2019年2月3日日曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(10) 「靉光は、利行の絵に接したために迷いが生じ、それからしばらく二科に落選しつづけた。」(『池袋モンパルナス』)

長谷川利行《カフェ・パウリスタ》1928昭和3年
パウリスタは「サンパウロっ子」の意。1911(明治44)年創業のカフェ。
1931(昭和6)年頃、利行が谷中の下宿屋に家賃代わりに置いていったもの。
テレビ番組の鑑定で発見され2009年に国立近代美術館が1800万円で購入。

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(9)「長谷川利行が二科で樗牛賞を得た昭和二年、井上長三郎と靉光は一九三〇年協会の第二回展で奨励賞をもらった。翌年、利行はおなじ一九三〇年協会展に出品し、協会賞をとった。」(『池袋モンパルナス』)
より続く

1928年(昭和3年)
「すずめケ丘」の貸アトリエ
「池袋でも、停車場から歩いておよそ二十分の範囲の麦畑や大根畑や、葦や芒(すすき)がおいしげる湿地に、貸アトリエの集落があった。大きいものだけでその数五つ。・・・・・そのことが「池袋モンパルナス」なる呼称のうまれた原因のひとつなのだが、五つのアトリエ村のなかで、もっとも早くできたのが「すずめケ丘」である。・・・・・府下北豊島部長崎町北荒井と呼ばれる田舎であった。
貸アトリエができた背景を知るうえでたいへん重要なことだが、「すずめケ丘」は、五つのアトリエ村のなかで唯一高台にあった。つまり「池袋モンパルナス」の貸アトリエははじめ、社会の上層の人によって建てられたのだった。

池袋駅西口から立教大学にいたる道は、気づかぬほどに下っており、そこをすぎて山手通りに達するあたりで最低になる。そのすぐ手まえの現代ふうの遊歩道はむかし谷端川という灌漑用水路であった。用水路が流れていたということは、周辺のうち、そこが標高最低の地であることを物語っている。そしてそのあたりからアトリエ村のあった要町へむかってほんの少しずつ上りになるのだ。

地下鉄要町駅から北へとり、商店街をすこしいって左へまがって小路にはいると、だれもがもう上りであることに気づく。小路の入口、小料理屋がある場所には以前、植村というかなり大きい医院があり、あたりは欅(けやき)林であった。いまは舗装された上り小路もむかしは、関東ローム層の泥土のなかに飛石がおかれているだけだった。この、うねうねの上り坂を「すずめケ丘小路」と名づけたのは詩人花岡謙二である。花岡は昭和初年、小路の両側に貸アトリエが建ちはじめる以前、つまり大正の終りごろから、そのすこし奥に下宿屋「培風寮」を経営しており、ここを通って池袋へ用たしにいく途中、両側の竹薮から、すずめの囀(さえず)りを聞いて、こう名づけたのだった。

小路を上りつめたところの右側に天理教の教会があって、それがここにたどりつく格好の目印なのだが、その先から左にまがった左側に昭和三年、ぽつんと一軒、粗末なアトリエが建った。建て主は、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの竹田譲で、地主はアトリエ村の祖といわれる奈良慶子、・・・・・。

竹田家の当主は代々、九州福岡藩の藩校修猷館で儒学を講じていた。竹田自身はその流れをくむ中学で学ぶ途中、名古屋の陸軍幼年学校の、なぜか露語科に入学、さらに陸軍士官学校へと進んで職業軍人のエリートコースに乗っていたが胸をわずらって中退、病が癒えると一転して洋画家を志し、東京美術学校に入学、夜に働きにでるなど苦学しながら卒業した。卒業後すぐ、駒込の伝染病院の古材をもらってきて奈良の土地にアトリエを建てた。そのときの建築費は三百円だったとったえられている。桐のたんす一棹が五、六十円のころであった。吹けば飛ぶよなアトリエができたとき、めずらしがった新聞が「紙のアトリエ」と書いた。事実、完成後まもないころに台風で屋根がとび、美校の後輩たちが駆けつけてきて修理した。

