2021年2月13日土曜日

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ5終)「「日本」新聞の同僚古島一雄は、「骨盤は減ってほとんどなくなっている。脊髄はグチヤグチヤに壊れて居る、ソシテ片っ方の肺が無くなり片っ方は七分通り腐っている。八年間も持ったということは実に不思議だ実に豪傑だね」と言った。」   

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ4)「子規は最後まで明晰だった。下痢が激しくなり、衰弱が甚だしく、病みに絶叫し、モルヒネも効かず、浮腫で足は仁王の足のように膨れても、ただ、生きていた。 「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(六月二日)。この感懐は胸にこたえる。」

より続く

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ5終)

九月十四日、虚子に「ホトトギス」に載せる稿を口述してもらう。終わったころ母が来て「ソップは来て居るのぞな」といった。これが「九月十四日の朝」として載った。

十七日、「病牀六尺」百二十七回目を「日本」に載せ、これが最後の掲載となった。この日子規が口にしたのは粥とレモン水のみ。旧暦ではこの日が誕生日なので、赤飯を炊き、陸家にも配る。

十八日、官本医師を呼ぶ。陸羯南くる。碧梧桐を呼ぶ。子規、「高浜も呼びにおやりや」という。十一時頃、画板に貼った唐紙に中央から、左、右と、


糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も問にあはず

をとゝひのへちまの水も取らざりき


三句書いた。子規は三句日を書いて、筆を投げた。穂先の墨汁がかすかに白い床についた。虚子来る。鼠骨来る。碧梧桐は「ホトトギス」発行の雑務処理のため行く。夜八時前、目覚めて牛乳を管で吸う。「だれだれが来ておいでるのぞな」と聞き、律が「寒川さんに清さんにお静さん」と答える。昏睡。

夜中、うなっていた子規が静かになったので、母八重が手を取ると冷たい。「のぽさん、のぽさん」と呼ぶ。事切れていた。八重は涙を落としながら、「サア、もう一遍痛いというてお見」という。発語せず、動かなくなった息子に。律は裸足で隣の陸邸に駆けて行き、医師に電話を入れる。虚子は鼠骨と碧梧桐を迎えに行く。月がこうこうと輝いていた。友人弟子ら、葬儀と墓所の準備にかかる。

街中の寺で花見帰りの客などに酒臭い息を吹きあげられ、「これが子規の墓だ」などとステッキで指されるのは嫌だ、と亡き人が言っていたことから、宗派は違うが、墓を真言宗の田端大龍寺に決め、土葬にすることとする。十九日通夜。

二十日、子規の要望「談笑平生の如くあるべし」の通りの通夜となる。

「日本」新聞の同僚古島一雄は、「骨盤は減ってほとんどなくなっている。脊髄はグチヤグチヤに壊れて居る、ソシテ片っ方の肺が無くなり片っ方は七分通り腐っている。八年間も持ったということは実に不思議だ実に豪傑だね」(別巻②佐藤紅緑「子規翁終焉後記」)と言った。

二十一日、午前九時、出棺。会葬者は百五十余名で、根岸の狭い鶯横町を埋めた。子規の棺は、友人門人たちに守られ、日暮里の踏切を渡り、花見寺の横を通り、道灌山下からくねくねと曲がる細い道を行き、田端の赤紙仁王の前を通り、天龍寺へと向かっていった。重くはないとはいえ、棺をかつぐことからして、乞食坂を上ったり富士見坂を降りたりはしなかったと思う。

棺が家を出て間もなく、袴を裾短かに穿いて、ステッキを持った秋山真之がスタスクと向こうから歩いてきて、路傍で棺に一礼すると、そのまま葬列について寺にはいかず、子規庵に行き、香を捻って帰ったと、虚子は書いている。家に八重が残っていたので悔やみを言ったのであろう。

大龍寺に到着、穴を掘って棺を土に埋め、香取秀真作の銅板を埋めた。

「子規 正岡常規之墓 慶応三年九月十七日生 明治三十五年九月十九日没 行年三十六」

子規の死を悼む訃報は二十八の新聞に載り、たくさんの雑誌も追悼の文を載せた。もちろん、子規が社員だった「日本」の追悼集は今、全集の別巻②⑨「回想の子規」の中心をなしている。


病床の子規に月給を与え続けた隣家の陸羯南は明治四十(一九〇七)年、五十一歳で没。

「女の子供ばかり六人もいて、それが皆一芸に達した立派な人だったと聞いている。私は三番目の令嬢にフランス語を習った。女学校を卒業してからアテネフランセでフランス語を習得したというのだが、大変に出来た人だった」(河合勇『根岸の里』)。これは子規に朝鮮服を着て見せた巴である。のちに森鴎外令嬢杏奴や夏目漱石令嬢栄子にフランス語を教えたのも、廻り廻って子規の縁であろう。病床の子規を慰めた女児たちなので記しておく。

