より続く
森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ4)
二十六 へちま咲く 明治三十五年
最後の年、明治三十五(一九〇二)年となる。年を越すとは誰にとっても意外だった。碧梧桐夫妻は看護のため子規庵に近い上根岸町七十四番地に転居した。
(略)
正月以来、子規の容態は一進一退となり、いつ死が訪れてもおかしくなかった。ふたたびめぐり来る春に会えたうれしさ。絶望的な状況でも「うれしい」という子規。門人たちは三日に一回の看護のローテーションを決め、左千夫、虚子、碧梧桐が詰めた。これにのち、秀真、(森田)義郎、鼠骨も加わる。鼠骨が一番、介護がうまいと子規は記す。話は面白いし、癇に障ることを言わなかった。
伝染する病気の子規を皆が嫌がらずにそばにいた。・・・・・
(略)
三月十日より「仰臥漫録」再開。
「此日始めて腹部の穴を見て驚く 穴というは小き穴と思いしにがらんど也 心持悪くなりて泣く」。この頃、苦痛に対しては麻痺剤(モルヒネ)を用いるようになっていた。前年にはあれほど、つくつくばうしやフクロウの鳴き声に敏感に反応していた子規が、三月二十日、飼っていたカナリアの声が気に障るとして、碧梧桐に譲った。
三月末に、碧梧桐一家が律を誘い、赤羽根(今の赤羽)につくしを摘みに行き、戻って楽しげに袴を取り、語るのを兄の子規はうれしく眺めた。その前に、左千夫が紅梅の下につくしを植えた盆栽を送ってきていた。
くれなゐの梅ちるなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ
碧梧桐夫妻は次の日曜には母八重を向島の花見に誘っている。門人たちはいつまで続くかわからない介護の家族を慰めることも忘れなかった。
「病牀六尺」は明治三十五(一九〇二)年五月五日、端午の節句に始まっている。「日本」に掲載されることが子規のいのちの証しであり、喜びであった。「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない」(五月五日)(全集⑪「病牀六尺」)
臨場感に溢れる、触覚の感じられる文章である。こちらは虚子などが口述筆記をしたようだ。
「五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であって此日は毎年の例によって雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あえの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であったので」とつけて、
鶯も老(おい)て根岸の祭かな
氏祭これより根岸蚊の多き
などを詠んだ。
(略)
子規は「自分の見た事のないもので、一寸見たいと思う物」として活動写真、自転車の競争及び曲乗、動物園の獅子及び駝鳥、浅草水族館、浅草花屋敷の狒々(ひひ)及び獺(かわうそ)、見附の取除け跡、丸の内の楠公の像、自働電話及び紅色郵便箱、ビヤホール、女剣舞及び洋式演劇、鰕茶袴(えびちやばかま)の運動会、などを列挙する(五月二十六日)。鰕茶袴とは女子学生のことである。
六月ころ、子規は絵を描くのも好きだったが、彩色本を枕もとに置いてそれを広げるのを無上の楽しみとした。渡辺南岳の「艸花画巻」などは乞いに乞うて、ついにわがものとした。「朝に夕に、日に幾度となくあげては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるような心地がする」(八月三十一日)
七月十一日には「根岸近況数件」として、「田圃に建家の殖えたる事」「笹の雪横町に美しき氷店出来の事」「某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりし事」「御行松のほとり御手軽御料理屋出来の事」など数件どころか十三件もの報告がある。「草庵の松葉菊、美人蕪等今を盛りと花さきて、庵主の病よろしからざる事」と結ばれている。ここでも鶴の声という音に愛着を持っていたことが知れる。
この頃、「病牀六尺」には女の教育の事を繰り返し書いている。家の女どもは家事に勤しむが、介護は甚だ気がきかない、という不満だった。「病人の看護と庭の掃除とどっちが急務であるかという事さえ、無教育の家族にはわからんのである」。だから女子にも教育は必要だ。具体的経験に発して、普遍的な結論を導き出す。自分の不平もあからさまに随筆のタネにするのも子規の特徴である。
飯を炊くのに無駄な手数がかかるので、「飯炊会社」を起こしたらよかろう、という説に賛成している。「飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、余程飯は甘美(うま)く喰える訳である。病人のある内ならば病牀について居って面白き話をするとか、聞きたいというものを読んで聞かせるとかする方が余程気が利いて居る」(七月二十四日)。一軒一軒で米を研ぎ、炊くのは無駄だろうという。「仰臥漫録」にも富貴の人の残飯を貧民に回したらどうか、とも書いている。こうした家事には当時の男性は関心を持たなかった。家に一日寝ている子規ならではの言である。いずれも宅配食事サービスや賞味期限切れの食品の再活用など、百年後を見すえたような予見力である。
「『病牀六尺』が百に満ちた」。八月二十日、子規はそう書いた。これがいつまで続くだろうか。当時は郵便送稿だから毎日宛先を善くのが面倒だ。そういうと「日本」新聞社は宛先を印刷した状袋(封筒)を三百枚刷ってくれた。そんな先までは覚束ない。しかしもう百回は越えた。「半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであろうか」
くれなゐの、旗うごかして、夕凪の、吹き入るなへに、
白きもの、ゆらゆらゆらく、立つは誰、ゆらくは何ぞ、
かぐはしみ、人か花かも、花の夕顔
向島からひと鉢の白い花がもたらされた。夜会草とあるが、一名夕顔。その真っ白で大きな花を眺め、子規は最後の長歌を作る (九月五日)。
子規は最後まで明晰だった。下痢が激しくなり、衰弱が甚だしく、病みに絶叫し、モルヒネも効かず、浮腫で足は仁王の足のように膨れても、ただ、生きていた。
「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(六月二日)。この感懐は胸にこたえる。
つづく
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