アトリエが建った昭和三年、佐伯祐三がパリで客死した。儒者の血をうけながら、大日本帝国の膨張期に軍人を志し、挫折して洋画家となった竹田はその年、佐伯より二歳下の二十八歳。このアトリエを建てたのも、やはりパリを憧れてのことだったにちがいない。竹田もまた近代日本の流れのまにまにあったろうから。そういえば、ロシアの盲目の吟遊詩人エロシエンコを描いた天才中村彝(つね)も、軍人から画家へと進路をかえていた。かれは新宿中村屋の相馬黒光のもとにいたころ、黒光と、そのむすめ俊子を思慕してのちに死んだ。それもこれも、あのころの、つまり、一九二〇年代のロマンをつたえているふうである。
中村彝は若くして帝展審査員になるなどして名声を手にしたが、竹田はアトリエを建てて四年後の昭和七年、つまり”満州国”建国の年に大陸にわたって新聞社につとめた。のちに引揚げたが、名を得ることなく一九八四年に没した。八十四歳であった。」(『池袋モンパルナス』)

1928年(昭和3年)
長谷川利行37歳
2月、1930年協会第3回展(2.11-26 上野日本美術協会)に《瓦斯会社》(cat.no.8)《地下鉄道》(cat.no.11)《詩人Y氏像》を出品し、協会奨励賞を受賞する。

「長谷川利行。いい意味の感興の仕事。実に必然な表現、広い意味からは偏つて居るが何もかもそなはつて居る」(林武「一九三○年協会一般出品画連評」)。

またこのとき同時に協会奨励賞を受賞した藤川栄子、その夫藤川勇造と知り合う。

「ある晩主人に来客があって、みんなでジョニー・ウォーカーを飲んでいました。当時は高価なお酒でしたが、そこへ突然長谷川さんがやって来ました。みんなが飲んでいるそばでしばらくすわっていましたが、急に『私、これ静物に描くから。』と言って、みんなが飲んでいるのに、それを抱えて表へ逃け出したんでもみんなあきれていましたね」(藤川栄子「長谷川さんの思い出」)。
ちなみにこの年の二科展に出品した《頭蓋骨のある静物》(cat.no.17)には洋酒瓶が描かれている。

「翌年(昭和3年)、利行はおなじ一九三〇年協会(第三回)展に出品し、協会賞をとった。利行はよろこんでふたりをさぞい、上野広小路の中華料理店五十番、つまり浦久保が玉の井へいくまえにカニタマで精をつけたあの五十番でおごって五円はらった。そのころの利行は白絣に絽の羽織をひっかけ、扇子をばたつかせながら若旦那気どりであった。
三人はその足で、滝野川西ヶ原の染物屋の二階にあった靉光の下宿へいって雑魚寝した。翌朝、利行は起きるとすぐに八号のキャンヴァスに靉光の肖像を描きはじめた。キャンヴァスには靉光の筆の跡がのこっていたが、利行はそのうえに、ものの三十分で靉光像を描きあげた。古着屋で買ってきた濃紺のチョッキを着て、八の字ひげをはやした靉光の、顔や首やはだけた胸に、チューブからひねりだされた赤、育、緑、黄が飛び散っていた。それは、のちに有名になった哲学的な靉光自画像とまるでちがったものだったが、このほうが靉光そっくりであった。そばでみていた井上は、モディリアニ描く肖像画と比べたくなるのだった。靉光は、利行の絵に接したために迷いが生じ、それからしばらく二科に落選しつづけた。」(『池袋モンパルナス』)

9月、第15回二科展(9.4-10.4 東京府美術館)に《カフェ・オリエント》《頭蓋骨のある静物》《夏の遊園地》出品。

「敢て欠点丈けを云ふならば長谷川利行氏のものは全部を白熱化させようとする彩色が白熱化される物質の存在を無視してゐる為に実在性を失つて外交派形体に傾いてゐる。あの画面中一尺四方でよいから物質そのものゝ触感をはめ込まなければならないと思ふ」。
「長谷川利行氏の大作については初頭欠点丈けを挙げたが〈カフェー・オリエント〉其他何れもパツシオンに満ちた作品である」(前田寛治「二科展総評」)。

「私は時々外の人の興味をもてない作品に美点を感ずることがある。今年の二科会出品画中余り人の好感を寄せない長谷川利行君の作品にも或佳い点を見つける。あの絵は一見すると乱暴に見えるが、あれで他の出品画よりは中心があるのだから其意味で出鱈目ではない。・・・長谷川君の三点中〈カツフエ・オリエンタル〉はあれで画面の絵具の着き具合もいゝ。地色を塗ったカンバスの色に色彩が調和してゐる。そして、あそこに用ひた朱だとか青とか黄とかの絵具は生だが絵具臭くなく、見えるのがよい。…長谷川は色彩家であり、筆触に感動がある。何を描いたか分らない、が長谷川の心のリズムと、色彩の感激は認める。髑髏のある静物も悪くない、色のコントラストに天才を認める。君が今少し静かに更に正実に勉強すればよくなると思ふ」(正宗得三郎「私感」)。