歌の弟子で子規に息子のようにかわいがられた長塚節は『土』を書いた翌年の明治四十四(一九一一)年、子規と同じく結核になり、近村の医者の娘黒田照子との縁談を「うつすとかわいそうだから」と辞退して、根岸養生院で岡田和一東大教授の手術を受けた。その後、漱石の紹介で九州帝大久保猪之吉博士の手術も受けたりしている。青木正和『結核を病んだ人たち』によれば、長塚節の結核は肺とは関係なく、唾液を飲み込むたびに痛みを感ずるという咽頭結核で、喀血もなく熱も出ないものだった。大正三(一九一四)年に病状悪化のため、東京の橋田病院に入院した際、黒田照子が見舞いにいき、二人の仲はプラトニックではあるものの、再燃したようである。見舞いに貰った花の花瓶の水を照子は替えた。


いささかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も触れてみし


これを知った照子の兄の黒田昌恵医師が激怒し、二人は引き離された。この話は千駄木にお住いの昌恵の子孫からも三十年前に私は聞いている。節は再び照子を諦め、九州帝国大学病院に入院、翌年二月八日に子規と同じく三十五歳で永眠。


明治四十四(一九二)年、内藤鳴雪を筆頭に子規の弟子たちは江戸川の料亭「川甚」に集まり、子規庵の維持保存を決議。この時、河東碧梧桐は伊勢松阪の本居宣長旧宅を見てきて子規の遺物の保存に熱心であったが、高浜虚子は「万物皆滅ぶの理は逃れぬ」と保存に消極的であったと自分でも書いている。五百木(いおき)飄亭は「その滅ぶいっぽ手前まで尽力を持って保存を続けよう」と言い、左千夫、秀真、四方太、不折、鼠骨も異存はなかった。

律は兄の死後、共立女子職業学校で裁縫を学び、やがて教師となるも、八重の看病のため、辞職し、子規庵にて裁縫塾をひらく。子規旧友会は正岡家維持費を拠出。子規庵を買い取る話もあったが、これは地主の前田家がウシと言わなあった。家賃は六円五十銭から水道が入ると十円五十銭になった。関東大震災でこの家は傾いた。この期に及んで、前田家から土地家屋とも買い取るか、立ちのくかにして欲しいという申し入れがあった。寒川鼠骨が奔走して、

アルス社から子規全集を出し、その印税などを正岡家から借用して土地家屋を買うことができた。

寒川鼠骨は大正十三(一九二四)年から毎月十九日の子規命日に子規庵歌会を開く。母八重は歌会の世話もしながら根岸子規庵で昭和二(一九二七)年、八十三歳で永眠。

地主前田家との土地売却交渉成立により、八重の生前、建物は解体され、八重や律の希望を入れて、間取りの変更をしながらも当初材も用いて復元。昭和三(一九二八)年、子規庵保存会ができる。同年から鼠骨は子規庵の隣に子規庵保存事務所管理人として移り住んだ。昭和十六(一九四一)年、正岡律死去、七十二歳。


昭和二十(一九四五)年四月十四日の空襲で子規庵も鼠骨の家も焼けた。近くに住んでいた小林高寿によれば、鼠骨は空襲警報が鳴っても、灯火を遮蔽しなかったので、警防団は文句を言っていたということである。子規の遺品は土蔵書庫に入っていて焼けずにすんだ。鼠骨は終戦後の十月に歌会を再開。柴田宵曲の尽力もあって、改造社から『子規選集』が出、その印税で昭和二十五(一九五〇)年に今見る子規庵を再建、寒川鼠骨は子規庵に寝起きする。

昭和二十六(一九五一)年の春、子規庵の留守番役の学生を募集した。それに応募したのが、早稲田の仏文の学生だった野坂昭如であった。

「子規庵に入ると、座敷に、もんぺをはいた大入道が、大の字に寝ころがり、声かけても眼覚めない。倉から、若い男性があらわれて、大入道こそ、寒川鼠骨であると教えられたのだ。ぼくが、たいへん酒好きであると判って、留守番志願は断られてしまった」(全集⑩月報)。

写真からは細面の鼠のように小柄な老人を思い浮かべるが、実際は大男だったようなのである。野坂にとって、ここにまだ子規の直弟子がいるということが感慨であった。昭和二十九(一九五四)年、鼠骨八十歳で没。庵はそれから六十年以上たついまも、子規庵保存会や近隣の人々のしずかな尽力によって守られ、公開されている。


おわり

次回は、『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)より鼠骨と古白についてのメモを


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