開橋です。その手前、40~50メートル、せいぜい100メートルのところでも同じような銃殺体、10人ほどを見ました。それはもう時間が1時間やそこらたったんでしょう。血も何もありませんからね。川のなかが同じ状態ですからね、ここでやって、それから丸八橋でやったんでしょう。このあたりは全然焼けてないですからね。死体が浮いているって、その朝鮮の人だけですよ。確かめるまもないし、とにかくむごいことだと。だけど私たちは兄を、兄を、というわけで、先へ行ったんです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
高梨輝憲〔深川区猿江裏町30番地(現・猿江2丁目2番地)で被災〕
〔3日〕巡査と別れた私は、さきに来た道を進開橋まで引返えした。ふと橋の上を見ると大勢人だかりがして、何やらざわめいている様子、私は何事かと思って行って見ると、橋の欄干に一人の男が後手に縛られて寄りかかっていた。そのまわりに騎兵の襟章をつけた軍人が3人ばかり立っていた。それを取りかこんでいる群集は口々に「この野郎朝鮮人だ、やっつけてしまえ」と罵っている。そのうち軍人の一人は、いきなり軍刀を抜きはらいその男の頭上目がけて斬りつけた。途端に鮮血がさっとほとばしった。斬られた男は「うー」と唸ったがそれ以上の声は立てなかった。その筈である。男はこの時までに既に散々いためつけられてなかば失神状態になっていたからである。軍人は斬りつけるとすぐ両足をかかえて欄干ごしに川の中へ投げこんでしまった。技げこまれた男は一旦沈んだが、やがて顔を水面に出して浮きあがった。見ると長い頭髪が顔面に垂れさがり、血潮がそれにつたわって顔いっぱいに染め、さも怨めしそうな形相をしてにらんでいるかのように見えた。それは芝居でやる四谷怪談戸板流しの場面を想起させるほどの凄惨さであった。
私は図らずもこのような凄惨な状景を見た。しかし凄惨な状景はこれだけではなかった。進開橋から五之橋の方へ向って少し行ったところで、またさきに劣らないほどの惨虐な場面を見た。
3人の男がこれも後手に縛られたまま、全身血まみれになって道路にころがっている。側らには騎兵銃に剣を立てた軍人が5、6人立っていた。騎兵銃は三八式歩兵銃とはちがい、銃に剣が装着してあるから、剣を立てればそのまま銃剣になるのである。ここにも群集があつまり、倒れている男を丸太や鉄棒で殴りつけていた。男は既に人事不省になっていたらしいが、それでも苦しさのためか、時々うめきながら躯を動かすと「この野郎まだ生きていやがる」と罵りながら、更に強く殴打した。軍人はそれを黙って見ている。私は倒れている一人の男に近づいて見ると、男の尻のあたりに銃剣で突いたらしい生々しい創あとがあった。
〔略〕大正11、12年頃、中国浙江省附近から多数の中国人が、中国産の扇子や蝋石細工の置物などをもって、行商人として来日していた。苦カと称する労働者も多くやって来た。その労働者は主に深川辺で集団生活を営なみ、荷揚げ人夫などをして働いていた。そしてこれらの中国人はいずれも支那服を着ていたから、一見して中国人であることがわかった。
〔略〕進開橋付近の路上で虐殺された男たちの服装を見たら、それは私と仲好くしていた中国人の服装と同じであった。当時、思慮のない日本人は朝鮮人暴動説におびえ、朝鮮人、中国人の見境いもなく、やたらに異民族を殺害したものである。
(高梨輝憲『関東大震災体験記』私家版、1974年。都立公文書館所蔵)
陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
9月3日午後4時頃、大島町丸八橋付近で、野重1ノ3砲兵6名が朝鮮人6名を射殺。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)
【増補改定版】 大正12年(1923)9月4日(その1) 京成線・荒川鉄橋上での虐殺 「おん身らは誰を殺したと思ふ」(折口信夫が見た日本人の別の貌) 亀戸事件(亀戸警察署で、川合義虎・平沢計七ら10人の労働運動家、自警団4人、朝鮮人が殺害される)
【増補改定版】 大正12年(1923)9月4日(その2)~5日 埼玉県熊谷市での朝鮮人虐殺 朝鮮人の習志野移送決定 「9月1日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態」(「読売新聞」) 「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したる事実ありたることを宣伝するに努むること」 旧四ツ木橋 江東区旧羅漢寺付近 藤岡事件 「朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」(萩原朔太郎)
に続く
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