「長谷川利行氏 夏の遊園地。数種の原色を飛散らしてネオ・アンプレショニズムの如くあるが、更らに感覚的であり、自己陶酔がある。キヤフエ・オリエント。 こゝにも長谷川君の詩を見るが、画の張り方がゆるんでゐる如く画面がたるんで見える。欧洲の画は全画面が緊張してゐる」(里見勝蔵「二科会鑑賞記」)。

「長谷川利行氏。此人には三点を通じて生きたいい感覚を見る。作画態度もいい。〈カフェオリエント〉最もよく熱と美しさを買う」(中山巍「二科連評」)。

カフェ・オリエントは当時廣養軒とならんで浅草有数のカフェ。利行は矢野文夫とともにしばしばこの店を訪ねる。
一方井上長三郎との交友もはじまっている。

「いまの芸大の裏道で長谷川利行に会ったのは1928年の晩秋だったろうか。その時彼は袷の着物に靴をはいていた。この身なりはその頃の私の眼にもはなはだ古風に思えた。日焼けした顔には明治調のヒゲをたくわえ威厳があった。彼は絵を巻いた風呂敷包みをかついで商売の帰りらしく見えた。・・・彼は上方の人らしく優しく叮嚀であった。ある日、上野の帰り靉光と私は長谷川に広小路の五十番で御馳走になったが、その支払いが五円だったので私たちは恐縮したのを覚えている。五円はその頃の私達のひと月の食費に当たる金額だったからである。その夜私たちは靉光の所に泊り、翌朝長谷川は靉光の古キャンに彼のパレットを使って約三十分くらいで〈靉光像〉を描いた」(井上長三郎「リベラリスト長谷川利行」)

この頃、『美之國』婦人記者花岡千枝に恋慕するという。





長谷川利行作《カフェ・パウリスタ》の調査報告(東京国立近代美術館)

その後ふたたび本作は、物置にしまわれたり、ピアノの上に乗せられてたりした。しかし福井家の近くに住む知人(利行の友人であった画家熊谷登久平のご子息)の助言もあったりして、人気テレビ番組「開運! なんでも鑑定団」(2009年2月24日放映)に出品され、結果、評価額1800万円の長谷川利行の作品と認められたのである。6)




1928年(昭和3年)
「昭和三年、二科十五回展のとき、靉光、井上(長三郎)、大野(五郎)、それに靉光の広島時代からの友と、いずれも奇妙ないでたちの若もの四人は、一台の大八車にそれぞれの作品をつみ、初音町の靉光の下宿から上野の山へむけて坂を登りはじめた。・・・・・途中、神明町で大福餅を食って腹をこしらえ、美術館についてみれば、受付はすでに締め切られていた。狼狽する仲間をみて年長の井上が、審査員たちの住む界隈でモンマルトルといわれた田端に、二科の創始者のひとり石井柏亭をたずね、夫人を通して、あす特別に受けつける、との約束をもらい、翌早朝は出なおした。」(『池袋モンパルナス』)"

1928年(昭和3年)
靉光、《風景》で一九三〇年協会賞を受賞。

7月、靉光ら21人、太平洋画会研究所の騒動前の昭和3年7月「洪原会」という小グループをつくる。
2年後の昭和5年、それを発展させて「NOVA美術協会」をつくる。

1928年(昭和3年)7月
利行が靉光に詩を贈る
「靉光は、利行の絵に接したために迷いが生じ、それからしばらく二科に落選しつづけた。そんな靉光にあてて昭和三年七月、利行は詩を贈った。

靉光に      長谷川利行

昼明るき街角がある
凡そ、歩き疲れて来る街角がある
街角には昼の電灯は点らない。
しんじゆくのまるやの、
女あるじが油絵を描くから
と云って、
靉光と、
そのキヤフエで、
麦酒を飲む。
心の酔に、きうらそが慾しい。

