尹東柱の生涯(1)1917年12月30日 北間島明東村に生れる 「彼(東柱の父)は「詩的気質の人物」だったといい、とりわけ教会で公衆祈祷をするとき、彼の言葉はいかにも詩的だったという。」
1917年12月30日
北間島ブッカンド(当時は中華民国)明東ミョンドン村に生れる。父は尹永錫ユンヨンソク(明東学校教員)、母は金龍キムリョン。祖父尹夏鉉はキリスト教の長老。
いとこ(尹永錫の妹・信永の子)の宋夢奎ソンモンギュは同年9月28日に出生。
尹東柱・宋夢奎ともにキリスト教長老教会で幼児洗礼を受け、5歳まで同じ家で育つ。
2人は、1945年、同じ事件、同じ罪目をでっち上げられて、日本の福岡監獄の一つ屋根の下で、約1カ月違いでそろって獄死する。
曾祖父の尹在玉の代、移民の草創期(1900年)に北間島へ移住して成功し、農夫にとって最大の賛辞である「富者」という言葉で呼ばれるようになる。
尹東柱の家と親しくしていた金信黙(キムシンムク、1895年生。尹東柱の幼なじ文益煥牧師の母)ハルモ二〔おばあさん〕が語る、尹東柱が生まれたころの北間島の様子。
欧羅巴戦争がつづくあいだ欧羅巴では農業ができなくなったからだろうね…‥。北間島からとてもたくさん白太(バッテ大豆)を輸出したんだよ。生産しさえすれば穀物商たちがやってきてせんぶ欧羅巴へ運んだ。
・・・
穀物商たちはもっぱら白太ばっかり買っていったよ。みんな白太を植えてお金をたくさんもうけた。だからせまい土地を開墾してた人が広い土地を買い、小さな家で暮らしてた人が大きくて広い家を建てて移っていった…‥。尹東柱の家もそのとき白太をやってかなり儲かったんだ。あの家はもともとかなり裕福な家だったけどね。
尹東柱の下の弟・尹一柱(ユンイルジュ)が描く生家の様子。
わがきょうだいは三男一女だった。わたしの上に姉の恵媛ハウォン、下に弟光柱クァンジュがいる。龍井で生まれた弟光柱以外のきょうだいが生まれた明東の家は、村でも目立つ瓦葺きの家だった。庭にはスモモの木があり、屋根を上に載せた大きな門を出ると敷地につづく畑と脱穀の庭地、北側の囲いの外には三〇株ほどの杏とスモモの果樹園、東のくぐり戸の向こうには井戸があって、そのかたわらに大きな桑の木が立っていた。その井戸の向こうの東北側の傾斜の中ほどに教会堂と古木の上に設けた鐘楼とが見え、その先の東南のほうには、この村につりあわないほど大きい学校と日曜学校の建物が見えた。
(尹一柱「尹東柱の生涯」『ナラサラン』23集、ウェソル会、1976年、152頁)
尹東柱の竹馬の友だった文益煥が回想する祖父、尹夏鉉。
わたしが見るところ、明東のさまざまな人びとのなかで尹夏鉉長老は人物がもっとも大きかった。「東満〔北間島を含む満州東部をさす〕の大統領」という別号まであった金躍淵牧師よりも、人物としてはむしろ大きな人だった。なにしろ度量が大きく堂々とした人で、学問はない人ながら、学者の村である明東でたいへん尊敬されて過ごし、教会の長老にも選ばれた。人となりの幅が大きくて、学問を身につけていたら本当にもっと大きなことをしたにちがいない。
尹夏鉱は11歳のとき父母に従って北間島子洞にわたってきて、姜氏の娘と結婚、20歳のとき息子の永錫(東柱の父、1895-1962)をもうけ、その下に二人の娘、信永と信真を得る。
東柱の父の尹永錫は農夫だった曾祖父、祖父とは違った道に進む。
1909年から明東学校で新学問を学び、1913年(18歳)には仲間4名とともに中国の首都・北京に留学、人も羨む「北京留学生」となった。しかし、明東中学校卒業程度の学力では、そのまま大学に行くことはできなかったらしい。北京から戻ってからは母校の明東学校で教員になった。
1923年、再び志して東京に留学し、塾のようなところで英語を学んでいる。
彼は「詩的気質の人物」だったといい、とりわけ教会で公衆祈祷〔キリスト教会の礼拝のさい、会衆を代表して声を出してする祈祷〕をするとき、彼の言葉はいかにも詩的だったという。
日本留学中の1923年9月1日、関東大震災に遭遇。安否を気遣う妻、金龍のもとに「ネバ マインド」との電報を打つ。
1918年4月9日
明東学校新校舎落成式
1919年
3・1独立運動と明東学校の廃校令
1919年9月はじめに韓俊明ハンジュンミョン少年(のちに明東学校で尹東柱を教える)が明東に移り明東小学校に転校したとき、その実情を目撃している。
万歳運動(1919年の3・1独立運動、龍井では3月13日に起る)のとき明東学校の学生が死んだとかいうことで、ともかく中国の官憲は学校を使えなくしたそうです。学校は空っぽにして、学生たちは個人の家に集まって勉強していました。学校を使わせないよう見張るために、中国の兵隊が何人か村に入って泊まっていました。日本との関係のためにそうしたんでしょう。あとでまた学校にもどって勉強しました。そのうちに庚申年〔一九二〇年〕の大討伐のとき、学校に火が放たれたあと、またしばらく個人宅で勉強しなければならなくなったんです。
1920年10月20日
日本軍の大規模な間島大討伐により明東学校が焼かれる。日本軍が間島に入ってきて真っ先に討伐したのが明東学校だった。いわゆる「不良鮮人の巣窟」として明東学校がどれほど憎悪の対象となっていたかを実証する事実である。
(1922年、日本政府が金を出して元の形に復旧)
1920年を境に、明東学校の輝かしい名声はしだいに光を失っていく。この年、間島に来ていた力ナダ宣教師が、交通の要地である龍井に恩真中学校、明信女学校などのミッションスクールをつくり、前からあった永信、東興、大成学校などとともに、龍井が北間島における教育の中心地になった。
また1920年の日本軍の大討伐以来、北間島全域で独立運動の勢いが大きく削がれ、多くの独立軍と独立運動家がロシア領や中国本土へ亡命し、北間島を離れてしまった。
おまけに1924年、有名な「甲子年の旱魃」による大凶作のため、深刻な経営難まで重なった。
尹東柱が小学校に入学する1925年には、明東中学校はもはや運営不可能となって門を閉じ、小学校だけが明東村出身の学生のみで命脈を保っていた。
共産主義の台頭
①独立軍は、日本の討伐軍を避けてロシア領に越境していったが、再び戻って来た人たちが共産主義思想を直輸入した。
②レーニンの資金面での支援
③日本軍の暴虐からくる絶望感や中国人地主の搾取に苦しむ人々に共産主義思想が浸透していった。
つづく
《参考文献》
多胡吉郎『生命の詩人・尹東柱 『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)
宋友恵著・会沢革訳『空と風と星の詩人 尹東柱評伝』(藤原書店)
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韓国詩人ユンドンジュ (京都新聞) : 「特定の秘密を保護する」という名分の法が成立した今こそ、尹東柱の非業の死を胸に刻みたい。きょう16日は命日にあたる。
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