そのころの利行は龍泉寺町のドヤへ移るまえで、日暮里の日蓮宗の寺の離れに住んでいた。ドヤへ移ったのは京都の父親からの送金が絶え、金にこまったからであった。父親は警察官で、息子は賞をもらったのだからもう食えるだろうと思って送金をとめたのだが、絵かきは社会の余計者、という時代だったし、樗牛賞といっても好事家に知られる程度のものにすぎなかったし、おまけに利行の絵は、野心にみちたひとにぎりの絵かきの尊敬をあつめるたぐいの絵で、アカデミ-が評価し、金満家が求める絵ではなかったから、送金がとまれば、その日から食えなくなるのだった。現に矢野文夫が利行の絵を画商にもちこんでも貫匁でしか買えないといわれた。こうして利行はドヤにうつり住んだのだった。」(『池袋モンパルナス』)

1928年(昭和3年)9月
利行の《靉光像》(昭和3年9月画、昭和4年1月協会展に出品)

「長谷川利行が靉光という奇妙な画名を持つ絵かきを知ったのは昭和二年である。この年、利行は二科展で樗牛賞を受賞し、それに先んじた一九三〇年協会展でも入選を果たしているが、靉光は「景色」「景」の二点を出品し、仲間の井上長三郎らとともに一九三〇年協会奨励賞を受賞している。靉光の作品はマチスの影響を思わせる明るい絵だったという。
利行が一九三〇年協会奨励賞を受けるのは翌昭和三年である。利行は「地下鉄道」「瓦斯会社」「Y氏像」の三点を出品した。フォービックな荒々しさを秘めた初期の利行を代表する傑作である。
この頃、靉光は谷中の下宿を出て、井上長三郎の下宿に近い板橋に引っ越していた。近藤勇の基の近くの炭屋の狭い二階に同郷の友人と三人で住んでいた。
利行が靉光の下箔をしばしば訪れるようになるのは、靉光が炭屋の二階から滝野川の染物屋の二階に越してからである。
七畳のこの部屋にはたくさんの仲間が集まった。靉光より十七歳年上の利行も抵抗なく融け込んでいる。一足先に靉光と知り合っていた大野五郎も寄りつき、一時は井上長三郎も含めて四人で下宿しているような状態だった。「どん底」の舞台を思わすようなひどい暮らしぶりで麦飯ばかり食べていた。
大野は、利行と靉光は肖像画を描いたり詩を献げたりするほど仲はよくなかったという。
初期の靉光はゴッホ、マチス、ピカソ、あるいは長谷川利行の影響を受け、画風がしばしば変わっていた。とりわけ利行に一目置いていたといわれているが、大野は「靉光は無口だったが、腹の中では利行に反発していたのではないか」という。
利行は靉光を高く評価していた。若い靉光の画魂の中で、利行に対する評価と負けん気が渦巻き、それが白刃のように戛然(かつぜん)と音を鳴らしていたのかもしれない。
利行が彼の代表作といわれる「靉光像」を描いたのは昭和三年九月十四日のこと。キャンバスの裏に赤字で日付と「板橋於、靉光画房、長谷川利行等」と書き込んである。
井上長三郎は滝野川で描かれたと記憶している。
前の日に利行は彼にしては珍しく靉光と井上を上野の行きつけの中華料理屋へ誘った。ビールを飲み料理を何種類も注文し、利行はよく食べよく飲んだ。首に吊した財布から新しい五円札を出して支払いをすませみんなを驚かせた。
その晩は靉光の下宿に泊まり、翌日、昼前に起きた利行はしばらくボーッとしていたが、突然、目をギラギラさせて靉光を凝視し、部屋にあった靉光の消し残りのある古キャンバスを立て、絵具もパレットも絵筆も靉光のものを使って一気に描きあげた。ものの三十分ほどだった。利行の顔から荒々しさが消え羅漢のようになった。
よれよれのシャツに黒のチョッキを着た靉光の顔や首筋、背景に三原色を強調させ、利行は仕上がりによほど満足したのか、「この絵は靉光氏に献呈しよう」と笑って言い井上には「今度ルパシカをあげよう」と約束した。
靉光は十六年後に、顎を突き出した精悍な自画像を描いている。利行の靉光像もこの自画像もどちらも本人とは似ていないが、利行の靉光像と対照的に力強さを際立たせているのは、もしかすると靉光はこの四年前に死んでいる利行を意識していたのかもしれない。
井上長三郎は利行の「靉光像」をモヂリアーこの肖像画に並ぶ、と賞譲を惜しまない。
「靉光像」は翌年の一八三〇年協会展に出品され好評を博したが、靉光に献呈する約束は果たされることなく、彼らの奇行や型破りの日常を現わすように何年か後、酔興のタネに使用されることになる。」(『評伝長谷川利行』)

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html




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